隣で眠る彼を背景に私の指でキラキラと輝く石は、瞬く間に意識を奪っていった。

薬指に光るそれを凝視することだけが許された行為のように、小一時間ほど眺めていたように思う。
まじまじと見つめるだけで、なんの答えも得られぬままただ時間だけが過ぎていく。気付けば家を出なければならない時刻の十五分前。迫り来る始業時間に慌てて支度をして、脱兎の如く家を飛び出たのだった。

「………………………………指輪」

お高そうなそれがしっかりと私の指に嵌っていた、というのが今朝のハイライト。
犯人もとい心当たりは一人しかいない。……私の『恋人』である、朔間さんの仕業だ。

今日はホワイトデーなのでこれもバレンタインのお返し……なのだろう。こ、こんなに高価そうなものが。何も言われてないけど。いつの間にか指にあったんだけど。

「(せめて何か言ってほしかった……!)」

行く先々で刺さるような視線を向けられ続けたのはバレンタインの時にはなかった指輪のせいだろう。
かく言う私も手元に視線を向けるたびに映るものだから集中の一つもできなくて、終日仕事だったにもかかわらず最低限しかそちらに意識を割けなかった気がする。

──どうにか本日最後の打ち合わせを終えて、『COCHI』にてひと息。
軽く資料をまとめて帰途に着こうと思考しながらキーボードを走らせる。……薬指の違和感。見慣れない銀色はとても綺麗だ。

「(………………意味とかないのかもだけど)」

『指輪 薬指 意味』で検索。
いやまぁなんとなくは知ってるんだけど、一応。念のため。
検索結果の表示された画面には特別とか、……結婚指輪だとか、心臓に直結するだとか、ロマンチックな言葉が連なっている。
だめだ、キャパオーバーしそう。伏せた先のテーブルが冷たくて気持ち良い。

「嬉しい?」
「………………うん」
「あはは、顔真っ赤。打ち合わせ中も心なしかホワホワしてたし……だろうな〜とは思ってたけど。嬉しいならさっさと連絡してあげればいいのに」

今日は朝からずっと仕事だったんでしょ、と私との打ち合わせを終えた羽風は背伸びをしながら相棒を哀れんでいる。
実際彼の言う通りで――今朝はせっかくのオフだからと声をかけずに出かけたし、散々端末と睨めっこした挙句連絡の一つも入れていない。恋人からプレゼントを貰っておいて沈黙とか最悪だ。

「……そ、それはそうなんだけど。悪いとは思ってるんだけど……ほんと、なんて言えばいいのか考えれば考えるほどわかんなくなって……」
「照れちゃって可愛い〜。そんな初心な反応されたら、零くんもプレゼントした甲斐があるよね」
「初心にもなるよ……」

だって、指輪だよ指輪。
こういう――“いかにも”恋人らしいプレゼントをサプライズでもらう日がくるだなんて、あまり想像していなかったから。

顔を上げて視線を指に向けてみる。
……夢じゃない。ぴったりと嵌まった銀色の輪がちかちかと照明に反射して輝きを放っている。
…………ずっと見てられるかも。だってこれを、朔間さんが嵌めてくれたんだ。

「……ふふっ、見惚れちゃってる。まぁ素直に言ってあげたらいいと思うよ?思ってることをぜんぶ」
「ぜんぶ……」
「そうそう。ぴったりの言葉を見つけるのも鹿矢ちゃんらしいけど。着飾らないそのままの言葉で伝えても喜んでくれるんじゃないかな」

ほぼ一日中思考を独占していたそれは、愛の証のようなもので。
そりゃあ混乱もしたけど――なによりも。私を想って贈ってくれたのだと考えただけで気持ちがいっぱいで、やっぱりどう伝えたら良いものか分からない。

「………………嬉しすぎてそのままの言葉も思い浮かばないの。もう、死ぬのかも」
「……そう早くに死なれては困るのじゃが」

声を出す間もなくぴしりと固まってしまった私をよそに、羽風は入り口に控えているだろう声の主と眴をして立ち上がる。
な、なんで朔間さんが此処に。……羽風が、打ち合わせの終わる時間をあらかじめ連絡していたのだろう、か。答え合わせのように朔間さんの言葉が続く。

「連絡をありがとう、薫くん。世話になったのう」
「いえいえ〜。中々のグッドタイミングだったね、零くん♪あとはお二人でごゆっくり〜」

頑張ってね、とウインクを放って羽風はミーティングスペースを去っていく。
…………気を利かせてくれたのかしらないが、心の準備ができてないんだけど!ていうか階段を上がってくる音も聞こえなかったし、相変わらず気配の無いひとだ。
観念するように振り返れば大きな手がぽふ、と降ってくる。

「……おはよう」
「おはよう。やはりおぬしの声を聞かぬと一日が始まった気がせんのう」
「うう、さらっとそういうこと言う……」
「だって本当のことじゃから。温もりだけが残されたベッドは寂しいものじゃよ」
「…………ご、ごめん。次は起こすよ」
「……そうしておくれ」

