平行世界の傷
見覚えのある天井が見える。だがそこは自分の部屋ではないし、オフィスでもない。ベッドに寝たまま辺りを見回すとここが治療室だとわかった。つい最近もここで横になっていて槙島が枕元で読書をしていた気がする…だが今回は枕元には誰もおらず、本も置いていなかった。体を起こしてみると肩がズキズキと痛む。そうだ、廃棄区画でネイルガンに撃たれたのだ。
そのとき、扉が開き焦った様子の宜野座が入ってきた。
「病み上がりのところ悪いが、すぐに準備しろ。狡噛が逃亡した」
「こうがみ…?」
逃亡という言葉に違和感を覚える。逃亡も何も、彼は廃棄区画にいるのでは?それともあれから検挙したのだろうか。しかし、次の言葉で理解した。
「常守に不審なメールが届き、待ち合わせ場所に狡噛も付いていったらしい」
「朱…?じゃあ、ここは…」
戻ってきたのだ、元の世界に。朱や縢のいる世界に。しかし喜んでもいられない。狡噛が逃亡など信じられないが、とにかくすぐに現場に行くしかない。ららは痛む肩を無視してベッドから降りた。
狡噛が入っていったという場所はとても悪趣味で不気味だった。古いものから新しいものまで血が至る所にこびりつき、ひどい悪臭もする。縢はゲームのステージのようだと言ったが、確かに現実にこんな場所があるのかと驚くほどあまりに現実離れしていた。普通の人間がここに入ればあっという間に色相は濁るだろう。狡噛はさっき征陸が保護したという連絡が入り、今は二人の元へ向かっている。負傷しているらしいが命に別状は無いと知って一先ず安心した。向こうの世界の狡噛も無事だっただろうか。あの世界が夢ではないことはズキズキ痛む肩が証明してくれている。ららは肩をぐっと押さえた。
「肩痛む?」
縢が心配そうに見てくる。久しぶりに会った縢を見るとこんな状況でも不思議と安心して、微笑んだ。
「少しだけね」
「なら良いけど。ららの部屋行ったら全身びしょ濡れで肩から血ドバドバ流してるんだもん、俺マジで驚いた」
部屋で血を流す?びしょ濡れということに関しては雨が降っていたからおかしいとは思わないが…。
「私、部屋にいたの?」
「覚えてねぇの?…まぁ、意識無かったし当然か。デザート作ったから、ららも食べるかなーと思って届けに行ったんだよ。そしたらドアの前で血流しててさ。しかも服着たまま全身びしょ濡れになってて」
その様子を想像してみると頭が痛くなった。服というのは恐らくスーツだろう。そのスーツを着たまま全身びしょ濡れで出血してるだなんて普通ではない。状況的にも精神的にも。自殺未遂でもしたと思われてたらイヤだな、と思いつつも縢が発見してくれなかったらもっと大変なことになっていただろうし、お礼は言っておくことにした。
「何か色々ごめんね。ありがとう」
「病み上がりなんだし、無理しないでよね」
ららを心配しつつ笑いかけてくれる縢にららもどうにか笑顔を返した。
狡噛の元へ辿りつくと、征陸は単独で犯人を追っていった常守を追いかけた。狡噛の傷は確かに酷かったが意識はしっかりしている。しかし、あの狡噛をここまで追い詰めるとは何者なのだろうか。その犯人を常守が単独で追っているのもマズい状況なのではないのか。ららは嫌な予感がした。
「狡噛さん」
「紅月か…お前、もう平気なのか」
狡噛の傍に膝をついてしゃがむとそうやってららを気遣う狡噛に涙が出そうになった。肩の怪我なんかよりずっと酷い怪我をして、今だって動けずにいるのに。やっぱり狡噛は優しい人だ。
「今の狡噛さんに言われたくない」
「それもそうだな…」
力なく笑みを浮かべる狡噛にららも笑みを返す。
「泉宮寺豊久?!」
珍しく声を張った弥生のほうへ駆け寄ると、そこにはドローンの部品のようなものが散らばっていた。泉宮寺ならららもニュースで名前を聞いたことぐらいはある。全身のサイボーグ化でも有名だ。まさか、この部品の残骸が?あの泉宮寺が犯罪者だったことにも驚きだが、地位も財力もある彼が手を貸すような人間なんてそうそういない。ららと六合塚は背筋がひやりとするのを感じた。もしかしたら今回の犯人はとんでもない人物なのではないかと。
「そんな有名な人なんスか?らら知ってる?」
一人、泉宮寺の存在を知らない縢が呑気に尋ねる。
「知ってる。建設会社の会長、だったと思う。テレビにも出てた」
「なるほどね…自分のサイコ=パス偽装工作してここで大量殺戮してたってわけかよ」
縢が心底うんざりしたような顔で呟く。その時。
ダンッダンッ!
