36…
高明くんに嫌われていると自覚した私は、あえてその地雷を踏むようにわざわざ彼に話しかけることをしなかった。大和さんに田舎扱いされた新野署内は、比べて都会でもある本部でバリバリ活躍していた彼のファンが多く存在し、幼馴染だからと言って私がでしゃばって何か特別なことをしてあげなくても、高明くんにお節介を焼きたい人たちはたくさんいる。特に、若い独身の女子はその最たるもので、なんとか彼の視界に入ろうと部署を超えてあれやこれやと花に群がる蝶のように周りを飛び交うため、完全にとばっちりながら男性チームからの彼の評判はすこぶる悪かった。
そんなだったから、一応、独身女子であるにも関わらず一切彼に靡かなかった私の好感度は本当にとばっちりながらおじさま刑事たちの中では右肩上がりの急上昇だった。というか、もともとウケはよかったので普通にしていれば今更悪くなりようもない。親父ギャグにも上手く返すし、美味しいお酒には付き合うし、ご飯を食べさせれば予想外の大食いだし。たぶんみんな自分の娘のように思って可愛がってくれているに違いないと思う。息子の嫁に来いだの何だのは、正直、ちょっと困るけれど。
そうして、同じ部署内にいるはずの私と彼を取り巻く労働環境は、実に真逆と言ってもいいほどまったく異なり、高明くんが配属されて数日は挨拶すらろくにしたことがなかったのだった。
けれど、それもたった数日の話。午後からひとりで調べ物をするために私が持っていた資料室の鍵を、わざわざ彼が取りに来るまでのことだった。
「みょうじさん。資料室の鍵をお持ちだと伺ったのですが私に貸していただけませんか」
みょうじさん? それに、自分のこと「私」って言った、今? 高明くんに出会ってから一度もそんな風に呼ばれたことのなかった私は、些細な話し方の違和感にすら虫唾が走りそうになり、思わず眉を寄せて顔を歪めてしまう。そして数日ぶりに目を合わせ……ようとしたのだが、それにはまだ少し勇気が足りなかったので引き出しから取り出した鍵をそのまま彼に手渡して、どうぞ、とぶっきらぼうに言うに留めた。それで済むと思ったのだが。
「すみません。資料室の場所を失念してしまいました」
「……」
「教えていただけますか」
こちらに熱い視線だけを送って、私の出方を静かに伺っている女子たちの視線がビシビシと痛いほど突き刺さる。しかし、どうやら他の人に聞くという選択肢がそもそも彼にはないらしく、私は調書を作っていた手を止めて、ため息混じりに大きく椅子から立ち上がった。
「ついてきてください。私もついでに資料室で探し物があるので」
「はい。よろしくお願いします」
なんだか教える側と教えられる側で昔と立場が逆になっているような。そんなことを苦々しく思いながら、目線は一度も合わせずにできるだけ早足で資料室へと歩き出した。その間、今度は彼の視線が背中にチクチク刺さってきて。もうやだ、と私は何度も泣きべそをかきたくなっていた。
資料室に着くまでは、お互いにずっと無言だった。ようやく扉の前に着いて「ここです」と言うと、鍵を開けて彼が入れるように親切にドアを支えて開けてあげる。こもっていた古書の香りがふんわりと漂い、何とも言えないはずなのに私はそれが堪らないくらい好きだ。ひとりでここで調べ物をしているときが、実は一番、好きな時間かもしれない。
「じゃあ、私はあっち側にいるので。鍵は入口の棚のここに置いておくので先に出るときは声をかけて、後に出る人が必ず施錠することにしましょう。それじゃ」
吐き捨てるように要件を言うだけ言って歩を進めようとする。けれど、とっさにぐいと力強く腕を取られた。
「……すみませんでした」
「え?」
突然の謝罪に、見ないでおこうと思っていたはずの彼の顔を思わずまじまじと見つめてしまっていた。資料室という密室で、ふたりきり、おまけに顔の距離が近い。好きな相手にされる行為としては、心臓が速くならない方がおかしいだろう。私は恥ずかしさからとっさに彼の胸を軽く押したが、びくともしない分厚さに余計に緊張した。急に、何。どうしたらいいの、私。
「刑事に向いていないと言ったことを、今、取り消させてください」
「取り消しって……」
「この数日間、みょうじさんを見ていて思いました。年上の男性刑事にも物怖じすることなく意見をしたり、かと思えば仲間として冗談を言いながら笑い合ったり。真剣に仕事に取り組んでいる姿を見て、誰よりも刑事が似合う女性だと思いました。あのときの自分が恥ずかしくなるほどに」
「……」
何も言えずに押し黙る。きっと本部にいれば見ることもなかったであろう私の仕事ぶりを褒めてくれたこと。それが、謝罪どうのこうのよりも素直に嬉しかったのだ。
「私の方こそ、忠告、全然聞けないわがままでごめん」
そう言ったところで、何だかこうして顔を突き合わせていること自体が妙におかしく思えてきたのだった。そして破顔するように笑ってしまえば、後はもう仲直り。もともと怒っていたわけでも何でもないけれど、あの日、レストランでひとり置いて行かれた私が十年以上経ってようやく高明くんに迎えにきてもらえたような気がしたのだ。いやいや遅すぎるでしょ? でもなぁ、好きだから許しちゃうんだけど。
