09
あの日、秀星が走り去ってしばらく待っても戻ってくることはなくて、私は諦めて自宅へ帰った。きっと帰ってくる。見失っちまった、とか言って。そう思って待った。でも一日経っても、三日経っても、一週間経っても秀星は帰ってこなかった。きっとタイムマシン見つけて帰ったんだろうなぁ…これで良かったんだ。秀星は未来に帰りたいって言ってたし、過去で生活するのは何だかんだ不便だっただろう。
秀星が使ってた布団はさすがに片付けたものの洗面所には歯ブラシがあるし、キッチンにはお箸やお皿、廊下にはハンガーにかかったままの秀星の青いコート…短期間とはいえここで秀星が生活していた痕跡がある。そしてテレビ台の横に置いてあるドミネーターという銃…いくら触っても起動することはなく鉄の塊のそれが何よりも秀星が未来から来た人だというのを実感させた。本来、出会うはずもなかったのだ、私たちは。そう言い聞かせて元の生活に戻ることにした。
ぼーっと電車の窓から外の景色を眺めると秀星とのタイムマシン探しを思い出してしまう。また前と同じ一人暮らしに戻って、また前と同じように生活をするだけなのに…バイトも掛け持ちして、その中から生活費捻出して…春休みが終わったらまた大学に通う。戻っただけなのにどうしてこんなに寂しく感じるんだろう。秀星にも私にもこうなるのがベストだったはずなのになぁ。
バイト先の喫茶店へ着くと気分を無理やり切り替えて笑顔を作った。こういうとき接客業ってつくづく辛い。今日は忙しいと良いな。あんまり仕事以外のことを考えたくない。
「飛鳥井さん。悪いんだけど10時まで入れない?」
ホールに出るなり店長に言われた。今は午後1時。本来なら6時までのシフトだけど、家に帰っても誰もいないし夕飯だって自分で作らなくちゃならない。だったら答えは決まってる。
「良いですよ。その代わり、まかない楽しみにしてますからねー」
「ありがとう!助かるよ〜」
誰にも会いたくないけど、家にも居たくなかった。だったら働いていたほうがマシというやつだ。
午後6時にまかないのいつもより具沢山なエビピラフを食べて、残り4時間。さて、あともう少しだ。幸い、今日はそんなに忙しくない。裏で思いきり伸びをしてからホールへ戻った。丁度、一組帰ったところだったのでテーブルを片付ける。空いたカップやお皿をトレーの上にまとめたところで、斜め前の席の人が手を上げたのが視界に入って顔を上げた。
「…!」
何なんだろう、この偶然は。驚きを顔に出さないように澄ました顔でその人のいる二人がけのソファー席に向かった。幸い、視線はメニューに注がれている。
「はい、お伺いします」
「ダージリンのホットとバタートーストを」
少し鼻にかかった低い声。浮世離れした雰囲気と整った顔。メニューを持つ白い指。
「かしこまりました」
こんなに綺麗な人を見間違えるはずない。こんなに綺麗な人がこの世に何人もいるはずがない。もし神様というものが存在するなら、これは神様が私に同情しくれたのかもしれないな。ありがとう、神様。でも生憎今はこの人よりも会いたい人がいるんだなぁ。注文を伝票に書き込んで軽く頭を下げ、立ち去ろうとした。
「君は…」
その人は私の顔を見ると少しだけ首を傾げた。目が合うとその瞳に吸い込まれそうになる。
「はい…?」
「ここでも働いてたんだ?」
「あ、えっと…はい」
まさか私のことを覚えていたなんて。驚きで何て反応すれば良いのかわからなくなって、つい素が出てしまった。それでもその人は私に微笑む。テレビや雑誌で見るどんな人よりも綺麗だった。
「時々ここには来るけど、君を見たのは初めてだな」
「今日は急に10時まで入ってくれって言われて。いつもは6時に上がっていたんですけど」
「どうりで会わないわけだ」
その人は小さく笑った。一つ一つの仕草がとにかく綺麗で思わず見惚れそうになっていると、少し離れた席のお客さんに呼ばれてしまった。
「あ、それでは失礼します」
軽く頭を下げ、今度こそ私はそこから立ち去った。
バイトが終わって、1人で帰り道を歩いていると急に寂しくなる。家に帰って休みたいけど帰りたくない。元の生活に戻るだけだと言い聞かせても、一時でも自分の帰りを待ってくれてる人がいる生活を知ってしまった後では帰宅することさえなかなかダメージがある。ゆっくり歩いても一歩一歩着実に家の玄関が近づいていた。
とうとう家の目の前に来てしまった。鍵を差し込んで回し、扉を開ける。
「………」
シーン、と静まり返った部屋はやっぱり真っ暗のままだった。
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