平行世界の本
ららは暇なとき読書をする。読書家というわけではないがこれまでの人生は“暇なとき”が他の人より多かった。施設でも一日の大半は読書をして過ごしていた。といっても許可が下りた限られたものだけだったが、それでも退屈で気が狂いそうな毎日から目を逸らすことはできた。執行官になってからは読書家の狡噛の影響もあり、今まで読んだことのないジャンルも読むようになった。だがダウンロード版ではない紙の本は手に入りにくく、その多くは狡噛が読み終わった本を借りていた。
それがどうやら、こちらでは槙島から本を借りているらしい。
「飲み物どうします?」
「紅茶をもらえるかな」
ららはソファに槙島を残して一人キッチンへ向かう。慣れ親しんだ自分の部屋に槙島がいるのはとても不思議な感じがした。彼が部屋を訪ねてきたときは心臓が飛び出るかというほど驚いたららだったが、本を読み終わったという言葉でどういうことなのか理解した。キッチンはあまり使っていないこともあっていつも片付いている。だが紅茶はあっただろうか。ららは水か緑茶しか飲まないし、狡噛が来たときもどちらかを出していた。
「あれ…ある」
戸棚を探してみると大量の紅茶のティーバッグがすぐに見つかる。一見分かりにくいが、部屋にあるものにも多少の違いがあるようだ。ららはそのティーバッグを使って紅茶を二人分淹れると、槙島のいるリビングへ運んだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
ローテーブルに紅茶を二人分置き、ららも向かい側のソファに座る。
「はい、これ」
槙島からどこか聞いたことのあるタイトルの本を渡され、それを受けとる。発行年を見ると随分昔の本のようだが一体どこでこの本のタイトルを聞いたのだろう。しかも初版ときた。パラパラと軽く内容に目を通してみる。
「あ…」
思い出した。以前、狡噛が読みたいと言っていた本だ。しかし随分前に絶版になっていて入手できなかったとも言っていた。それを槙島は持っているらしい。
「きっと気に入るよ」
槙島は流れるような動作で紅茶を飲んだ。住み慣れた部屋なのに槙島がいるだけで随分と様変わりして見えるものだ。まだ槙島のことはわからないことばかりだが、彼に類い稀なカリスマ性があることはららもすでに感じていた。元の世界で彼に協力者が大勢いたのも頷ける。きっとこの本を入手するのも彼ならば容易だったことだろう。しかしららはまだ槙島に慣れることはできず、目を伏せて紅茶を少しだけ口にする。その様子を見て槙島は困ったように笑った。
「出会ったばかりの頃に戻ったみたいだな」
「…すみません」
「謝ることじゃないけど、でも、少し寂しいよ」
「え…?」
寂しい、という予想外な言葉にららは驚き、顔を上げた。
「そんな意外そうな顔をしなくても」
「あ…えっと、驚いちゃって。槙島さんでも…寂しいとか思うんだなぁって。結構一人でいる時間、好きなのかと」
槙島は必要以上に干渉せず、どこか他人と距離を取っているような印象を受ける。それに今でもやはり槙島からは人間味をあまり感じない。物腰は柔らかくよく気がつくし、執行官のららにも優しいのだが、どこか浮世離れしている。今も同じ人間とは思えないほどの綺麗な微笑みをららに向けていた。
「嫌いではないよ。読書は一人でするものだし。でも、孤独や寂寥というのはまた別物だ」
「なるほど…」
「ららは僕を知ろうと、理解しようとしてくれた。僕はそれが嬉しかったんだ。こうしてららと一緒に過ごすのも好きだよ。今は紙の本を読む人が少ないから同じ本を読み、感想を言い合える僕は至極恵まれているんだろうね」
槙島は自分のことを至極恵まれてると言う。しかし、彼の美しい瞳はどこか遠く、もしくは暗闇を見ているようで、未だ自分の中にぽっかりと空いている穴を自覚しつつ、その穴を埋める手段を探し求めているように見えた。
「槙島さんの孤独は今はどうですか」
寂寥感と孤独は似ているが、恐らく彼は二つを分けて話している。ららが問うと槙島は寂しげに微笑んだ。
「僕は…自分に厳しく、他人に優しいと思うかい?」
