48…


 ふと気が付けば、私は希望の館にある赤い壁の部屋にいた。突然現れた、眼前に広がる異様な赤に驚いて周囲をキョロキョロと忙しなく観察する。割れたままの窓。血文字のサイン。足元に釘付けされた白と黒の椅子。あれ? いつの間に、この部屋に来たんだっけ。そう思った瞬間、まるで閃くみたいにこれは夢だと気が付いた。

 夢が夢だとわかる、所謂「明晰夢」を見るのは久しぶりのことだった。私は夢なりに何らかの事件の手がかりがわかるのかもしれないと、期待を胸に部屋をくまなく歩き回ってみる。だが、そんな私の期待を神様が嘲笑って裏切るかのように何も変わったところはない。昨日、大和さんたち本部組と毛利さんたちと出会った、あの謎多き現場のままだ。なーんだ、と私は落胆して被害者が亡くなっていた白い椅子に雑にもたれかかるように腰掛ける。見つめた、赤い壁の意味。特異な夢の中であっても、残念ながらそれが閃くことはない。

 するとしばらくして、なんとそこに高明くんが入ってきたのだった。夢だからか持ち物が何もなくて今が何時なのかすらわからなかった私はとりあえず元気に立ち上がり、いつも通りの明るい笑顔で彼に「おはよう」と言ってみる。けれど、その声は残念ながら彼には届かなかったようで、一瞥もくれることなく部屋をうろついた後、彼もまた壁を見つめながら白い方の椅子に足を組んで腰掛けた。まるでこの部屋にひとりきりでいるみたいな態度だった。

 瞬間、私はその反応に鳥肌が立つほどの覚えを感じた。今、私は確かにここに存在しているはずなのに、高明くんにはその姿がきっと見えていない。声も届いていない。まるで、ここで哀しく死んだ幽霊のように誰にも視認されないまま浮いている。それは奇しくも彼の両親が殺された事件のときに見た夢と同じ。また、私はただの傍観者だった。

 途端、猛烈に嫌な予感がした。私は何とか高明くんに気付いてもらおうとその辺にあったものに手当たり次第触れてみるが、やはりあのときと同じくその手は虚しく宙を掻くのみで。なんでと困って泣きそうになっていれば、急に彼が立ち上がり、何かを探すみたいに再び部屋の中をキョロキョロとし始めたのだった。これには私も不可解に思い、何かわかったのかと話しかけることもできないくせに縋るように彼の方に近寄ってみる。そして、携帯電話を取り出し、どこかにメールを打ち始めた彼の後ろに立って、失礼してその文面を覗き込んでみた。

 その内容に、驚いてしまったのだ。


「死せる……孔明……?」


 その瞬間、背後からブンッと風を切る音が聞こえ、そのままコマ送りのように彼が前方に倒れた。ほんの一瞬の出来事だった。じわじわとその頭から流れ始める血に気が動転し、私は動けなくなる。まるで凍りついてしまったみたいに。

 いや実際、本当に動くことができなくなってしまっていたのだった。まるで金縛りにでも遭ったかのように、自分の意思で指一本も動かすことができない。本来であれば刑事として、高明くんにこんな傷を負わせた犯人が誰なのか確認すべきはずなのに。なぜか振り向くことも、視線を動かすことさえできない。ただ、犯人の荒々しい息遣いだけが気持ち悪いほど耳に残った。

 高明くんはその体を横たえ、今にも冷たくなろうとしていた。頭から血はどんどん失われ、何も触れられないはずの私の足元まで温度すら感じられるほど赤黒い液体が流れ着いていた。その光景を見ているのに手を差し伸べて助けることも、犯人を取り押さえることもできず、ただ突っ立っているだけ、なんて。どんな拷問よりもひどくて気が狂いそうになる。

 高明くん。待って、死なないで。

 もう嫌だと発狂しそうになった瞬間、私は我に返るように思い出した。そうだ、これは夢なんだった。激しいほどのリアリティで迫ってくる夢を私は死に物狂いで追い払うように、こんな夢なら早く覚めて欲しいと願う。覚めろ、覚めろ、覚めろ! そんな風に思っていると、何の弾みか急にギュッと目だけが固く閉じることができるようになった。

 暗転。




 次第に体の内側から末端まで、吹き戻すみたいに力が戻っていく感覚がした。私は恐る恐る再び目を開けてみる。そこには当然高明くんはおらず、昨日彼に送ってもらったいつも通りの私の部屋の寝室が目の前に広がるのみだった。

 私はすぐさま飛び起きて、今の時間を確認した。時刻は朝の六時。まだ早い時間だけれどそんなことを気にする時間も惜しいほど心配で堪らなくて、気付けば迷惑を顧みず枕元に置いてあった携帯電話から高明くんに電話をかけていた。

 通話は意外と早く繋がった。


「もしもし?」


 私は高明くんの声にひたすら安堵して、声も出さずにポロポロと涙を流した。間に合った。その事実だけで幸せだった。けれど、こちらから電話をかけたくせに何も話さない私を不審に思ったのか、彼は私の名前を不思議そうに何度か呼ぶ。「なまえ。まさか寝ぼけてかけてきたんですか?」と。途端に薄く笑う彼の顔が思い浮かんだから、私は必死に涙を拭いて、彼に再び「おはよう」と言った。起きてたんですね、と明るく笑ってくれる彼を、絶対に死なせてはいけない。私はそう思い、強い気持ちで乱暴に最後の涙を拭って自分自身を奮い立たせる。


「おはよう、高明くん。うん、おはよう」
「?」
「あのね。今日、朝イチで直木さんの家に行くでしょう? 私、自分の車で行くから」


 私は毛程も泣いていたことを悟らせないように、はっきりと強い語気でそう言い放った。


「それは別に構いませんが、何かあったんですか」
「ちょっと風邪気味みたいだから、病院に寄ってから行こうと思って。だから、高明くんは直接、彼の家に向かってくれる? 移動するときにまた連絡くれたらいいから。特に、館に行くときは絶対に連絡してね。昨日、大和さんたちがいて、ダイイングメッセージのことじっくり考えられなかったから私も合流したいし」
「了解です」
「じゃあ、また後でね」


 あっさりと電話を切った後、我ながらこういうときに限ってよく嘘がつらつらと言えるものだなと感心した。でも、そういえばもう何年も高明くんへの気持ちを隠し続けているんだ。今さら本音を隠すための嘘が息をするみたいに言えてもおかしくはない。

 風邪気味というのも嘘だし、合流したいというのも嘘。私はこれからあの館に行って、高明くんを殺す犯人を取り押さえる気でいる。もちろん、たったひとりで。


『もし、何か些細なことでも事件に関する夢を見たら、必ず僕に教えてください。いいですか、必ずですよ』


 そう念押しされたことは記憶にも新しいが、生憎、それに従う気は毛頭なかった。夢の中とはいえ、高明くんを殺した人物を私が許せるはずがない。それに、一緒にいればまた彼が襲われる可能性だってある。死せる孔明、と自分の死期を予測していたのならなおさらだ。


「待ってて、高明くん。私が助けてあげるからね」


 それは過去の私が、泣けない高明くんにしてあげた唯一の約束だった。私が高明くんのことを助ける。だって彼はこれからもっと活躍する、誰からも必要とされるヒーローなんだから。私はそう呟いて、希望の館に向かうための身支度を始めた。

 それが始まりだったのだ。



Phase.48 本当に馬鹿な嘘つき


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