白い夜が終わる
市川での槙島の犯行にララは自らを奮い立たせることでどうにか対処すると狡噛の残した音声データを入手した。こうなることはわかっていたし、出雲大学のラボに着いてから狡噛が何を要求するかもわかっているので、手は打ってある。だが、ララのことを知るのが狡噛を除き縢しかいない以上、今は下手に追及されるような行動は控えることにした。
公安局所属のヘリコプターに乗って広大な穀倉地帯を眼下に望む。公安局の食堂はハイパーオーツ以外の食材も使っているが、この国のほとんどはハイパーオーツばかり食べているというから驚きだ。この麦畑がどのように加工されて国民の食卓に並ぶのかなんて想像もできない。どこまでも続く黄金色の中に聳えている水や薬品を散布する装置は制止していて稼働していないようだ。うまくいった、と内心ほっと胸を撫でおろしつつ他の一係メンバーを見るが、彼らは穀倉地帯の広大さに目を奪われているのか装置の停止に気付いていない。狡噛はもう中へ入っただろうか…彼が恐らくはもう麦畑に潜んでいないことはララだけが知っている。あの薬品散布の装置が停止したことでもわかるようにすでに電力供給が停止しているのだ。つまり、セキュリティもダウンした。皆に気づかれないよう私用の携帯端末を取り出すと新しいメッセージを確認する。その内容を見てララは順調に事が進んでいるのを確認した。
ヘリを降りると宜野座たちが施設の広さに驚きの声を上げている。だが、征陸はラボの煙突を見てあることに気が付いた。
「この施設、稼働してるか?」
「してないですね。電力が遮断されたんでしょう」
「誰が遮断したんだ。さっきまで動いてたよな?コウか?」
「……狡噛さんはもう中にいると思います」
それだけ言うとララは施設の中へと入っていった。その後ろを縢が続く。電力供給の止められた施設内は薄暗く、無人のため静まり返っている。狡噛は拳銃を持っているはずなので近くで発砲すればわかるはずだが…今のところララたちの足音以外は何の音もしない。
「電力が遮断されたなら、槙島のバイオテロは失敗だろう。すでに施設を出て逃亡しているに決まってる…」
後ろで宜野座がぼそぼそと言う。
「ギノさん忘れたんスか?俺らはコウちゃんも追ってるんスよ?」
「忘れてなどない!だが…槙島が逃亡したなら狡噛も後を追って外に出たはずだ」
「あの、紅藤監視官。槙島が非常電源を使って施設を再稼働させる可能性は?」
宜野座と縢の会話を無視して六合塚が言う。彼女なら電力に関することを何か言ってくると思っていた。非常電源を使って再稼働…というのは無いはずなのだが、ここは不審がられないためにも乗っておくべきだろう。それに管制室には少し用事があった。
「じゃあ、私は中央管制室に行きます。宜野座さんたちはラボの捜索をお願いします」
「はーい、じゃあ俺はギノさんたちと一緒〜」
「私は紅藤監視官に同行します」
六合塚の申し出に一瞬だけ考えてしまった。中央管制室に槙島は来ないので危険はない。むしろ、あの場所に行くなら誰にも同行してほしくない理由がララにはあった。
「お願いします、六合塚さん」
けれど断るのも変だ。こうして一係は二手に分かれることになった。別れ際、縢がウインクをしてきたのでララも頷いて答えた。縢がいればきっと宜野座たちは大丈夫、そう信じている。ララと六合塚は管制室に向かって歩いていく。
「それにしても、狡噛はどうやって中に入ったんでしょうか…電力の遮断をしたとすれば施設内に入った狡噛がやったとしか考えられないし…でも、そうすると旧式の生体認証をパスして入ったことになる…」
「……」
六合塚の問いに応えぬまま、二人は管制室にたどり着いた。ドミネーターを構えた六合塚が先に扉を開こうとしたが、ドアノブを握る手をそっと止めて首を振る。
「私が先に行きます」
「……わかりました」
「六合塚さんは私が合図をしたら入ってきてください」
「はい」
