
25. はじまり
まもなく、ひのやの営業時間が終了する頃。暖簾を片付けている私の元へ、晴太くんが携帯電話を握りしめて走ってきた。
「なまえ姉、電話! カウンターの上に置きっぱだったよ」
「ごめんね、ありがとう」
急いで受け取り、耳に当てる。その電話の相手は女将さんだった。もうすぐさくら屋で会うのにどうしたんだろう。
「なまえ、雅が! 」
「えっ、」
もしもし、と言う前に女将さんの焦りと不安が混ざった声がする。すぐに新井先生の所へ来て、とだけ言われて電話は終わってしまった。
日輪さんに事情を話して、すぐさまひのやを後にする。
雅は私が吉原に来て初めて出来た友達だ。私と違って気が強く、たびたび姉様たちに噛みつくので、それを治めるのが私の役目だった。
けど、彼女がいたから、私も幼い頃の厳しい日々を乗り越えられた。遊女にも、百華にもなれなかった私と、変わらず友達でいてくれる。
その彼女に一体何があったんだろう。焦る気持ちを抑えて、急いで雅の元へ向かった。
♢
「雅! 」
小さな診療所の一室。ベットに横たわる雅と、壁に寄りかかる月詠さんの姿があった。
月詠さんは私をみるとわずかに微笑み、声を抑えてと言うかわりに、人差し指を口元にあてる。
「月詠さん……あの、雅は」
「心配するな。今は眠ってるだけじゃ」
彼女を見れば、規則正しい寝息を立てていて、おでこには包帯が巻かれていた。
月詠さんがイスを出してくれたので、素直に腰かけ、震えていた体を休ませる。雅の布団を撫でれば暖かさが伝わってきた。
よかった、とりあえず無事で……
「何があったんですか? 」
「裏口で頭から血を流して倒れてたそうだ」
「月詠さん、ち、血が」
月詠さんを見ればいつもの着物にところどころ赤い血の跡。私は急いでハンカチを取り出そうとするが、月詠さんは手を出して制する。
「これは雅の血だから、気にするな」
病室の扉が突然開かれる。入ってきたのは女将さんと新井先生だった。
「なまえ、急に電話してごめんね。
月詠が通りかかってくれて助かったよ。私はもうパニックになっちゃって」
「女将さん、先生」
「雅さんの傷は深くないですし、安静にしてれば大丈夫です。
腕の方は少し時間がかかるかもしれないですけどね」
女将さんが悲しげに雅の寝ている布団をめくる。左腕にも包帯が巻かれていた。襲われた時に腕で顔を庇ったのだろうと先生は言う。
「雅はさくら屋1番の和楽器奏者なのに…」
雅の弾く和楽器が好きだと言うお客さんも多い。でも、そんな彼女の腕は…今はとても楽器の持てる状態ではない。
「女将さん、今日って」
「そうなんだよ。けど雅がこの状態じゃ……見習いを座敷に上がらせるわけにもいかないし」
幕府のお得意様が来る日だった。和楽器が好きらしく、宴会の時はいつも楽器隊を座敷に上がらせる。
以前、楽器隊が不在の時ひどくご立腹だった為、トラブルを避けたいお客のひとり。お金まわりがいい人らしいので、無下にも扱えない。
「日輪に誰か女がいないか聞いてみるか」
月詠さん、と小さく呼ぶ。
「……私が座敷にあがります」
誰かの為になるのなら、私は自らの記憶も騙してみせる。
私の言葉に女将さんと月詠さんが目を見開く。2人は私の事情を知ってるから、発言にはひどく驚いたようだ。
「なまえ、良いんだよ。何とかするから」
「無理はするな。あの時みたいになるかもしれん」
「でも、もうすぐお店が開く時間です。今から姉様の中で奏者を探すのは時間的に厳しい」
お客さんの相手をするのは私じゃない。一緒にあがる姉様たち。私は和楽器で場を楽しませるだけでいい。
女将さんは額に手を当てて、考え込んでいた。私の気持ちを汲み取ろうとしてくれるのが分かる。
でも、さくら屋をまとめる女将さん自身としての気持ちも私には分かる。葛藤しているのだ。
「……分かったよ。月詠、今日は店の周りの警備頼むよ。なまえ、そうなったら急いで戻って店を開ける準備だ」
「なまえあがらせる気か、女将! 」
雅のいない穴を私で埋められるかは分からない。でもここでじっとしていたくない。女将さんや雅、さくら屋の力になりたい。
私が頑なに意見を曲げずにいれば、月詠さんもため息をひとつ漏らし、分かったと半ば諦めたように呟いた。
「雅さんに何かあればすぐご連絡します」
新井先生は一部始終を聞き終え、そう言ってくれた。先生が居るなら大丈夫だ。
雅に、小さくまたねと告げ、3人で診療所を後にする。月詠さんは未だに不満げな顔だが、私の意見を優先して、何も言わずにいてくれていた。
♢
「久しぶりだ、この鏡台を使うのも」
さくら屋に戻り、雅の使ってる部屋を借りてお店にでる準備をする。化粧道具も持ち合わせていないので、ココから少し借りよう。
準備してる最中、心配そうな顔をしてる月詠さんが鏡越しに見える。彼女はゆっくりと煙管の煙を吐いた。
「……わっちが髪を結ってやる」
そう静かに呟くと、月詠さんは私の髪を結い始めた。
「こうしてると昔を思い出しますね」
「ん? ああ、でも前とは逆じゃ。昔はわっちの髪をぬしが結ってくれていた」
そう話してる間に瞳を開ければ、鏡には出来上がった自分の姿。
(月詠さんさすがだ……)
あの短時間で私の髪は姉様たちと同じようになっている。簪を挿せば完成。
「うむ。綺麗じゃ、なまえ」
いつもより豪華な着物に、派手な化粧に髪型。私じゃないみたい。
小さく深呼吸する。いつの間にか手が震えていた。俯いていると月詠さんが胸を張れ、と言うようにトンと背中を押してくれた。