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暖かい。すごく心地好い。まだ寝ていたい。今日はバイトも無いし、もう少し寝てても――…
………あれ…?
私、どうやって家まで帰った?
「…あ、れ…?」
目覚めると目の前に立派な暖炉があった。パチパチと火が薪を燃やしている。しかし暖炉なんてものが私の1Kのアパートにあるはずがない。ここはどこ?もっと周りを見回そうと体を捩るとふかふかとした感触と革のギシっとしなる音がした。…もちろんこんな高そうな大きなソファだってうちには無い。肌触りの良い大判のブランケットを剥いで体を起こし、部屋をぐるっと見渡してみる。まず大きな窓が目に入った。わさわさと緑が所狭しと生い茂っているが、かなり広いのか奥の方まで庭が広がっていて道路なんてものは見えない。部屋もすごく広くてベッドやデスクは見当たらないから多分リビングなんだろう。それにしたって広い。もしかしたらうちの実家の総面積がこのリビングだけですっぽり収まってしまうかもしれない。私が横になっても問題の無いサイズのソファの前にはローテーブルがあり、何だか一々カタログか何かに出てきそうなオシャレな内装だ。暖かみがあって、けれど生活感が無い。そんな家に住んでる知り合いなんて私には居ないのだけど、昨日の夜コンビニに行った帰り道で突然あの科学者が現れて、それからどうしたっけ?誰か友達が助けてくれたわけではなさそうだ。まさか、あの科学者の家…?
「目が覚めたようだね。すまない、ベッドじゃなくて」
「え…うそ」
はたしてこの人のことを知り合い、と言って良いのだろうか。部屋の奥の、恐らくキッチンから出てきたのはバイト先で何度か見かけたすごく綺麗な男の人だった。今日も美しい。この人が私を助けてくれたのだろうか?服装は以前見かけたときのような白いシャツではなく長袖のTシャツを着ていて、手にはマグカップ。ラフな姿もやっぱり綺麗だな、なんて思っていると彼は持っていたマグカップをテーブルに置いた。紅茶の良い香りがする。
「何か飲む?」
そう言われて何だか喉が渇いていたことに気づいた。
「お水をいただきたいです」
「少し待ってて」
そう言うと彼は再びキッチンへ消えた。暖炉があるからか空気が乾燥していて喉が渇く。でも、まさかあの人のお家に上がる日が来るとは…結局バイト先の喫茶店で会って少し会話をしてから一度も見かけなかったのに、こんな映画かドラマみたいな偶然があるなんて人生何があるかわからないものだ。ちょっとだけ胸が高鳴ってるのがすごく恥ずかしい…それにしても綺麗な人は綺麗な家に住んでるんだなぁ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
どうでも良いことを考えてるうちにグラスに入った水が目の前に置かれる。水を一口と思ったのに、飲み始めると一気に半分ほど無くなってしまった。どうやら相当喉が渇いていたらしい。彼もソファに座りマグカップの中身を一口飲む。本当に一つ一つの動作がすごく綺麗で絵になる人だ。そういえば、まだお礼を言っていないんだった。
「あの、ありがとうございました。助けてくださったんですよね。私、飛鳥井羅々と言います」
あまりの綺麗さにすっかり忘れていたが、助けてもらったこととまだ名前も言っていなかったことを思い出してお礼と名前を言うと、彼はまた美しい笑みを浮かべた。
「礼を言われるようなことではないよ。僕は槙島聖護だ」
「槙島、聖護さん…」
名前までかっこいいとか…しかもこの豪邸に住めるだなんて槙島さんは何者なのだろう。思い浮かぶ職業はいくつかあるが、いずれも多忙を極めるかメディアに出るかのどちらかなのでこうして家で寛いだり、本屋や喫茶店に通うのは無理だろう。となれば、親がお金持ちという線しかない。
「そうだ、お腹は空いてる?」
「え?あ、いえ、お構いなく!そろそろお暇しますので」
これ以上迷惑をかけてしまうのは申し訳ない。ちゃんとしたお礼は後日ちゃんと菓子折りでも持ってするとして、今日はとりあえず連絡先だけ聞いて家に帰ろう。ソファから立ち上がって脇に置いていたブランケットを畳み、ハンガーに掛けられていた秀星の青いコートを取りに向かう。当たり前だがポケットにお財布とスマホが入っているのを確認し、誰かから連絡は来ていないか見るために電源を入れた。…誰からも来てない、か。いや、これは誰にも心配かけてないってことだよね、うん。そう言い聞かせたところで画面のあるところに目がいった。圏外。え、圏外?思わず槙島さんを見るが、彼は座ったまま優雅に紅茶を飲んでいる。もしかしてここは超がつく田舎で、だから槙島さんみたいに若い人でも豪邸に住めるのかな、だとすればどうやって帰ろう、そもそもここってどこなの?ということが頭を駆け巡る。とりあえずコートを手に持った。
「お世話になりました。あ、ここの最寄り駅って何駅ですか?」