高明くんは私の許しに安堵したように、掴んでいた手を離した。そして罰が悪そうに話を続ける。
「予知夢の方はどうですか? その件だけが、ずっと、とても心配でした」
「うーん。最近あんまり見なくなったような。でもこの前、久しぶりにどうでもいいような夢を見たよ。えっと、諸伏さんが移動してきた日」
「みょうじさん」と距離を開ける彼に習って、私も呼び名の距離を開ける。けれど、高明くんは私みたいに顔も歪めず、反応も特にないので、やっぱり私のことなど何とも思っていないのだろうと思う。どうせ石ころくらいにしか思ってないって、わかりきってるからあんまり気にもならなかった。
「ほう。どんな夢ですか?」
「いや、本当にどうでもいい夢だから」
この前、後輩に声をかけられたときと同じく何となく虹に見惚れていたと言うのが恥ずかしくて、またそこでも隠した。けれど、しつこく何度も彼が聞くから、観念して、おずおずと夢で見た内容をモゴモゴと呟く。
「虹を見つける夢だよ。ほら、どうでもいい夢でしょ」
「虹?」
「出てたの、あの日。知らなかった?」
「ええ。見たかったです、君と」
う。なんでそういう余計なのつけるのかなあ、石ころ相手にさあ……。そう思いながら必死で話を流した。こういうのは動揺したら負けだ。ビー・クール。誰よりも刑事が似合うとあの天下のコウメイからお墨付きまでもらったのだから、一刑事として、努めて冷静でいなければならない。
そろそろ資料探そうか、と言えば、はいと彼が答えてくれた。けれど、このまま別々に探すのも癪なので、仲直りついでに順番にふたつの資料を共に探すことにする。こうして高明くんと肩を寄せ合うなんて、何だか図書館で勉強していたときみたいで思わずニヤニヤが漏れてしまいそうだった。
「そういえば、あの日。レストランで君が言いたかった話とは何だったのですか」
「えっ!? え、えーっと、もう忘れちゃったよ、そんなの。あはは……」
「?」
Phase.36 げんきがでるおまじない
お互いの資料を無事に見つけた後、昼食を買うためにコンビニに行きたくて彼と別れれば、帰ってきたときにはもう既に元通り。ここ数日で見慣れ始めた光景だが、高明くんは彼を狙う女子たちに廊下で捕まり見事賑やかにワイワイと囲まれていた。どうやら誰が彼とランチに行くかで揉めているらしく、隣人を出し抜こうとする女子たちの火花は激しいくらいにバチバチと散りまくっている。うーん、さすがは大豪邸。私は数年前の景光の例えを思い出して笑いそうになり、助けて欲しそうな彼を平然と笑顔で無視してデスクに戻った。
そして、私は「よし」とひと息つき、付箋を一枚引きちぎる。それからサラサラと文字を書くと、まだ戻ってきていない高明くんのデスクにその付箋をペタリと貼って、コンビニで買ってきたばかりのものをその紙の上に置いた。名前はあえて書かなかったけれど、私からだということは明白だろう。再び席に戻って買ってきた昼食代わりのプロテインバーと栄養ドリンクをお供に作業の続きに戻った。おじさん刑事たちに可愛がられているのはいいが、大飯を奢ってもらいすぎて最近腰の辺りが太ってきたのだ。ちょっと運動もしなきゃなとそんなことを思いながら、順調に仕事を進めていく。
一方の高明はようやく解放されたことにため息を吐きつつ、自分のデスクに見慣れないものが置かれているのを見つけてピタリとその場で立ち止まった。厄介な女子からの贈り物かと一瞬は思ったが、そういうわけではない。
置かれていたのは何年も前から変わらず同じ包み紙の、飴玉のついた棒付きのいちご味キャンディだったのだから。
『げんきがでる おまじない』
付箋に書かれていた文言は子ども扱いしてこちらを揶揄うかのように全部ひらがなで書かれており、差出人の名前すらない。けれど、ひと目見ただけで確かに彼女の文字だとわかる。何年も一緒に勉強してきたから、何度もその文字の癖を見た。きっと、どこで見かけても自分だけにはわかる自信がある。
高明はそのいちごキャンディを手に持って初めてまじまじと見つめた。そして、それを置いたと思われる張本人の方を見やれば、彼女の方もまたこちらを向いていて。さっきみたいに知らんふりして視線を逸らされるかと思っていたのに、明らかにふふんと悪戯っぽく笑ってみせたその表情があまりにも可愛いすぎたから。つい、何年も空っぽだったはずの胸が何かでいっぱいになって詰まってしまう。
本部から移動してきたこの数日間、あんなことを言った自分は絶対に嫌われているのだと思って話すらしないようにしていた。けれど、もう限界だったのだ。声が聞きたくて。自分にも笑って欲しくて。数年前の過ちを容易に許してくれた優しい彼女につけ込んで、性懲りもなくまた近付きたくなってしまう。呼び方すら真似されて距離を取られてしまっている癖に、あの可愛い声でまた「高明くん」と呼ぶのが聞きたくて今も堪らなかった。
そう思った瞬間、高明は本当にまずいかもしれないと悟った。そう思ったときにはもう遅いのに、それに必死に気付かないふりをしている。なまえのことが好きかもしれない。それは妹なんていう都合のいい隠れ蓑なんかじゃなく、明らかに恋愛対象としての好きだった。