43…


 刑事の仕事はその業務に殺されてしまいそうなほど忙しく、私は事件資料に目を通しながらまたも高明くんに隠れて強カフェインの栄養ドリンクをミニストローで飲んでいた。ストックや空き瓶がデスク付近に置いてあると一発でバレてしまうので、一番下の大きな引き出しの中に周到に袋を分けて入れてある。しかも、パッと見られてもわからないようにパステルカラーの透けない袋だ。私は最後の一滴までズズッと吸い込むと、ストローを口に咥えたままその引き出しを開けて証拠を隠滅するようにゴミをまとめる。くぅ、この全身に栄養が染み渡り、頭が冴え渡るような感覚。やめられないッ……! でも、由衣には以前「栄養ドリンクは元気の前借り」とか言われたような気がするので程々にしておかなきゃとは思いつつ、私は口に咥えていたストローをそのまま差し替えようと本日二本目に手を伸ばし……。


「君という人は」
「あっ」


 そのストローは高明くんのしなやかな指先に摘まれて容赦なく近くのゴミ箱に捨てられてしまった。そして、お見通しとばかりにどっさりとした質量を誇るパステルピンクの袋も引き出しから奪われ、ため息まじりに真上から呆れたように見下ろされる。けれど、さすがは高明くん。私のデスクの上にサッと棒付きのいちごキャンディを代わりに置くものだから、まるで偽物とすり替えて宝石を奪ってしまうどこぞの怪盗のようだった。


「君にはこれがお似合いです」
「こんなの舐めながら仕事してたら怒られるよ、たぶん」
「しかし、君曰く『元気が出るおまじない』なのでしょう?」
「ぐっ」


 それは以前、私が高明くんに残した言葉とまったく同じフレーズだった。私はさすがに返す言葉がなくて、仕方なしにそのままパソコンに向かう。高明くんは静かに笑っていた。


「ところで、今日の予定はどうですか」
「今日? ああ、今日だね。葵さんの命日」
「ええ。せっかくこの場所に配属になったのですから、あの館へ花を供えに行こうと思うのですが」


 私は上司であるおじさん刑事のうちのひとりにもらった、自宅で飼っているという愛犬の写真付きカレンダーにとっさに目をやった。ひと目で今日が何月何日かわかるようにバツ印がついているそれは、今日が葵さんの命日だということを知らせている。

 三年前の今日、彼女は自宅である館の倉庫で冷たく息を引き取っていた。夫であるイラストレーターの明石周作氏に送られた自画像を自分の誕生日にあわせて飾るために探している最中に起きた持病の心臓発作で、アトリエにこもっていた夫が見つけたときにはもう既に死後半日が経過していた。

 希望の館とは、もともとある資産家が所有する大きな館であったが、お金がなく才能溢れる若者を数名集めて住まわせていたことがきっかけで「希望の館」と呼ばれるようになったという。そこからそれぞれが各分野で目覚ましい発展を遂げ、無事に巣立ち、葵さんと明石氏が結婚して館を譲り受けたというわけだった。けれど、葵さんが亡くなってしまった後は、その美しかった名前すらいたずらに「死亡の館」ともじって呼ばれ、五丈と呼ばれる森の奥深くにあることからそこに用事のない者は誰も近付かない寂しい場所として、我々、新野署は把握している。

 そんな彼女の本を後生大事に所持している同級生の諸伏高明という人物なら、今日という日にわざわざその館に出向いて、花束を手向けたがることも当然だと思った。しかし、なんというか。彼が葵さんを想って悲しんでいる姿を私は積極的には見たくなかったのだ。自分でも亡くなった人に嫉妬するなんて心が狭いとは思うものの、一ミリもないとは言えない私の身勝手なヤキモチのせいで彼の清廉な祈りを妨げたくもない。なので、私は彼に向かって首を横に振る。


「あー、私はまた改めて行こうかな」
「そうですか」
「どうせこれから新米くんと聞き込みでしょう? 寄ってきていいよ。近いから」
「はい。では、そうさせてもらいます」


 はいはい、と軽い返事でこの新野においては私の方が先輩であることをいいことに、あの天下の首席殿に向かって先輩面した指図をする。その後ろ姿を見送ってから、私は置かれていた飴玉を手に取って見つめた。


「ごめんね、葵さん」


 素直になれなくて。それは彼女から"あの日"に教えてもらったことに、背くような行動だった。




Phase.43 不遜ならんよりは寧ろ固なれ



 高明くんから新野署に連絡が入ったのは、その約三時間後のことだった。推しである刑事長が大きな声で驚いたように話をしているので、その場にいた全員がなんだなんだとそっちを見やる。野次馬根性は嫌いだけれどあまりに声が大きいのでつられて私もそちらを見れば、次に聞こえてきたのは「あ!? 死体ダァ!?」という耳を疑う言葉だった。


