41…
私は資料を読みながら、いろいろなことを考えていた。当然、虎田家と龍尾家のいがみあいのことも考えていたし、由衣の潔白を証明するきっかけがないかもくまなく探していたけれど、紙を捲る以外に音がない部屋で、やっぱり隣にいる高明くんの息遣いが時折、どうしても気になって。ちらりと盗み見た真剣な横顔に学生時代の思い出を重ねては、あの頃と同じく、目が離せなくなる。
やっぱり大和さんの言う通り、高明くんは本部にいて然るべき人間だと思った。きっと私なんかじゃ役不足で、彼には一生かかっても釣り合わないだろう。だから離れていた方がいいと思うのに、ずっと未練がましく離れ難くて何度も決心が鈍りそうになる。いっそ振られてしまいたいくらいだ。あのときのように完膚なきまで、この恋を叩き潰して欲しい。
そうした葛藤を相談するのは、いつだって由衣か景光だった。景光……。そういえば、彼はどうしているのだろう。数年前から音信不通で、警察学校にいた頃に長野まで会いに来てくれてから、それ以降は一度だって会ってもいない。それにもうひとつ気になることと言えば、景光の親友であるゼロくんもまた同じく私と音信不通になっているということだった。ふたりともに嫌われるような行為をした覚えは私にはないし、もしそんな行動をしていれば私と景光ほどの仲なら互いに注意し合える間柄だと自負していた。だから、彼らに何かあったのではないかと、ずっとそのことだけが心配だったのだ。
私はもう一度、隣にいる高明くんを見つめる。兄である彼なら、何か知っているかもしれない。景光の現在のことを。
そうして捜査に二時間ほど没頭した頃、勇気を出して声をかけようとした矢先。高明くんが何か言いたげな私に気が付いたようで、先に優しい声音で気遣いの言葉をかけてくれた。
「少し休憩にしましょうか。君はここにいてください、何か飲み物でも買ってきますよ」
「あっ、待って!」
そう言って彼はこちらの返事も待たずに席を立とうとする。私はどうしても引き止めたくて、とっさに彼の腕を取った。
「あのね。今聞くことじゃないかもしれないんだけど、実はずっと気になってることがあって」
「何でしょう」
「……ヒロが今、どうしてるか知ってたら教えて欲しいんだけど」
これだけ由衣のために事件の資料を用意してもらったくせに、まったくの無関係である景光のことを聞くことが申し訳なかった。しかし、警察官という職業柄、大和さんのように何か事件や事故に巻き込まれて負傷してしまった可能性だってある。数年単位で連絡が取れないのであればなおさら、誰だって最悪の可能性さえ過るだろう。
高明くんと再会して数週間。ようやく一番知り得る人物に景光の安否を聞けて、心の中で安堵している自分がいた。東京で忙しくやってるよ、って。それだけ彼の口から聞ければ満足だった。なのに。
彼から言い渡された返事を、私は予想だにしていなかった。
「残念ですが。数年前に『警察を辞めた』とこちらに連絡があったきり、景光とは音信不通です」
「警察を辞めた?」
「ええ」
嘘でしょう? あの景光が警察官を辞めたなんて、俄には信じられない。
確かに彼の両親の事件は彼自身の手で解決に至り、自分の中で抱えていた最も大きな問題はおそらく消化できただろう。けれど、その事件が起こる以前からヒーローになることは彼の夢だったはずだ。ミッちゃんと仲良さそうに約束しているのだって見たし、最後に一緒に秘密基地に行ったときだって「ケイサツカンになったよ!」と誇らしく、容易く消えないように刻みつけていたことも私は鮮明に覚えている。そんな人物があまりにも簡単に捨てるようにその職を辞めただなんて。絶対に信じられない。
「心配しないでください。きっと無事ですよ景光は」
「どうしてそんな簡単に言い切れるの、音信不通なんでしょう」
「君が配属願いを出したように、警察学校に所属する学生らは、卒業後、スカウトのような形か、それぞれ希望を出して様々な部署に配置されます。あくまでこれは推測ですが、景光はその中で公安の所属となったに違いありません」
「公安……!?」
「正式には警視庁公安部。親類にすら自分が所属することを話してはならない、特殊な組織です」
その推理に私はまず驚いた。自分では考えつかないような返答だったからだ。しかし、なるほど。考えれば考えるほど、それなら彼の音信不通にも説明がつくような気がする。もちろんゼロくんも含めて。