急に話が変わりららは首を傾げた。しかし槙島がなんの意味もなくそんな話を振ってくるはずはない。自分に厳しく他人に優しく…ららは今現在わかっている槙島聖護という人間について整理してみる。槙島は読書量に比例するように知識が豊富で、何でもよく知っている。本人は好んで読書をしているがそれを勉強熱心だと言う人もいる。体を鍛えることを欠かさないというのは佐々山から聞いた。さらに執行官並みの捜査能力があるとなれば、自分に厳しくないはずがないだろう。他人に優しいかどうか、という点についても少なくともららには優しいし、執行官を捨て駒のように扱うこともしない。今のららの知る限りでは槙島聖護という男は自分に厳しく、他人に優しい。
「私からは、そういう風に見えますけど…」
「…そうか」
槙島は少し残念そうに目を伏せて言った。何かいけないことを言ってしまったのだろうかと小さく頭を下げる。
「あの…その、すみません…」
「…ふっ、あはは」
しかし、ららが謝ると槙島はこの重い空気を切り裂くように軽快な笑い声を上げた。何をそんな笑うことがあったのだろうかと戸惑うららだったが、思い当たることは何もない。でも、いつもは人形のように表情があまり変わらない槙島が見せる笑顔はららが想像もしていなかったほど無邪気なもので思わず見入ってしまった。
「あはは…ごめん。本当に今日はどうしたんだい?まるで借りてきた猫だな」
「そ、そんな言い方しなくても!」
「本当に昔に戻ったみたいだ…。ららは執行官になりたての頃、よくギノに怒られていたよね」
槙島の言ったことは元の世界でも通じることだった。研修を受けたとはいえ実際の現場ではどう動けばいいのか分からず、オロオロして宜野座によく怒られていた。ビジネス文書を書いたことも学んだこともなかったららの報告書は毎回のように宜野座に小言を言われて再提出を求められていた。あの頃は宜野座が恐くて仕方なかったものだとららもその頃のことを思い出してクスッと笑う。
「そうでしたね」
「佐々山のセクハラに当初は本気で引いてたのに、段々扱いがわかってくると、何か言われても引っ叩いたり足を踏んだりするようになってさ」
「ふふ、そうですね」
「そうやって他のメンバーと打ち解けたあともららはいつも最後には僕の元へ戻ってくる」
「……」
「僕がららを更生施設から出した…だっけ」
厳密にはららを執行官へ勧誘する担当が槙島――狡噛でもある――だったのだが、初めららは断るつもりだった。潜在犯になっただけでなく、社会奉仕と称して人殺しをするのは御免だと。しかし何度か面会を重ねて狡噛と色々な話をするうちに執行官になることを決めた。彼の下でなら、人間で居続けられるのではないかと、そう思った。
「はい」
「もしあの担当がギノだったら、また違ったのかな」
「それは…どうなんでしょう」
「寂しいことを言う」
「でも…槙島さんでよかったって思います」
「へえ」
あの時の担当が宜野座ではなく狡噛で良かったとららは改めて思う。口下手で事務的な宜野座と話したところで恐らく執行官になる意思は芽生えなかっただろう。狡噛の人の心の中に自然と入り込んでくるところや、話しやすさ、そして滲み出る刑事としての誇りがららに執行官になる決意をさせた。こちらの世界でも槙島が巧みにららとの心の距離を縮めたことは想像に難くない。
「槙島さんは私の知らないことたくさん教えてくれました。それに、何度も命を救われました。考えてることとかは私の頭ではまだまだ理解できないけど…でも、私の上司が槙島さんでよかったって、思ってます」
それはすべて狡噛へ向けた言葉だったが、やはりと言うべきか槙島は特に不審に思わなかったようだった。
「僕もららがららでよかった。君はたとえ僕の好きな本だろうと気に入らなかったら好きじゃないと言う。けれどいつだって僕を知ろうと、理解しようとしてくれる。君のそういうところが僕には心地良い」
そう言った槙島の顔は優しく穏やかで、それでいてどこか寂しげだった。彼の表情を見てららは気づく。槙島は孤独な人なのだと。
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