38…


「さすがにちょっと飲みすぎたかも」

 店を出て解散する前のガヤガヤとした空気の中、私は夜風に当たって早く酔いを覚ますために店先の花壇の縁に座っていた。気分が悪いとまではいかないけれど、とにかくなぜか無性にぼやぼやして。普段はここまで平衡感覚を失うこともないから、本当にただ単に酔っ払っているのだと思う。どうやらあの大和さんを飲み比べで負かしてしまったという話は伊達じゃないらしく、高明くんは私に匹敵するほどザルだった。今日も、最終的には私が飲んだ量で勝ったことにはなっているけれど、彼のことだからこれ以上私に飲ませるわけにはいかないと先に折れてくれたような気もする。それがなんだか悔しくもあり、でもそういうところが好きだった。


「大丈夫か、みょうじ」
「珍しく酔ってんなあ」
「お疲れ様です。明日、休みます!」
「馬鹿言え! ガハハ!」


 豪快な笑いに釣られて私も笑う。そうして誰との会話にも入らずしばらくニコニコとしていれば、視界の端からぬっとペットボトルの水が差し出されて思わず視線を上げた。


「本当に大丈夫なんですか? 店主の方にいただいたので、よければどうぞ」
「大丈夫。ありがとう、いただきます」


 私はさっそくキャップを開けて、一気に三分の一ほど飲み干してしまう。そして、蓋を開けたまま握っていれば、なぜか高明くんが当然のようにそれを奪って、口をつけることなく浮かせたまま飲んでしまった。たぶん彼も酔ってるし、妹のように思う癖が抜けてないからだと思うのだが、聖人君子のような出立ちでそんな荒っぽい行動もするんだ? と意外に思いつつ、いや待てこれって一応、間接キス? いやいや、それを考慮したから口はつけなかったんだろうけど? とよくわからない感情になる。すると、ずっと下のアングルからその雄々しい喉仏を見ていた私の視線が気になったらしく、少し濡れた口元を拭きながら「どうぞ」と再び水を返された。いや、返して欲しくて見てたわけじゃないんだけど。


「じゃあ、行きましょうか」
「え、どこに?」
「帰りは送ると言いましたよね」


 あ、そうだった。飲み比べですっかり記憶が飛んでいた私はとっさに立ち上がり、緊張から鞄を抱いて落ち着きもなく髪をかき上げる。すると、全方位的にいろんな人からの視線が突き刺さってくるので、もはや逃げるように苦笑しながら先に歩き出した。そんな私を見て、泥酔しているおじさん刑事たちが好き勝手野次るのだ。


「送り狼になるなよ、諸伏!」
「お前の大事な幼馴染でも、そいつは俺たちのマドンナなんだからな!」
「いやいや俺の息子の嫁だ!」
「もう、うるさいですよ、おじさんたち!」


 噛み付くように私が彼らを叱責すると、高明くんの方から吹き出すような笑い声が聞こえてくる。ジロリとそちらを振り向けば、あの切長の目で知らんぷり。あーもう、何なんだ、これ。


「行きますよ、諸伏さん。こっちです」
「はいはい」
「はい、は一回!」
「幼馴染相手に、随分と手厳しいですね」


 高明くんはそう言うと、わざと傷ついたように肩をすくめた。そうして、ふたりして歩き始めたその背中に、残っていた仲間たちから「お疲れー」という声を浴びて、私たちは歩き出したのだった。



Phase.38 このまま、ここにいたい


 先日の資料室に向かったときのように最初は会話こそなかったが、今日はあのときほど気まずくはならなかった。むしろお酒のせいか楽しくて、街灯もまばらな暗い道路をふたりで歩いて帰る状況が数年前から考えてみるとあり得なさすぎてだんだん面白くなってくる。私は車が来ないことをいいことに子どもみたいに縁石の上に立って歩き、ときどき「危ないですよ」と彼が手を伸ばすのを上からヘラヘラと見つめていた。本音言うと、その腕にしがみつきたいと思っているんだ。何年も前から。


「新野署はどう? 気に入りそう?」
「はい。とても働きやすいですよ」
「そっか。まあ、本部と比べると時間の流れはゆっくりかもね」
「そうかもしれませんね」
「大和さんに言わせれば田舎だし……。ね、ほら、見て。空。星がいっぱいでしょう?」
「……本当だ」
「いつもね、帰り道にこの星空を見ながら思うの。あー、私、ここでよかったかもなって」


 私は警察学校卒業時に出した、配属願のことを初めて彼に話した。本当は本部がよかったこと。由衣と一緒に希望を出して、彼女だけが採用になったこと。本音を言えば、ちょっとだけ由衣に嫉妬したこと。高明くんは黙ってその話に耳を傾けてくれて、それが昔と全然変わってなくて、私にとってはものすごく居心地がいい。時折、星を見上げているその表情すらもキラキラして、男の人なのになんて綺麗なんだろうと思うばかりだった。