六合塚がしっかり頷いたのを見てからララはゆっくり扉を開けた。この部屋だけは電気が点いていて明るく、モニターは起動していて監視カメラの映像が映っている。そして何台ものコンピュータや制御盤が並ぶ中にある人物を見つけると近くに歩いていった。
「ありがとう」
そう声を掛けると、彼は振り向いた。
「これくらい、俺からすれば大したことじゃない」
「ううん。さすがだよ、グソン。」
制御盤の前に座るチェ・グソンにララは微笑んだ。
「槙島と狡噛さんは一度対峙したんだよね?」
それはヘリに乗っている間にグソンから届いた情報によるものだった。あのとき、グソンからは“電力停止完了 二人はラボの廊下で戦闘中”というメッセージが来ていたのだ。
「ああ。でも狡噛がトラップに引っ掛かってる隙にダンナはその場を去った」
「そっか…じゃあ槙島は今どこにいるかわかる?」
「今は確か…」
「監視官?話し声がしますが…」
廊下で待機していたはずの六合塚が管制室に入ってきた。六合塚は明るい室内に少し目を細めながらもララの隣にいる人物を見つけるとすぐにドミネーターを構えた。
「待って、六合塚さん!」
「でもその男は一体…っ」
「お願いします…」
六合塚は戸惑いながらもドミネーターを持つ腕を下げた。
「ありがとう。行って」
「はいはい」
気だるげに席を立ち、扉へと向かうグソンを六合塚は目で追う。明らかに怪しいとわかる。ドミネーターが犯罪係数を割り出す前に腕は下げてしまったが、恐らく潜在犯…もしくは犯罪者だろう。だが監視官であるララに止められているので指示通りに何も行動せずにいた。ララはグソンが出ていったのを目で確認すると口を開いた。
「秘密にしていただけませんか」
「あの男は誰なんですか」
「…協力者です」
「ただの協力者、ではなさそうですね」
「はい。でも、以前も助けてもらったことがある人なんです…だから、どうかお願いします」
「……あとで納得できる説明をいただけるんですよね」
「はい」
「…それなら」
「ありがとうございます」
複雑そうにしながらも頷いてくれた六合塚にほっと胸を撫でおろす。グソンなら旧式のセキュリティであれば簡単に突破できるということがわかっていたので協力を打診したのだが、正直なところ彼が槙島側に寝返らないかどうかは賭けでもあった。何しろ、ララに協力するより槙島に協力したほうが彼にとって面白いものが見れる。だが、チェ・グソンという男は意外と律儀なようだ。あとは念のため六合塚には管制室に残ってもらい、征陸たちに合流すればいい。
「六合塚さん。ここ、お願いします。もし監視カメラで槙島が征陸さんたちに接近してるとわかったら連絡をしてください」
「わかりました」
三人ともきっと大丈夫なはず。そう信じて管制室を出ると館内を慎重に歩きながら縢に電話をした。
「縢くん、そっちはどうですか」
『今のとこ大丈夫。コンテナみたいなのも無いし……なんだ?!』
「どうしたんですかっ!」
突然の切羽詰まったような縢の声とその後ろで聞こえてくる物音に心臓が掴まれたような気がした。
『うわっ、クソ…槙島の野郎、色んなところにワナ仕掛けてやがった…ギノさん、とっつぁん!』
「縢くん、どうしたんですか!状況は」
『多分、クロスボウだ。クソ…進めねぇ』
「槙島は!」
『ワナが発動しただけで、槙島の姿はない。…矢が無くなるまで動けそうにない。ララっち、しばらくこっちには来ないほうがいい』
「…わ、わかりました」
そこで電話は切れた。しかし、やはりというべきか。槙島はコンテナのあるあの区画以外にもワナを仕掛けている。電話の様子では縢は大丈夫そうだったが、宜野座と征陸が心配だ。六合塚に連絡をして槙島の現在地を教えてもらおう。原作よりも早く狡噛が施設に入ったことで、槙島の居場所も変わったはずなのだ。すでに狡噛とは一度対峙しているというが槙島は逃走し、今はどこにいるかわからない。まだ館内にいる可能性も捨てきれない。六合塚に連絡をしようと端末の操作のために腕をあげたそのとき、首にひんやりとした嫌な感触がして体が硬直した。同時に端末から着信音が聞こえた。