「死体……?」
「おい。今、手があいてる奴いるか」
「はい、あいてます!」
「よし、みょうじ。俺と来い。希望の館に行くぞ」
「希望の館?」


 それはちょうど三年前の今日、葵さんが亡くなった場所で、今、高明くんが出向いているはずの場所でもあった。私は驚きながら白髪混じりの彼の後ろについて早足で歩き出し、吠えるように現場の状況を聞き出す。


「俺にもまだ詳しくはわかんねえよ。ただ、そこに住んでる明石という男が部屋の中で死んでいるらしい。中から開けることができないように、外開きのドアの前には大量の本を詰めた段ボールが置いてあったそうだ」
「それって、他殺じゃないですか!」
「ああ。諸伏の見立ても同じく殺しだってよ。あの"死亡の館"でな」


 一応、俺から県警本部にも通報しておくから、所轄の俺たちは本部様が到着するまでの現場保存が主な仕事だ。そういう話をしながら私たちは捜査車両に乗り込む。もちろん私が運転し、すぐさまパトランプを点灯させて緊急走行を始めた。初めてというわけではないけれど滅多にないことなので、サイレンを轟かせて走るなんてこの村には似つかわしくない風景であると流れていく景色を見つめながら思う。

 本部に通報するということは、大和さんたちが来る可能性があるということだった。事件現場で彼らに遭遇することはさすがに初めてで、所轄より本部の方が立場上は優位にいるために見知った顔とはいえ身の引き締まる思いがしてしまう。けれど本部に事件を引き渡して、あとはただ指を咥えて見ているだけなんて絶対に嫌だ。現場保存という仕事も確かに大事かもしれないけれど、それよりも葵さんの主人が何者かによって殺されたということの方がショックが大きくて。解決したいという絶対的な正義感が胸の奥で膨れ上がる。

 でも、きっとその正義感は今、現場にいる高明くんの方が比べ物にならないくらい大きいだろう。自分がかつて好きだった人。いや、今もずっと想い続けている人にまつわる事件なんて。





 結論から言えば、到着した現場の状況は異様なものだった。死体は完全に衰弱して数日が経っており、椅子に座って力尽きるようにして亡くなっている。目立った外傷はなし。アトリエとして使用していたらしい部屋の外開きの扉の前には成人男性でも抱えることできないほどの量が詰まった本が六箱、台車に積まれて放り出されており、葵さんの書斎だったと思われる部屋の本棚から書籍類がごっそり抜かれて詰め込まれていたのだった。

 そして最も異様だったのは。


「赤い壁……」


 なぜか赤いラッカーで塗り潰された、入って左側の壁。そして中央にはそれぞれ白と黒に塗られた二脚の椅子が背中合わせで鎮座しており、なぜか床に釘で打ち付けられている。おそらく被害者が残したダイイングメッセージと思われるが、その意味するところはまだ誰にもわからない。


「ここの状況にはどうやって気付いたんですか」


 初めて人の死体を見てパニックになって気分を悪くした新米刑事の傍に上司がついたので、私と高明くんは本部の刑事が来るまでふたりで捜査を始めていた。私の質問に、高明くんはこの部屋で唯一の小さな窓を指差す。その窓ははめ殺しで開けることはできず、なぜか内側から割られていた。


「私が館に来たとき、この部屋の窓の下、屋敷の外に彼のものと思われる絵の具やラッカーが散乱していました。ここに赤いラッカースプレーしか残っていないことを踏まえると、これ以外の色が付けられる道具すべてがあの窓から投げ捨てられていたようです」
「それほどまで、この赤に意味があるということですね」
「ええ。正確には、壁の赤と、二脚の椅子である白と黒ですね」


 赤と、白と黒。被害者の名前は確かに「アカシ」で赤がつくけれど、もしかして関係があるのだろうか。そういえば、かつてここに住んでいた各界の卵達は名前に色が含まれており、その色の名前で互いを呼び合っていたと葵さんから聞いたことがある。明石氏は赤で、葵さんは青。他に色の名前がつく、かつての住人たちに聞き込みをしてみるのもいいかもしれない。

 なぜなら、この明石氏が亡くなった状況が、まるで三年前に葵さんが亡くなった状況に酷似しているからだ。倉庫に長時間放置され、延命が間に合わなかった彼女に。


「似ていますよね」
「え?」
「三年前に彼女が亡くなった状況に、ですよ」


 そう言って、高明くんはその目を伏せた。その横顔があまりにも寂しそうだったから、私は胸が詰まって何も言えなくなる。やっぱり、そうだ。高明くんは葵さんのことを今でも……。


