2
槙島さんとの生活は拍子抜けするくらい平穏だった。もちろん私はどうなるのかとか槙島さんは何者なのかとか疑問と不安はあったけれど、実際に何か危険な目に遭ったわけでもなく、生活も2012年と大きな差を感じることなく一週間が過ぎた。大きな差は無いと言ってもテレビにはたまにうんざりする。ストレスケア、健康なサイコ=パス……そんなCMが流れているんだからこの世界って本当に窮屈でそのうち気が狂いそうだ。どうしてみんなはシビュラシステムに疑問を抱かないのだろう。そう考えるとシビュラ反対派だという槙島さんは至極まともな気がしてくる。読書が好きで体を鍛えることを欠かさなくて、いつも穏やかで物知り。そしてびっくりするほど綺麗な顔。何だ完璧な人か、そうだよね知ってた。生活面で困ることは今のところ無いけれど、唯一困ることはやはりと言うべきか槙島さんだ。別に何か嫌なことをしてくるわけではない。私が勝手に困ってるだけだ。部屋は当然別々なのだが寝起きとお風呂上がりの姿はあまり見られたくないから注意を払うし、逆に槙島さんのお風呂上がりは美しすぎて見られない。これで槙島さんが極悪人でブサイクだったなら私も心置きなく醜態を曝したかもしれないのに、槙島聖護という人はとにかく穏やかで優しかった。怒るどころか不機嫌にすらならなくて、些細なことにもよく気がつくし、私が欲しいと言ったものはすぐに用意してくれた。その穏やかさが逆に怖いときもあるものの、ここで暮らすのは思っていたより苦痛ではなかった。むしろ快適すぎた。
「いただきます」
「いただきます」
六人は掛けられるだろう、という大きなダイニングテーブルで二人で手を合わせていただきますを言う。今日のお昼はハヤシライスだ。秀星の話によればこの時代は料理をする人はほとんどいなくて、全自動の機械がハイパーオーツとかいうハイテクな食材だけで料理を作っているとのことだったけれど、槙島さんの家にはキッチン家電、調理道具、缶詰や冷凍食品、そしてハイパーオーツではない普通の食材がちゃんとあった。うちの冷蔵庫より何でもある。無理矢理だったとはいえこんな豪邸で働くこともせず生活させてもらってるのは何となく居心地が悪くて料理は私が作ることになった。
「羅々が来てくれて助かってるよ。やはり誰かに作ってもらったもののほうがおいしい」
本当にそうなんだよね、と思いながら私もハヤシライスを口に運んだ。やっぱり私の料理の腕なんて大したこと無い。この程度のもの食べておいしいって言ってくれる槙島さんは優しい人だ。……ああ、秀星の作る料理が恋しい。ここに来てから少しはネットで調べたりして料理の腕は上がったけど、当然ながら秀星には敵わない。もちろん凝ったものなんて作れない。それでも槙島さんはいつも完食してくれた。槙島さん喜んでくれるかな、なんて思いながらレシピを調べている自分が最近は少し恐い。真綿で首を絞められてる気がしてならない。
「槙島さん、いつも完食してくれるから。前より料理が好きになりました」
そう言うと彼は宗教画の聖人のような笑みを浮かべた。何でこんなに絵になるんだろう。私からしたらこんな広くて綺麗な家に住ませてもらってるのに何もしないってほうが申し訳ない。バイトしなくて良いし、食べ物いっぱいあるし、ベッドはふかふかで毎日安眠。こんな優雅な生活させてもらってるのだから家事くらいするって。もし私を未来に連れてきた目的が槙島さんの家政婦だというなら、しばらくはこのままでも良いような気さえするから不思議だ。ずっとこういう日々が続くのだろうか。そしていつかは2012年に帰れるのだろうか。実験といっても何にもしないので不安になる。でも、もし戻れることになったらその前にもう一度だけ秀星に会って、そして秀星の作ったごはんが食べたい。ピラフ、ナポリタン、グラタン、ドリア、オムライス…おいしかったなぁ。
「何だか楽しそうだね」
「…ちょっと思い出して。私のところにいた執行官のこと」
「ああ、料理が上手だったんだっけ」
「はい。あの時は彼が毎食作ってくれてて、どれもすごくおいしかったんです。…こんなことになるなら少し習っておけばよかったですよ」
「バイト先の喫茶店ではホールだけだったのかい?」
「はい」
