平行世界の監視官
今晩の宿直は槙島とららだった。世の中には平和な夜が訪れているようで、警報も通報もないままどんどん時間が過ぎていく。やるべき事務作業もすべて終わってしまい、誰が見ているわけでもないので槙島とららはしばらく二人とも本を読んだまま言葉を発していなかったが、数時間ぶりにららが口を開いた。
「私、ちょっと飲み物買ってきます」
「いってらっしゃい」
ららはしおりを挟んだ本をデスクに置くとオフィスを出た。静まり返った無機質な刑事課フロアは人の動きを感知して次々と灯りが点き明るいが、やはり昼間と比べるとどこか不気味だ。ららはラウンジに着くと自販機でカフェオレを買い、少しだけソファに座ることにした。壁面にはホロ投影で公安局推薦セラピストのいるクリニックのポスターが映し出される。そういえば宜野座はケア薬剤やセラピーにも詳しかったな、と思い出した。今日もセラピーがあるとかで足早にオフィスを出ていった。すでに潜在犯になってしまったららからすれば、ケア薬剤やセラピーに依存する日々から解放されたのは執行官になって良かったことの一つだ。狡噛や常守はそう頻繁にセラピーに通っている様子では無かったが、宜野座は定期的に通っている。
「槙島さんは…?」
ここに来てしばらく経ったが槙島がセラピーに行ったという話は一度も聞いていない。宜野座が行きすぎなのかもしれないが、しかし佐々山から聞いた話では槙島はいくら執行官と同じように犯人と同じ目線で捜査をしても、色相はクリアなままだという。元々色相が濁りにくい体質なのだろうか…
「あ…そろそろ行かなきゃ」
投影される広告が切り替わったところでららはカフェオレの缶を持ってオフィスへ戻った。そこでは先程と全く同じように槙島が本を読んでいた。
「戻りました」
「おかえり」
いつでも安定した精神でいられるのには読書が関係しているのだろうか。だが、それでは執行官に降格後の狡噛や自分のことが説明できない。考えられるとすれば体質か。ららは詳しくは知らなかったが、犯罪係数が低くても色相が濁りやすい体質というだけで適性検査に引っ掛かる人がいると聞いたことがあった。ならばその反対がいてもおかしくないし、監視官時代の狡噛も宜野座のように頻繁にセラピーに通うことはしていなかった。そういえば、もう随分と狡噛の名前を呼んでいない。“コウガミ”なら時々一係でも話題に上がることがあったが、ここではコウガミの顔はまだ知られていないし、ましてやこの世界の彼はららが信頼する元上司であり同僚の狡噛慎也ではない。狡噛慎也を知るのはららしかいないのだ。
「コウガミ…」
小さな声で呟くと、槙島はちらっとららのほうを見た。
「急にどうしたんだい?」
「最近、聞かないなぁって」
「そうだね」
もうずっと顔を見ていない。狡噛のことだから生きているのは確実だとは思うのだが。いや、存在を認知されてるだけでもマシなのかもしれない。元の世界でマキシマはそもそもいないものだとされ、周りの協力も無しに狡噛だけが一人でずっと追いかけていた。それに比べればコウガミは一係全員が追っているのだから狡噛のような孤独感はないはずだ。そういえば槙島はどう思っているのだろうか。そんな疑問が浮かんだ。
「槙島さんはコウガミのこと、捕まえたいですか」
「もちろん」
「それはコウガミが潜在犯だから?」
そう尋ねると槙島の口角が少しだけ上がるのがわかった。ほんの僅かな、注意していなければ見落としてしまう程度の小さな変化。ららはそれを見逃さなかった。
「強いて言うなら彼が指導者だから、だな。コウガミがいなければ起きなかった事件もあるし、彼に影響された潜在犯は多い」
「確かに…」
大物を捕まえたい、というのは刑事として分からなくもないが…ららがそう考えたところで、槙島はどこか遠い目をして呟いた。
「彼の魂はきっと輝いているんだろうな…」
「魂の、輝き?」
狡噛の口からも聞いたことのない言葉にどういうことか分からずに首を傾げるが、槙島は今は説明する気はないようで微笑みを向けるのみだった。
「できれば僕は彼と話をしてみたいんだ」
「話を、ですか?コウガミと?」
狡噛が槙島を追うのは佐々山を殺されたことが最大の理由だったが、槙島にはそういった大きな出来事がないと聞く。にも関わらず何を話したいというのか。
「これほど僕に尻尾を掴ませなかった潜在犯なんて、今までいなかっただろう?」
「そう、ですね」
「興味をそそられるんだ、コウガミがどんな人間か。彼はきっと僕を楽しませてくれる」
「そんな…」
“これは遊びでもゲームでもないんですよ”
その言葉はオフィスに届いた市民からの通報によって遮られた。
***
宿直が明けた。通報の内容はららたちからすれば大したことはない、だが一般市民からすれば気になるであろうことで、要するにまぁ大したことはなかったのでドローンの出動のみで解決した。朝日が昇ってくるとビル内の照明が夜から昼仕様に切り替わる。槙島のほうを見ると帰り支度をしているところだった。その後ろ姿をぼんやり見つめつつららは分からなくなっていた。ここで数ヵ月過ごしていくうちに槙島聖護と狡噛慎也の共通点はたくさん見つかった。本の趣味から思考、勘の鋭さ、食べ物の好み…どれもこの時代には少数派のものばかりだ。前時代的なものは色相が濁るから今は流通も減ったし、避けられているというのに。きっと二人は考え方が似ているのだろうと思っていた。しかし潜在犯ながらも刑事であることに誇りを持っていた狡噛に対し、槙島は捜査をゲーム感覚で行っていることが先ほど垣間見えてしまった。興味をそそられる潜在犯か否か。それがきっと槙島にとっては重要なことの一つで、そこが狡噛とは大きく異なるところだ。だが、それは悪いことなのだろうか。ららは自問した。事実、槙島は上層部から将来を最も期待され、ここまでエリート街道を辿ってきたという。例えゲーム感覚だろうとそれで市民の安全が守られるなら良いのではないか。
「おはよう、ギノ」
「ああ。もう上がっていいぞ。紅月も」
宜野座が出勤してきて槙島はコートを羽織り席を立った。
「お疲れさま」
「あ…お疲れ様でした」
オフィスを出ていく槙島の後ろ姿にららは頭を下げた。シビュラはきっと、そこまで勘案して槙島に監視官の適正有りと判断したのだろう。ならば、この社会では正しい思考なのだ。潜在犯であるららの考えることではない。
「どうした、ぼーっとして。眠いならさっさと宿舎で寝るんだな」
「言い方ってものがあるでしょうに…」
宜野座の言動には時々苛立つが、このデリカシーの無さや配慮の無さが宜野座という人間なのだと思うと何だか怒る気にはなれなかった。きっと彼は考え事をしているららを見て宿直明けできっと眠いのだと思い、言い方はどうであれ自分の部屋で眠ればどうかと言っただけなのだ。
(宜野座さんのことなら…わかるのにな…)
言葉の足りなさなら、圧倒的に宜野座が圧勝なのに。ららはそんなことをぼんやり頭に浮かべながらオフィスを出た。
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