「はじめまして、紅藤監視官」
耳元で囁かれる声にこれ以上ないほど心臓が早鐘を打ち、総毛立った。嘘でしょ。まさかこんなところで。ピタリと皮膚に当てられた剃刀は槙島の名前を呼ぶことすら許さない。少しでも喉を動かしてしまえば皮膚が切られる。着信は恐らく六合塚だろう。槙島がララに迫っていることを知らせようとしたのだ。しかし、こんな状況ではどうすることもできない。結局この世界の神様はラボで誰かが死なないと気が済まない、ということなのだろうか。嫌だ、首を切られて死ぬなんて嫌だ。そんな死に方したくない…嫌だ、やだ…死にたくない…まだ死にたくないのに。視界がぶわっと歪んで生暖かい滴が頬を伝う。首に剃刀を当てられて涙を流すなんて、これじゃあ船原ゆきと同じじゃないか。そうか、私は彼女と同じようにこの剃刀で死んでしまうのか…。嫌だ、死にたくない、お願い、誰か………
パンッ
「…!」
背後で銃声がし、槙島が離れた。息を詰めていたのがようやく解放されて、はあ、と息を吐く。後ろを振り返れば拳銃を握った狡噛がいた。そしてララから少し離れたところには槙島がいる。ララは人質にされないよう、さらに槙島から距離をとった。
「狡噛…」
少し苦しそうに名前を呼んだ槙島を見ると左の二の腕を抑えている。指の間からじわじわと赤い血が滲み、白いコートを汚していった。だが槙島は逃げることはせず、むしろ狡噛に向かって駆けていくと右足でハイキックをし、拳銃を蹴り飛ばす。狡噛はカラカラと床を滑っていく拳銃を一瞥すると、すぐにナイフを取り出して槙島との距離を詰めようとした。だが、槙島は一歩早く走り出して逃亡し、狡噛も流れるような動作で拳銃を拾うとぽたぽたと血が続いていく方向へ向かって走っていった。
「狡噛さん…」
小さくなっていく狡噛の背中を見えなくなるまで、ずっと見つめた。これで狡噛は槙島を殺すことができるはずだ。ふう、と一息吐くと首元にピリリと小さな痛みが走った。その場所に指を巡らせれば赤い血が付いた。槙島の剃刀によるものだ。ララはその血を適当にシャツの襟で拭うと端末を操作して六合塚に連絡をとった。
「六合塚さん」
『すみません、連絡が遅れてしまいました…すぐにそっちに向かいます』
「いいえ、六合塚さんはそこで待機してください。多分、槙島はもうこっちには来ないでしょうし…今は縢くんたちが心配です。監視カメラで縢くんたちの現在地はわかりますか?」
『はい。縢たちは……第5区画と第6区画の間の渡り廊下にいるようです。地面はすごい有様…縢は大丈夫そうですが……征陸が負傷してるみたいです』
「負傷?どれくらいの?」
『意識はあるようですが、立ち上がれないように見えます…』
「わかりました。ありがとうございます。私は今から縢くんたちに合流するので、また何か動きがあったら連絡お願いします」
『はい』
意識があるとはいえ、征陸が負傷したというのは心配だ。もしかして今回も宜野座を庇って負ったものだったりしやしないだろうか…ララは館内図を起動させ、それに沿って第5区画と第6区画の間に向かった。今すぐ走っていきたかったがどこにワナがあるかわからないので慎重に周囲を窺いながら進む。そしてしばらく進んだところで、地面に散乱する釘や矢の残骸が見えてきた。
「縢くん…?」
声をかける。散乱する釘と矢のほかには少し大き目の物置小屋と肥料が入っていたであろう袋の山が穴だらけで転がっているだけだ。縢たちは物置だろうか。ゆっくり進むと物置の戸が開き、宜野座の姿が見えた。ララは手招きされるままに物置へと入る。中は薄暗く、掃除用具がいくらか置いてあるだけだが、その奥では座って宜野座のレイドジャケットで腿を押さえる征陸が宜野座に支えられるように寄り掛かっていた。確かに意識はあるようだが出血は多そうだ。