信頼のおける高明くんから公安というワードを聞いて、私の心は一気に安堵でいっぱいになった。大きな負傷や殉職などに関して言えば同じ業界にいる分そういう話も耳に入りやすいが、長野と東京では距離があるし、そういう可能性もなくはないだろうと気を揉んでいたのだ。そうした想像を「元気で公安にいるかもしれない」という一縷の希望で、払拭することができるのだから。
高明くんはうっすらと微笑んでいた私に、眉を下げて尋ねる。
「君は、やっぱり景光のことが好きなんじゃないですか」
それを聞く高明くんの表情はとても真剣だった。ところが私が首を振る前に、彼が先に首を振る。
「いや、やっぱり答えなくていいです。確か、以前も同じことを聞いてしまったので」
彼はそう言うと席を立ち上がり、再び何か飲み物を買ってくると申し出る。私はそれをまた静止して、慰めるように首を振った。
「ううん、いいの。何回聞かれても答えは同じ。ヒロとは友達、大親友だよ、ずっと」
それから由衣もね、とそう付け足して、私は読んでいたファイルを閉じた。夕食も碌に取っていない上に、これ以上、彼に残業させるのは悪い。なので、夜食や飲み物は買わずに捜査自体を一度打ち切りにしようと提案したのだった。高明くんは少し引き下がったけれど、私がそれを許さない。刑事は体が資本なのだと、先日栄養ドリンクを取り上げられたときに彼にそう言われた言葉をそっくりそのまま返すと、それ以上、高明くんは何も言ってこなかった。
Phase.41 真心を尽くす
自動販売機でそれぞれ飲み物だけ買って、そこから駐車場までは名残り惜しむみたいにゆっくりと歩幅を合わせて一緒に歩いた。車がないのなら送ると言ってくれたが、生憎のマイカー通勤である。新野という土地は車がないとやっていけないでしょと言えば、完全に同意された。でも、待ってて。私が高明くんを本部に返してあげるから。そういう気持ちで、ふふと笑う。
「今日は由衣のためにありがとう。引き続き、もう少し私も追ってみるね」
署の出入り口から彼の方が近い位置に車を停めていたので、私は高明くんに先に車に乗るように促した。エンジンをかけて、運転席の窓を全開にしてくれた彼に別れの挨拶をするために少しかがめば、高明くんは少しだけ間を置いて、平然とした態度で言う。
「虎田由衣さんのためではありませんよ」
「え?」
「君があまりにも不安そうな顔をしていたから、つい、放っておけなくて」
高明くんはそう言うと、窓から私の頭に手を伸ばした。そして頭のてっぺんから髪の先まで、まるで慈しむみたいに彼の手が滑る。その、あまりに突然の行動に胸がキュッとしたせいで、私は何も言い返せない。けれど、そんな私に追い討ちをかけるように彼が言う。
「僕は、君に真心を尽くすと決めたので」
まるで射抜くような視線にそう言われ、思わず私は固まってしまった。人称も、対外的な「私」から昔と同じく「僕」に変わっていて、否が応にも昔のことを思い出す。必死で彼のことを追いかけ続けていた、あのキラキラした日々のことを。
では、お先に失礼します。気を付けて。とそう言われて、彼の車は先に走り出した。残された私はふわふわとした気持ちまま傍に停めていた愛車に乗り込み、微かに震える指でエンジンをかける。どうしよう。まだ、ドキドキしている。
暗がりの車内で私は出発することができず、アイドリングしたまま彼の言った「真心」の意味を深く考えていた。真心。それは、誠実さ、飾りのない心、尽くしたい気持ち。そういう意味だったと思うが、彼のその根源が何なのかはわからない。どうして私にそこまで尽くそうと決めてくれたのか。今の私には都合のいいようにしか解釈できないから。
いや、それは今だけじゃないか。
結局、いつまで経ってもそう。だからなかなか気持ちが消えないんだ、たぶん永遠に。
数日後。その後の連続殺人を食い止めることこそできなかったが、大和さんの決死の捜査もあり、また、あの眠りの小五郎と浪速の名探偵の活躍で事件は解決へと向かったという。由衣の潔白は自然と証明され、大和さんの呼びかけもあり、彼女は再び県警本部に戻ってくることになった。私的には高明くんともう一度ふたりだけの捜査会議を持つことはなかったことだけは少し残念だったけれど。由衣の苗字が上原に戻ったと聞いて、電話帳をそのままにしておいてよかったと思ったことは彼女には秘密にしておこうと思う。