頭を撫でていた手は頬へと下りてきて、私の温度を堪能するように添えられている。
二階を利用するのは私たちだけと聞いていたので多少の“らしい”会話はセーフにしても。
仕切られたミーティングスペースとはいえ、立場上外で触れ合うことはほとんどないから、距離感に戸惑ってしまう。
そもそも。一日中の思考を埋めたそのひとの指が自分に触れていると思うと、なんとも言えない気持ちが溢れてしまって仕方がない。

「――さて。お疲れのところ申し訳ないがデートの時間じゃ。……ホワイトデーも随分と堪能したようじゃし、残りの時間は『恋人』に割くのが道理じゃろうて」
「……お願いされなくてもそのつもりだったよ。こっ、『恋人』、だし」
「くくく。声が小さすぎて聞こえんのう?」

『朔間零の女』の渾名が泣いておるぞい、と笑いながら、朔間さんは私の荷物をカバンに詰め込んで扉に手をかける。
御礼でいっぱいの紙袋は自分で持てということらしい。朔間さんの嫉妬が垣間見えてちょっとだけ嬉しいのは黙っておこう。

……正直なところ、もう少しだけ朔間さんの手を堪能していたかったけれど。それを言い出す勇気もなくてじれったいけれど──せめてこれだけはきちんと言っておかないと。
頬に熱が集まっていくのを無視して手を伸ばす。
でも、先を行こうとする手を取るには間に合わなくて、ぎりぎりのところで裾を掴む。
少しだけ驚いた顔がこちらを向いて私だけを見つめている。

「あ、あの、指輪。ありがとう。すごく嬉しかった」
「……うむ、喜んでもらえたようでなによりじゃ」
「……うん」

これで終わりだと思ったのだろう、朔間さんは穏やかな笑みを浮かべている。
けれど、違う、と今度は手を引っ掴んで。まだ続きがあるのだと力を込めて。一日中抱えた続けた感情を凝縮して、言葉を絞り出す。

「………………本当は今すぐ抱きつきたい」
「……………………ほう?」
「……でも外だと難しいから、気持ちだけ伝えておく。……それと、今日はずっとどう伝えればいいのかわからなくて、悩んでたの。連絡入れなくてごめんね」

――素直に伝えることが大事なことくらい羽風に言われなくたって分かっていた。それをきっと一番に喜んでくれることも。
言葉を選び取ることはできなかったけど、度合いを示すことはできただろう。少しでも伝わったのなら良いんだけど。

以上です、と恥ずかしさを誤魔化すように笑って手を離す。
私の精一杯の言葉を受け取った朔間さんは先程のような笑みを浮かべると思いきや、困ったように息を吐いた。

「……ありがとう、とか言うべきなんじゃろうけど。…………このままではおぬしの心遣いも無駄にしてしまうやもしれぬ」
「え、」
「可愛い『恋人』にそんなことを言われては我慢もきかぬ、ということじゃよ」

――私を見下ろす赤に、どろりと澱んだ色が灯る。
見ているだけで飲み込まれてしまいそうなそれがゆっくりと近づいてきて、頬に唇が触れる。

「……むっ、無駄にしないでください」
「…………どうしたものかのう。……というか、実は機密事項の打ち合わせがあるからとこのフロアは人払いも済ませておるのじゃが」
「……なんでよ」
「さぁて、なぜじゃろうな」

そう言って今度は指にキスをして、朔間さんは満足そうに口角を釣り上げる。
……指輪と朔間さんが同居する視界は眩しすぎて目を瞑ってしまいたいくらいだ。
デートの話はどこにいったのよ、とか言ってやりたいところだけど――これ以上は理性が機能しそうにない。

「鹿矢」

甘ったるい声でじっくりと名前を囁かれたらもう終わり。
許されたのだろう、もしくは、望まれているのだろう。ああそんなの嬉しいどころの話じゃない。

「…………抱きつきたい」
「……俺はそれを待ってるんだけどな?」
「……しってる」

飛び込んだ先は今朝の、ベッドと同じ香りがした。




***



夜も深く。
明日は朝から仕事だから、と早々に瞼を伏せた鹿矢の指に銀色の輪を通せばぴくりと身体を揺らした。
それでも深い眠りについているせいか意識を浮上させることはなく、規則正しい寝息に戻っていく。

日付も回って今日はホワイトデー。
バレンタインに日頃の感謝をとハロウィンパーティーさながらのお菓子類――主にチョコレートを携え歩いていた彼女のことを考えると、恐らくは。想定以上の『お返し』を貰い、ホワイトデーを満喫することだろう。

「……しかし。おぬしは我輩の『恋人』ゆえ、今日は一日、我輩のことだけを考えてもらわねばのう」

考えただけでため息も尽きないが、多少は目を瞑ることも必要だ。そう頭では理解しているもののどうにも煮え切らない。

オーダーメイドで拵えたそれは彼女の指にぴったりと嵌っている。
自分だけを想えばいい。せめてそれを視界に入れている間は困惑して、意味やらを深読みして、悶々としながら過ごせばいい。願わくば一日中。
そんな陰謀を相談がてら薫くんに打ち明けてみたところ、ぜんぜん微笑しくない、とドン引きしていたが。

指に、そっと口づけをして。
今日一日のほとんどの意識を指輪に取られるだろう彼女を想いながら、底知れない優越感に浸った。






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