ホール担当で雇われたから厨房に入るのはまかないを食べるときか、人が少なくて簡単なドリンクを作るときぐらいだった。そういえば槙島さんはあの店にはよく来ていたのだろうか。
「槙島さんはあの喫茶店にはよく来てたんですか?」
「うん。多分、顔覚えられてただろうね」
「へー、そうだったんですか」
だったらみんな超イケメンのお客さんが来たよ、とか教えてくれても良かったのになぁ。あ、そういえば。
「槙島さんが私のバイト先にどっちも来てたのって偶然ですか?それとも…あの、探してました?」
「偶然だよ。例の執行官が羅々のところに居たと知ったのは彼がこの時代に帰った後だった。朝永から映像を見せられたときは驚いたよ」
朝永というのはあの科学者のことだ。アイツの眼鏡に小型カメラが仕込んであって、後日二人でその録画記録を見たらしい。それにしても、そうか。偶然だったのか。もしかしたら本屋に来たのも喫茶店に来たのも計画通りだったのかな、なんて自意識過剰なこと思ってたけどそうではないとしたら何だか運命でも感じてしまいそうな偶然だ。
「あの人、今どっちの時代にいるんですか?」
「基本的に2012年だよ。この時代から工具や材料を運べば向こうのほうが安全だから」
「スキャナとか公安局がいないから?」
「そう」
「あの人の色相って…悪いんですか?」
スキャナと公安局を避けるってことはつまりそういうことだ。
「あんなものを作れるくらいだからね。タイムマシンを作って過去に逃げようなんて考えた時点で色相は悪化する」
「じゃあ、槙島さんも…?」
槙島さんだって、あいつの仲間だ。少なくとも過去から女子大生を誘拐する程度には悪い人…の、はず。多分。槙島さんはスプーンを静かに置くといたずらっ子みたいな顔をして知りたい?と言う。私はゆっくり頷いた。すると槙島さんはキャビネットから小さな機械を取り出し、私に差し出した。スイッチは入っているようで、モニターにはボタンが表示されている。
「それを僕に向けてボタンを押せば色相が表示される」
恐る恐る機械を槙島さんに向ける。これ、もしクリアカラーってやつじゃなかったらどういう反応をしたら良いんだろう。でも私自身が安心するためにも槙島さんの色相は知っておきたい。この人は極悪人じゃないんだって確証が欲しい。
ピピピッ…
「ホワイト…え、白?」
表示されたのはWHITEという字と白いライン。一覧、というボタンを押すと様々な色のラインがグラデーションのように表示され、それは健康な色相から不健康な色相へと変化しているようだった。その中で白というのは最も健康な色。槙島さんが悪い人ではないと示すものだった。
「白、なんですか?」
「そうみたいだね」
「私のこと誘拐したり朝永に協力してるのに?」
「彼には協力したが、羅々を誘拐したのは僕じゃない。朝永だ」
「そういえばそっか」
誘拐犯じゃないならそんなに悪いことはしてない、のか?でも、そうか。タイムマシンを作ることだって別に誰かを殺そうとか政府を転覆させようとかではないし、ただ単に過去へ行く装置を作っているだけと考えれば…。
「羅々も測ろうか?」
「えっ」
そういえば今度にしますって言ったきりだった。気になる…気になるけど、知るのがこわい。正常なら良し。でも、もし濁っていたら?余計に悪化しそうだ。そんな私のことを槙島さんは微笑んで見ている。
「どうする?何色でもここにいれば安全だよ」
外は色相を判定するスキャナがある…んだっけ。確かにこの家にいれば安全なのだろう。この家から出たことは無いが、外出しなくても特に不便は無かった。
「じゃあ…」
恐る恐る機械を自分に向けた。表示されたのは決して薄い色とは言えない色だった。
「ミディアムパープル?これって…どうなんですか?」
秀星は大雑把にクリアカラーだの濁った色だのと言っていただけなので、どの色から所謂”色相が濁る”という状態なのかわからない。この色の意味するものがわからない。不安で槙島さんに画面を見せると、彼はその笑みを変えないままだった。
「少し濁りかけてはいるが、十分健康な範囲だよ。突然知らないところに来たんだ、それくらいの変動は当然だろう」
「よかった…」
そのことにホッと胸を撫でおろしたのだった。
前
次