39…
慌てて自分の腕からするりと抜け出してしまった彼女を引き止めることもできず、高明は星空の下でひとり、熱の残った手のひらをじっと見つめていた。自分の父親ほどの年齢のある刑事たちと対等どころか友人のように気安く話し、指南する必要もないくらい酒豪でビール好き。おまけに話しかけてこない癖にチラチラとこちらの方を見つめては、その割に話しかけるとよく懐く。まるで気まぐれな野良猫のようだと思う。そして、そんななまえのことを好きだと思う気持ちに、もうこれ以上、誤魔化して目を背けられそうにない。
まるで降伏でもするように、高明は自分の心境の変化を認めざるを得なかった。縁石から落ちてきた彼女を強く抱きしめたとき、このままこの子を手放したくないと本気でそう思ってしまったのだ。彼女は少女のときから何も変わらないままで「助けてあげる」と言ってくれたけれど、自分だって同じように、誰にも傷つけられないように大切に守ってやりたい。もうどこにもやりたくないし、誰にも渡したくない。綺麗事を言うために、遠く離れて幸せを見守るなんてもう絶対に無理だ。自覚した時点でかなり欲深く、それほどまで好きになってしまった後だと気付いて高明は困惑してしまう。もうきっと、この感情は引き返せない。
おそらくとっさのことだったからだろう。去り際に「高明くん」と呼んでくれた声が今も鼓膜に貼り付いて、いつまで経っても離れてくれなかった。高明は口元を押さえながら、キャパシティを超えてしまいそうな感情の波をゆっくりと落ち着かせようとする。一度認めてしまえば最後、愛しく思いすぎて頭の方が先におかしくなりそうだった。
一件のメールが来たのは、ちょうどそのときのことだった。携帯電話が短い着信音を伝え、職業柄、高明はそれにすぐ目を通す。
差出人は小学校の頃から腐れ縁である大和敢助だった。どうやら今日付けで退院したらしく、明日から県警に復帰するという報告が記載されている。そして。
「『必ずこの借りは返す』か……」
高明は大和から届いたメールの最後の一文を音読し、返信もせずにそのまま携帯電話をしまった。おそらく彼の言う"借り"とは、入院先を見つけて県警に知らせたこと。そしてそのせいで高明が、実質、左遷と言ってもおかしくないこの片田舎に移動になったことを指しているのだろう。きっと義理堅い性格の彼のことだ、どうにか高明を県警に戻そうとこれから動くに違いない。戻るのなら自力でやるから大きなお世話だが、今しがた自覚したばかりの、なまえに対する気持ちを置いたまま本部に戻ることなど到底できそうになかった。
思わぬ形で新野に未練ができてしまったな、と高明は微笑が漏れた。しかし、自分はそれを未練として残しておく気は毛頭ない。「至誠にして働かざるものは、未だ之れ有らざる也」と、かの孟子も言葉にした通り、まずは彼女に真心を尽くすことにしよう。さすればきっと、この想いは届くはずだから。
Phase.39 至誠にして働かざるものは
翌日からなぜか高明くんは、私にガンガン話しかけてくるようになった。きっと今まで幼馴染ということを公言していなかったから、一線を画して、遠慮してくれていたのだと思う。けれど、翌日には飲み会に不参加だった人ですら私たちが幼馴染であることを知っていたため、もう誰にも気を使う必要もなく昔のように話しかけてくるようになったのだろう。おかげで取り巻きの女子たちは激減し、そして私を幼馴染として独占したがる高明くんのせいで、おじさまたちから嫌味たらしい愚痴を聞かなければならなくなった。
体力的な観点から、高明くんから栄養ドリンクとプロテインバーを取り上げられてしまった私は、彼に誘われたランチにてアイスコーヒーと好物のナポリタンを奢ってもらっていた。デザート付きのセットにしなかっただけ褒めてもらいたいくらいだが「縁石から君が降ってきたときはそんなに重いなんて感じませんでしたよ」と平然と言われて、とっさにあの夜のことを思い出して赤面してしまう。なんでそんなに普通にしていられるのか理解できないし、あと、私は縁石から降ってないです。ちょっと滑っただけです。
「そういえば飲み会で、息子の嫁にどうとか言われてませんでしたっけ」
「ああ、そうそう。今年大学卒業したばかりで、地元の……なんて言ったかな、とりあえず長野の企業に努めてる男の子なんだけど。勧められてるねぇ」
「……」
自分から聞いてきた癖に何の反応も見せない高明くんに「若いよね、六つも下だよ」と付け足して言えば、さらに彼は何も言ってくれなかった。でも、そういえば私と高明くんも六歳違いだから、男女の違いはあれど、自分で話しながらあり得ない話ではないのかもと思い直す。今どき奥さんの方が年上という家庭も珍しくないのだし、それに彼のことを前向きに諦めるつもりなのであれば紹介してもらうのもそんなに悪い話ではないのかもしれない。私が高明くん以外の人に好意を抱けるのかは別問題だけれども。
「まだ仕事も続けたいし、新野で結婚するのは魅力的だけどね」
そう言って力なく笑えば、言い切らないうちからまるで被せるように高明くんが話題を変える。
「警察学校の卒業時に本部に配属願いを出したと言っていましたが、もう君は本部に移動することは考えていないのですか」
「え? あー、うーん。今はないかな。もう必要がないというか……」
「必要?」