遠くから低く体に響くような銃声が聞こえた。ネイルガンなんてものじゃない。これは本物の銃声だ。
「これ、マジな銃の音ッスよね…?」
この先では常守が人質の友人を追っているはずだ。実弾の銃など入手するのは困難だし、常守はドミネーターしか所持していない。常守か人質かどちらかの身に何かあったのだろうかとその場の空気が張りつめた。そしてその少しあとに耳を劈くような常守の悲鳴が遠くで響く。
「縢と紅月はここで狡噛を見張れ。行くぞ、六合塚!」
宜野座と六合塚は先ほど征陸が走っていったほうへ向かっていった。残されたららと縢は狡噛の傍で二人の後ろ姿を見送る。縢はドミネーターを構えつつ地面に座っているが、ららは嫌な予感ばかりが頭をぐるぐる廻っていた。今まで狡噛をここまで追い詰めた人物がいただろうか――答えはイエスだ。たった一人だけ――…
「槙島、さん…」
「何だって…?」
ららの小さな呟きは狡噛に聞こえていた。ボロボロの体をゆっくりした動作で起こそうとしたが、それは縢によって止められる。狡噛は横になった体勢のままららのほうを向いた。
「今、マキシマと言ったのか」
「だって…狡噛さんをここまで追い詰めるのって…」
自分でも声が震えているのがわかった。縢も目を見開いてららを見ていた。
「狡噛さん。人質を連れ去った犯人の顔、見てないの?」
「…すまない」
狡噛は悔しそうに目を伏せた。もし犯人がマキシマだったのなら誰よりも捕まえたいのは狡噛だ。だが、この中でマキシマについて一番よく知っているのはららだった。異なる世界のマキシマとはいえ、あの世界のみんなが根本的には変わっていないのは宜野座や佐々山たちと接してみて分かっている。ららはドミネーターをぎゅっと握ると狡噛たちから一歩、二歩と後ずさるように離れる。
「らら…?」
「ごめん、必ず戻るから…」
それだけ言い残してららは駆けていった。明確にどこかへ向かっているわけではない。背後からは縢の声がしたが脚を止めることはなかった。自分程度の人間にマキシマを止めることができるとは考えていない。ただ、会って話して確かめたかった。槙島聖護という人間を。
この地下通路の構造はすでに探索ドローンが調べ上げ、最新のマップをデバイスに同期している。それを頼りに狭く暗い通路を走っていると宜野座から電話がかかってきた。ららは走りながら応答する。
『紅月!どういうつもりだ!』
宜野座の怒鳴り声が耳に痛い。しかしそれも今さらというほどに聞きなれているもので、狼狽えることなく走り続けた。誰に何を言われようと止まるつもりはなかった。
「すみません宜野座さん。でも、逃亡じゃないことだけは信じてください。帰ったら始末書いくらでも書きますから」
『そういう問題じゃない!危険だと言ってるんだ!』
「わかってます」
『お前はまったく分かってなどいない…犯人は常守の目の前で人質を殺し、逃亡している。どこに潜んでいるか分からないんだぞ!』
「それも承知の上です」
危険なことは十分わかっている。嫌な予感しかしないし自分でどうにかできるとも思っていない。でもらら自身驚くほど冷静な自分がいた。まったく耳を貸そうとしないららに電話の向こう側で一瞬の沈黙が流れる。そして息を吸う音がしたあと宜野座の絞り出すような声がした。
『犯人は……マキシマなんだ…!』
やはりそうだったか、とため息を吐きたくなった。嫌な予感は的中する。
「切ります」
『おい、待て!紅月――…』
ららは息を切らしながら、さらに脚を速めた。
前
次