駅さえわかれば市区町村がわかるだろう。しかし、槙島さんはやはりソファに座ったまま、口を開いた。
「きっと君はその携帯端末が圏外なのを見てここはどこなのだろうと思ったんだろうけど、ここは東京だよ。きっと周波数が変わったせいで電波が入らないんだろうね」
「えっと…一体何を…?」
周波数が変わったなんて話、テレビでもやっていなかったし通信会社からも連絡はない。それに私がさっきコートを取りに行ったときに一瞬携帯を見ていたことを彼はしっかり見ている。その鋭さに背筋が薄ら寒くなった。
「まあ座りなよ。話すことはたくさんあるんだ」
「話すことって、どんな…」
「この時代のこと、君のこと、僕のこと」
槙島さんの“この時代”という言い方に嫌な予感がした。それでもソファに座ろうとせず扉の方向を確認する私を見て彼はフッと笑った。
「外に出ても君は家に帰ることはできない。ここは2112年だ」
2112年。百年後。秀星がいた時代。嘘、なにそれ。それじゃあ槙島さんはあの科学者の仲間?そういえば…あいつは私のこと被験者って言ってたような気がする。それじゃあ今まさに実験中というわけか、もしかして。こうなってしまったらいくら槙島さんが綺麗だろうとそんなことは二の次、三の次というやつで私はこれからどうなるんだろう、どうすればいいんだろうと次から次へと疑問と不安が浮かんではぐるぐると混ざる。
「私をこの時代に連れてきてどうするつもりなんですか」
「どうもしない。君には普通に生活をしてもらいたい」
「そんなことのためにわざわざ過去から連れてきたんですか?」
「ああ」
わけがわからない。時空を超えてまで拉致してきて普通に生活してもらいたいだなんて。そんなの私じゃなくて未来を見てみたいやつにやってもらえばいいのに。こんな何されるかわからない世界から早く出たい。
「2012年に帰してください」
「そのうち帰すつもりさ。だからほら、座りなよ」
「そのうちって?」
「それはわからない」
「じゃあ、何で私だったんですか」
「君は公安局の執行官と一緒に暮らしていたそうだね。それならサイコ=パスや犯罪係数のことも聞いているだろう?」
「それは…一応」
「君なら説明の手間が省けるし、執行官の知り合いがいる過去の人間なんて楽しそうだ。とりあえず当面の間はここに住んでもらう。必要なものがあれば用意する」
「そんな、勝手に…」
「生憎、君の都合は当初から考えていない。ああ、そういえば君がコンビニで買った弁当とシュークリームがキッチンに置いてあるんだけど、食べる?」
「……シュークリームだけ食べます」
弁当とシュークリームのことなんてすっかり忘れていた。槙島さんはソファから立ち上がり、シュークリームを持ってきてくれた。…何だろう、急に諦めの境地に立てた。どうせ帰れないのだ。ここにいれば衣食住には困らないことはわかったし、もしかしたらまた秀星に会えるかもしれない。まぁ、残念ながらこの時代の秀星との連絡手段はないけど。まさか自分が過去に来るだなんて思ってなかったし。持っていたコートを再びハンガーにかけ、ソファに座ってシュークリームを受けとる。袋はひんやりしていて、ちゃんと冷蔵庫に入れといてくれたらしい。袋を破り一口食べる。はぁ…おいしいな、コンビニスイーツ。
「せめて事前に言ってほしかったですよ。そうすれば色々準備できたのに」
「言ったら来てくれないと思ったから」
「…確かに」
SFファンでもなければ百年後に行きたがる人なんていないだろう。
「そうだ、色相のチェックでもしてみる?」
「色相…」
健康な精神状態であればあるほど白に近く、悪化するにつれてどんどん濁った汚い色になるってやつだっただろうか。私の色相は…何色なんだろう。気になるけど知るのが恐い。槙島さんは何も言わず、ただ私を見ている。日頃からバイトや大学の課題に終われてるっていうのに突然未来に連れてこられて、今の私のサイコ=パスは絶対健康じゃない。未来に来て早々に潜在犯になるなんてことになったらどうしよう。
「知りたくないようだね」
「もし濁ってたら私はどうなるんですか?」
「ここに居る限りは大丈夫だ。外のスキャナに探知されれば、公安局に連れていかれるだろうけど」
どうするべきなのか。健康なサイコ=パスなら安心できるけど、もし潜在犯だとわかってしまったら。知りたいような、知りたくないような。精神の色。これは心理テストでも何でもなく、その色によって私自身の生死が関わってくる。
「……今度にします」
「そう。知りたくなったらいつでも言って。…ああ、執行官は自由に宿舎を出ることはできない。ここで君が頼れるとしたら誰なのか、考えなくてもわかるね」
……その通りだ、残念ながら私には槙島さんしか頼れる人がいない。未来に連れてこられた時点で私の答えは決まっていたということだ。そのことを認めたくなくて、でも今はどうにもできなくて。私はまた一口シュークリームを食べた。
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