「つまり、現状に満足してるってこと」
私はそう言い切って無理やりその話を終わらせた。今は、高明くんが傍にいるから移動は考えていない。そして、たとえ高明くんが本部に戻ったとしても、そのときにはもう、今までのように必死でついていきたいとは思わないだろう。配属された新野という場所が第二の故郷的に好きになったし、それに今後は高明くんの妹でいいと思えるようになっていきたいから。
「本部といえば。先日から大和さん、本部に復帰したらしいね」
「そのようですね」
「あっ、やっぱり連絡もらってたんだ。意外と仲良しだもんね?」
「は? 誰と誰が仲良しですって?」
「いや、なんでもないです……」
私はその迫力に気圧されて、語尾をモゴモゴさせて押し黙る。当人同士は仲良しだとは思ってないだろうけれど、傍目から見れば互いの信頼感は一目瞭然だ。その証拠に先日の飲み会の日に、大和さんから私宛にも連絡が入っていた。退院したという報告と、甘い林檎のお礼と、あと、高明くんへの心配である。
『コウメイを本部に戻したい。協力してくれ』
はたして私に協力できることがあるのかはさておき、可能であれば彼の才能が一番発揮できる場所に戻してあげたいと思うことは長野県警の刑事として当然のことだった。
しかし、それにはまず彼自身の現状を尋ねる必要がある。私のように今に満足しているのであれば、私は大和さんに協力できないからだ。
「高明くんは本部に戻ること、考えてるよね?」
それは半ば、答えがイエスだとわかりきっているような聞き方だった。すると、彼はしばらく間を置いてから私にこう返事をする。
「考えていますよ、真剣に」
「……」
「どうすれば最善の形で戻れるのか、と」
そう言って、高明くんは食後のコーヒーを飲み切ってしまう。彼の言う「最善」の意味が私にはわからないながらも、とにかく戻るつもりがあることに安堵し、そして同時に私はやはり高明くんへの好意を諦めなければならないと悟った。きっと彼が本部に帰ったら、こうして気軽に会うことはないのだろうから。
そろそろ出ましょうか、と彼が言うので私たちは席を立った。そして、駐車場に停めていた車に戻る際に、遠くの方から私たちを呼ぶ声がして振り返る。そこにはあの新米刑事が、反対車線にあったコンビニで大手を振って立っていたのだった。
「みょうじさん、諸伏警部! メシですか!? 仲良いですね!」
「あはは、まあね」
「諸伏警部! 昼から俺、聞き込み同行します。よろしくお願いします!」
「ええ、よろしく」
「じゃあ、また後で! お邪魔しました!」
まるで友人の家から帰るときのような挨拶をして、彼は車で先に署に帰っていくのだった。私たちはひときわ元気な彼を笑いながら見送り、改めて車に乗り込む。話題にするのは当然、今しがた会ったばかりの元気が取り柄の新米刑事のことだった。
「昼から聞き込み行くんだ? というか、しばらく彼とバディ組むらしいね?」
「ええ、上からの命令ですので」
「おじさんたち、よっぽど私と高明くんを組ませたくないみたい」
「とんだ過保護ですね。愛されすぎにも困ったものです」
「ふふ、困っちゃうよね」
全然困っていない私は笑いながら、おじさんたちに愛されていることをあえて否定しない。だって事実だから。そして私も上司たちのことが大好きだから。いわゆる相思相愛、両思い関係なのである。
だから私がニコニコしている横顔を、高明くんがジト目で軽く睨んでいたことなんて全然気付かないのだった。
「少しガソリンスタンドに寄ってもいいですか。この車、午後からも乗るので」
「うん、もちろん」
私が頷くと、高明くんは署とは反対方向にウインカーを出す。街にガソリンスタンドは数軒あるが、すべてセルフサービスで同じ系列の店ばかりだ。ポイントカードも共通なのが何気にポイ活しやすくて嬉しい利点であると思う。
店に着いた彼は、さっそく手慣れたように給油口の扉を開けた。そしてセルフサービスのために半身だけ車から降りた後、思い出したように私にこう言うのである。
「すみません。確か署からもらったプリペイドカードがそこのダッシュボードに入っていると思うので、探してみてもらえませんか」
「オッケー」
意気揚々と、私は高明くんの指示通りにダッシュボードを開ける。すると、そこにあったものに驚いて、私は一瞬、声を失ってしまうのだった。
「っ!?」
「? ないですか?」
「ううん。あったあった。はい、どうぞ」
「ありがとうございます。では、少し失礼しますね」
「いってらっしゃーい」
私は何でもなかったかのように笑顔で彼を見送る。そしてひとりきりになった車内で今しがた見たものを呟くのだ。
「葵さんの本……」
ダッシュボードの中にしまってあったのは、三年前に亡くなった小橋葵さんの本である『2年A組の孔明君!』だったのだ。そして、私は彼がその本を持っているということに驚いたのではなく、車という常に持ち運びできるパーソナルスペースに、大切に保管してあったことに驚いていたのだ。
そして同時に、幼いときに聞いた景光の声が蘇る。
『あの人、小橋葵さんっていって、兄さんとは小学校から一緒なんだ』
『兄さんの好きな人だよ』
もしかすると、高明くんは未だに葵さんことが好きなのかもしれない。あまりに大切にされているそれを見て、私はそんな風に思ったのだった。