35…


Phase.35 有名人の凱旋


 大和さんのことを伝えたときの由衣の声は嬉しそうでもあったが、同時にすごく寂しそうでもあった。やっぱり手放しには喜べないだろう。長年ずっと好きだった相手が亡くなったと思って、ある意味その人の仇を取るために覚悟を決めて違う相手と結婚したのだから。もちろん、今の結婚相手の男性のことも由衣のことだからきちんと想いがあってのことだとは思うのだけれど、それでもやっぱり女心としてはかなり複雑だと思う。たとえ大和さんが元気でも、元の関係には戻るのはとても難しくなってしまった。


「教えてくれて、ありがとね。敢ちゃんが刑事辞めないって聞いて安心した」
「うん。きっと甲斐さんの事件のこともきちんと調べてくれるはずだよ」
「そうね。そう願ってる」


 その後、ちょっと落ち着いて考え事がしたいからと彼女が言うので由衣との電話は一旦そこで終えることになった。電話を切った後、私は少し軽率だったかなと落ち込み、入れていたコーヒーにも手をつけることができず、署内の給湯室の窓に額を預けてただぬるくなっていくのを黙って見守る。見上げた空の色は重い。

 私は無性に、今の由衣に自分と高明くんを重ねてしまっているのだった。もう元に戻れないところとか。会うことが容易ではないところとか。由衣の片思いをずっと傍で見てきただけに、肝心なところで何も支えになってやれない自分がすごく嫌になる。誰よりも彼女の境遇をわかっているはずなのに。

 とりあえず、仕事に支障が出ないようになんとか気を持ち直すべく、区切りをつけるような大きなため息をついた。ぬるくなったコーヒーは一気に飲み干して、カフェインで自分を必死に誤魔化そうとする。カップを洗って、布巾で拭いて、食器棚の定位置に戻せば、ふとあることに気が付いて思わず手が止まった。あれ、これ今日の夢で見たな、と。

 それはとても久しぶりの感覚だった。なかなか予知夢を見ること自体がなぜだか以前よりも減っていて、気付くのにも時間がかかるようになったのかもしれない。そんな長らく感じていなかったデジャビュ現象に戸惑いながらも私はこの先に起こることを思い出し、とっさに先程までもたれかかっていた窓の外を見ようと半歩下がって振り返る。そこには。


「虹だ……」


 ここ数日ずっと降り続いていた長雨がようやく上がって、雲の切間から日差しが降り注ぎ、重苦しかった空には大きな、なないろの虹がかかっていたのだった。私は小学校一年生のときに景光と見た虹のことを、反射的に思い出す。あのときはまだ予知夢を見始めたばかりで、まるでその特別な力を愛しい魔法のように思って大切にしていた。みんなが一度しか経験できない幸せを、もう一度、特別な味で私だけが味わえる珍しい魔法なんだって。そんなキラキラした気持ちを、今の今まで忘れていたような気がした。

 そして、あの日。親友と虹を見た後、まるで体に電撃が走るように高明くんと出会ったのだ。思えば、あの日から私は。


「みょうじさん?」
「は、はい!」


 ぼんやりと給湯室に突っ立っていた私は、今年入ったばかりの新米刑事に声をかけられて思わず肩がびくついた。どうしたんですか、と怪訝な表情とともに尋ねられたが、年甲斐もなく虹に見惚れていたと言うのは恥ずかしすぎるので、なんでもないよとかぶりを振る。私が夢に見たのは、彼に声をかけられるまでのことだった。

 彼が言うには、署長から署内にいる刑事全員に突然、招集命令が出たのだという。そんなことは滅多になかったので、何か事件でもあったの? と尋ねれば、彼はウキウキとした表情で「はい。超、大事件ですッ!」と言うので、私はその態度に思い切り首を傾げた。彼が嬉しくなるような大事件って何だろう。映画の撮影とかで、有名人が凱旋するとか?


 しかし、その数分後、私はその意味を完全に理解した。嬉しそうに笑みを浮かべている署長の隣。見慣れない口髭を蓄えた、見慣れた人物に息が止まりそうになる。


「えー。こちら、県警本部から移動になった諸伏くんだ。有名人だからみんな知っているとは思うが、ここと本部はずいぶん勝手が違うだろう。皆で協力して、彼が早く馴染めるようによろしく頼む」


 その場にいた私以外の全員が、県警の有名人である彼を歓迎するために一塊のような返事をした。一方の私は今のこの状況が俄には信じられず、悪い夢なら早く覚めてほしいと願う。いや、私の場合は夢であろうがなかろうが現実になるのだからどうせ同じか? と急に冷静になってみたり、いやいや、こんな出来事が現実であってなるものかと、やけに興奮してみたり……。とにかくややこしい感情になって体の機能がピタリと停止していた。本当に? 信じられない。

 そんなことを考えていると、まるで本当だと突きつけるようにように高明くんの鋭い目線が、初めて私の瞳を捉えた。その瞬間、捕獲されてしまったかのように息をすることを忘れてしまう。けれど、バチリと音がするほど目が合ったはずなのに、すぐに何事もなかったかのように逸らされるものだから、私はやっぱり嫌われているのだと合点して気まずく思いながら目を伏せた。こういうとき、いつも神様に文句を言いたくなる。お願いだから、核心をつく場面まできちんと私に夢を見せてよ。


「諸伏高明です。よろしくお願いします」


 十二年ぶりに会った高明くんはそう言って全員に頭を下げた。映画の撮影ではなかったけれど、確かにそれは、有名人の凱旋だった。

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