「よう、お嬢ちゃん」
「征陸さん…」
顔をしかめながらも笑みを浮かべて片手をあげた征陸にララは苦笑した。
「心配したんですよ。怪我は脚だけですか?」
「いや…背中もひどい怪我をしている…」
「なに、伸元…死にはしないだろうさ」
「当たり前です、縁起でもないこと言わないでください。…あの、縢くんはどこに?」
「ヘリに積んでいた救護セットを取りに行った」
「そう、ですか…」
縢の単独行動というとどうしてもノナタワー襲撃を思い出してしまう。まぁ、この出雲大学には槙島の仲間は来ていないはずなので、もし何かがあるとすればワナに引っかかるとかそういうことなのだろうが…念のためと縢に連絡を取ってみることにした。
「今どこですか?大丈夫ですか?」
『はいはい、大丈夫だよ。ヘリから救護セット取って戻るところだから。通ってきた道にワナは無かったしその道を行けば……』
「…?」
妙な間だった。
「縢くん?」
『あ、いや…別に何でもない。ララっちはギノさんたちと合流した?』
「はい」
『じゃあそこで待ってて。俺もこれ持ってすぐ行くから』
「はい。気をつけて」
通ってきた道にワナが無かったというならきっと大丈夫だろう。しかし、征陸の怪我は結構ひどそうだ。医療の知識はないがレイドジャケットはかなりの血を吸って色が黒く変わってしまっている。少し顔色も悪い。
「何があったんですか?」
ララも二人の近くに座って訊ねる。
「俺のせいだ」
泣きそうな顔で宜野座が呟いた。
「俺を庇ったんだ」
もしかしたらそうなのではないかと思っていた。いくら物語を捻じ曲げても変えられないことがあるというのはここまで経験してきたことで判明している。だが、征陸の意識がきちんとあるのは不幸中の幸いだろう。少なくとも征陸が自分を庇って死亡するよりは精神的ダメージは少ないはずだ。
「止せよ、伸元…たまにはカッコつけさせてくれ」
「そうですよ。かっこいいお父さんって思って感謝すればいいじゃないですか」
「…そう、だな。ありがとう………親父」
「……親が子を守るのは当たり前だ」
宜野座はぎこちない笑みを浮かべ、征陸は少し照れくさそうに目を細めた。この光景をどちらかが死ぬこともなく見られたことをララは嬉しく思った。
「それに、縢のやつがその辺にあった板を盾にしてこの物置まで引っ張りこんでくれたからなぁ」
「縢くんが…」
「伸元、あとで縢にも礼を言っとけ」
「…わかってる」
やっぱり、一係には縢が必要だ。そう思った。
少しして救護セットを持った縢が物置に入ってきたので征陸の止血をすることになったが、レイドジャケットをどけてはじめてきちんと見たその傷は、腿から膝にかけて釘やガラス片などによってスラックスはズタズタになり肉が削がれており、思っていたより酷いものだった。それに背中にも宜野座を庇ったときのものだろうか、小さなガラス片がいくつも突き刺さっている。この時代の医療技術を考えたとしても応急処置のまま放置するのは良くないだろう。
「宜野座さん、あとは私に任せてくれませんか」
「紅藤…?」
「征陸さんと先に厚生省に帰って、すぐにきちんとした治療をしてもらってください。あとの処理は私と縢くんでやります」
宜野座は一瞬だけ目を見開き、そして考える素振りを見せた。しかしすぐに頷くと征陸の腕を肩にかけて立ちあがらせる。
「悪い。頼んだ」
そういって物置を出る二人の後ろ姿を縢と見送った。二人の姿が見えなくなったところで縢が口を開く。
「さっき、救護セット取りに行ったときさ…コウちゃん見た。麦畑の中、槙島を追いかけてた」
それでさっき無言になったのか、と納得した。あの時点で狡噛が槙島を追いかけていたのなら、もうすでに決着はついているだろう。本来の筋書きのまま槙島が頭を撃ちぬかれているか、それとも…いや、こっちの可能性は考えたくない。
あらかじめグソンに頼んでおけばセキュリティなんて問題なし!
前
次