 だから私はついペラペラと、酔った勢いもあって、たくさんしゃべりすぎてしまうのだ。


「ねえ。私が前に言ったこと、覚えてる?」
「前とは?」
「困ったことがあったら助けてあげるね、ってずっと昔に約束したよね」


 それは景光と秘密基地に行った帰り道。日も暮れて高明くんがわざわざ私を探しに来てくれたとき、彼からもらった光の粒のような飴玉を舐めながらした約束のことだった。

 ヒーローとは案外孤独で戦っているから。私はそれを知って、自分はそんな大それた存在にはなれないかもしれないと悟った。けれど、そのヒーロー自身が困っているときに少しでも力になれるのならそうなりたいと同時に願ったのだ。警察官になったのだって、結局のところそう。予知夢という特別な力も借りつつ、誰かのための元気の出る飴玉のような存在になって孤独な人をひとりでも多く支えられたら、って。

 そして、私にとってのヒーローはいつまで経っても高明くんだから。


「私、今でもそれ本気で思ってるから」
「え?」
「慣れない場所だと思うし、本当は本部に帰りたいって思ってるかもしれないけど。でも、ここにいる間は困ったことがあったら私が絶対に助けてあげるから」
「……」
「だから遠慮なく何でも言ってね。ちょっと頼りないかもだけど」


 私は微笑んで、縁石の上でくるりと振り返ってから彼の方を見つめる。そして高明くんが何と言ってくれるか期待してその返事を待っていれば、なぜだか彼はいつまで経っても何も言ってはくれず。ただ何か驚いたような目線だけがしっかりとこちらを捉えていた。その瞳は何か言いたげなのに、伝えたい言葉がわからない。

 そしてたっぷり時間を置いてから、ようやく彼の口が開く。その言葉は。


「君は、本当に……」
「……ぅわっ!」
「なまえっ!」


 けれど間の悪いことに、私は彼の言葉を聞く前に、酔っ払っていた足を踏み外して縁石の上から落っこちてしまったのだった。でもどこもまったく痛みを感じなかったのは、高明くんが上手く私を支えてくれたから。

 気が付けば暖かくて大きな腕の中にすっぽりと収まるように抱きしめられていて、それが苦しいくらいドキドキしているはずなのに、なぜだか理解が追いつかないほど懐かしいような感じもして。初めて抱きしめられた癖に、このまま、ここにいたいと本能が痛いくらいに叫んでいる。高校二年の春に伝えたかった想いが、その体温でどうしようもなくぶり返すように蘇ってしまうから。もういっそ、楽になりたくてすべてを今すぐに打ち明けてしまいたいとさえ思った。

 けれど、そういうわけにもいかないので。私は慌てて自分の考えを打ち消すように、両手で彼の胸を強く押した。そうしてできあがった微妙な距離に向かって、まるで犬が吠えるように謝罪するのだ。


「ご、ごめん……!」
「……いえ、怪我は?」
「ないです、ありがとう」


 そう言って、私は高明くんを見上げる。資料室で腕を掴まれたときよりもずっと近い距離に彼がいて、お互いの吐息すらもぶつかるのがわかった。私は気まずさを隠すように、彼のスーツについてしまったかもしれないファンデーションを照れ隠しで強めに払う。街灯が少なくて良かった、たぶんもう拭っても消えないほど「好きだ」と顔に書いてあるだろうから。


「そうだ、あの。うち。もうすぐそこなの。だから、ここで大丈夫」
「いや、しかし……」
「本当! じゃあ、また明日ね、高明くん」
「え、ええ……また明日」


 そうして、私は一度も振り返ることなく、慌てて逃げるように彼の腕から抜け出して走って帰宅した。弾む息が、走ったせいなのか、それとも不可抗力とはいえ抱きしめられたせいなのかはもうわからない。ただ玄関に入るなりずるずると、靴も脱がずにうずくまって長すぎるため息を吐いた。動揺したの、バレたかな。必死に呼ばないようにと酒の席でも気を張っていたのに、さっきはとっさに高明くんって言ってしまったような気がする。でも、もうそれを確かめて、いちいち修正することはできない。

 告白する気がないのなら、もういっそ好きでいるのをやめなきゃいけないと本気で思った。これ以上傍にいたら、仕事にも支障が出てしまいそうだし、自分の感情にも歯止めが効かなくなりそうですごく怖い。私は、自分の厄介な片思いのせいで、高明くんの迷惑になることだけはどうしても避けたかった。それに。

 大好きな人に抱きしめられて嬉しかったはずなのに、なぜか近付きすぎるのが怖いんだ。きっと彼のように優秀な人はまた本部に帰っちゃう日が来るのだろうし、そのときにまたあの日みたいに置いていかれたらと思うと寂しくて、声を上げて泣きたくなる。離れること前提で、一線を引いた方がいいかもしれない。ちょうど、また妹のようなポジションでいいから。私にはそれで十分で、もう高望みしたりしないから。

 どうか明日からも平穏に過ごせますように。一向に言うことを聞いてくれない神様に縋るようにそう祈って、私はひとまずもう一度ため息をついてから化粧を落とすために重い腰を上げて風呂場へと向かうのだった。

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