「よォ、コーメイじゃねぇか!」


 そう言って大声で部屋に入ってきたのは長野県警本部の大和敢助。そして、先日刑事に復帰したばかりの親友の由衣だった。


「敢助くん。退院おめでとうございます」
「ケッ! 全然めでたい場じゃねえだろ」
「なまえ、この前ぶりね」
「私も大和さんに同意。再会はビール片手の方がよかったな」
「言えてる」


 これだけ共通の話題で名前の出やすい関係だったのに、四人揃って顔を見合わせるのは何気に初めてのことだった。私はそのことを感慨深く思いながらも、ここが居酒屋でないことだけがどうしても悔やまれる。さっきまで元気がなさそうだった高明くんにちらりと横目で視線を送れば、彼はもう普段通りの顔色をしていた。


「じゃあ、所轄はこの辺で帰っていいぞ。あとは俺たち本部で捜査を……」
「奢れば則ち不遜なり。倹なれば則ち固なり。その不遜ならんよりは、寧ろ固なれ」
「ああ?」


 大和さんが不満そうな顔をして口の端を曲げた。難しい言い回しを好む高明くんの口から唐突に出たその論語と思わしき名句を、私は解く暇もないまま彼が続ける言葉に耳を傾けた。


「本部という優位な立場にいれば、所轄という我々にもその傲慢がまかり通ると思っているのですか。立場に我慢する我々の態度をいっそう頑固なものにさせるとも知らずに」
「何だと?」
「しかし、傲慢になるよりはむしろ頑固な方が性に合います。……我が新野署内で起きたこの事件、君たちに譲るわけにはいきません」


 あまりにもはっきりと、本部の人間に楯突く高明くんに同じ所轄の人間として見惚れてしまう。けれど、気持ち的には私も同じ。葵さんが絡んでいるこの事件を、頑固に、本部だけには譲りたくなかった。

 凄惨な殺人現場で、そうした睨み合いがしばらく続いた。だが、それを仲裁したのは新米刑事に付き添っていたはずの私の上司であった。


「諸伏、みょうじ! こっちへ戻って来い!」
「でもっ」
「いいから来い! 始末書書かせるぞ!」
「うっ」


 始末書。私はその単語に怖気付き、つい一歩下がってしまう。対する高明くんは自分のプライドのためなら始末書くらい何枚書いたっていいと思っているはずだが、彼らしくない吐き捨てるようなため息をついて現場から立ち去った。私は懸命にその後を追う。


「ねえ。今日のところは一旦引いて、一度、冷静に仕切り直そう」
「生憎ですがお断りします。始末書なら何枚だって書いてやりますよ」
「あー、もう。ちょっと落ち着いて!」
「諸伏、みょうじ!」


 涼しい顔をしているくせに、怒りで頭に血が上っているらしい高明くんと私を引き止めた上司は、先ほどの一部始終を見ていたらしく腕組みをして呆れていた。後ろの方では高明くんとバディを組んでいた新米くんが真っ青な顔をしており、とてもではないがこれ以上の捜査には協力できそうにない。

 きっと本部の人間に口ごたえしたことを怒られるのだろう、そんな風に思って高明くんの隣でしょげていれば、おじさま上司は私たちに予想外の命令を出してきたのだった。


「お前ら、今日から組め」
「え?」
「本部の言いなりなんて俺もごめんだ。昔、ここの住人だった人間にこれから聞き込み行って来い」


 私と高明くんはその思わぬ指示に顔を見合わせた。しかし、上司はケラケラと愉快そうに笑う。


「新野でこんなにデカい事件は俺の長い刑事歴で初めてなんだよ。始末書どころか退職願だって何枚でも書いてやるから、お前らが納得できるまで行ってこい」


 じゃあ、俺はあの新米連れて帰るから。とそう言って、私が乗ってきた捜査車両にグロッキー状態の彼を乗せてあっさりと去ってしまった。前々から大好きだったけど、私がよりいっそう推しの上司にクラクラと惚れそうになっていれば、隣にいた高明くんがイマイチ微妙そうな顔で私の方を見ている。なんだい、別にいいじゃん。


「では、行きましょうか。まずは翠川さんの自宅から」
「住所は? わかるの?」
「箱の中に詰められていた本の出所を調べる際、葵さんの書斎にかつての住人たちの住所録がありました。行きましょう」
「うん!」


 絶対にふたりでこの事件を解決しようね! そんな意気込みを元気よく口にすれば、隣で彼がうっすら微笑む。本当はさっきから葵さんのことで傷つきまくりなんだけど、私が馬鹿のふりして笑顔でいれば、高明くんが笑顔でいてくれるから。こんな馬鹿な私を頭のいい彼が好きになってくれることなんて絶対にないけれど、もうそれでいいかもしれない。元気で、笑って、隣にいてくれるなら。

 高明くんがアクセルを踏む。私は助手席から窓の外を見て、なんか、ちょっとだけ。強がっていた癖が緩んで目の奥が涙で滲んでいた。

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