35. 何かを忘れてる



___……逃げなさい、なまえ!








___……この子を連れて、お願い









父さん、母さん?









___……俺の手が、怖い?









神威さん……?

私は、何を忘れてるの?














「なまえ姉! 」



 エプロンを引っ張られ、ようやく自分が呼ばれていた事に気がつく。慌てて晴太くんを見れば、不満そうに頬を膨らませていた。



「そこ果物ナイフ! あるから気をつけてよ」



 泡だらけの手を伸ばせば、晴太くんに勢いよく止められた。シンクの中には、使用済みの小さな果物ナイフ。晴太くんが止めてくれなかったら危うく怪我をしていた。



「ちょっとなまえ、大丈夫かい? 晴太、外の掃除してきておくれ」



 日輪さんが車いすを動かして、心配そうに私を見つめてきたので、無理やり私は笑顔をつくる。




「すみません、少しぼーっとしちゃっただけです。すぐに洗い流しますね」

「ねぇ、なまえ。何かあったじゃないのかい?
何か心配事があるなら話しておくれよ」




 まるで懇願するように言われて戸惑う。私が誰かに狙われてると言うべきなのか。そのせいで関係のない町の人や、そよ姫様を危険にさらしたこと。
 あの一件以来、さくら屋の評判が落ちてること。




 ダメだ絶対に。言えば日輪さんに余計な心配をかけるだけ。これ以上みんなを巻き込みたくない。
 これ以上、誰も傷つけたくない……





「本当に、大丈夫ですから」

「……昔から、なまえは我慢してばかり。もっと頼ってもいいんだよ? 」




 困ったように微笑む日輪さんに、私は曖昧な返事かしか出来ない。



「俺もいるからな! なまえ姉」



 いつの間にかホウキを持った晴太くんが得意げに顔をのぞかせる。




「さてと、じゃあ私はちょっと届け物しに新井先生のところに行ってくるから」

「それ私が、」

「大丈夫さ、なまえは店にいて。……お願いだから。晴太、なまえを頼むね」

「まかせてよ」



 私が行くと言う前に言葉を遮られ、半ば強引に店番を任される。日輪さんは小さな紫色の風呂敷を膝にのせて、店を出た。
 小さくなる日輪さんの姿から目が離せなかった。











 日輪さんが出かけて結構な時間が経つ。ここから診療所は近くもないけど、そう遠くもない。
 雅はまだ入院しているが、だいぶ回復したらしい。雅の話だと襲われた時、犯人の顔は見ていないとのこと。そもそも、なぜ雅は襲われたのか。私が考えても分からなかった。



「なまえ姉、また考え事かよ〜。おいらの勉強教えてくれよ」



 珍しく誰もいない店内で、テーブルに腰掛けて晴太くんの宿題を眺める。またボーっとしてるのを咎められ、気を取り直してノートに目を通した。



「なまえ姉。おいら、まだガキだけど、男だから。なまえ姉を守るから。母ちゃんも月詠姉も銀さんたちも、みんなでなまえ姉を守るから」

「晴太くん……」



 白い歯を見せて笑みを浮かべる晴太くんの頭を感謝の意を込めて撫でる。そこでハッと気づいた。
 だから、日輪さん1人で出かけたの? 私が危険な目に遭わないように。
 知ってるのかもしれない。私が誰かに狙われてるのを。月詠さんも、もしかしたら万事屋のみんなも。日輪さんは待っててくれたんだ。私が言い出すのを。




「なまえさん、晴太くん! 日輪さんが……! 」




 突然店内に入ってきたのは、三軒ほど先にある和菓子屋の一人娘。晴太くんと同じ年齢で仲が良い。その子は息を切らしながら、日輪さんが出かけた方向を指さしている。その切羽詰まった様子に晴太くんも青い顔して震えている。

 怖い怖い。日輪さんに何かあったのだろうか。晴太くんの震える手を握りしめて、2人で店を飛び出した。




 角を曲がれば、わずかに人集り。人と人の間をかき分けて、その中心部にいけば誰かが倒れてる人に呼びかけている。




「おい、アンタ! 大丈夫か! 」




 カラカラと車輪の乾いた音。
 地面に横たわってるのは、紛れもなく日輪さんだった。






「日輪さん! 」
「母ちゃん! 」






 2人の声がこだました。日輪さんに駆け寄り、体を起こす。意識はあるようで、小さな声で日輪さんは私の名を呼んだ。




「なまえ……だめ、じゃないか……外に出ちゃ」

「しっかりしてください! 日輪さん! 」

「母ちゃん! 母ちゃん! 」




 晴太くんも大粒の涙を流し、懸命に呼びかけている。
 抱き起こした日輪さんに触れた時、手にドロリと何かがついた。赤い血だった。








あれ……前にもこんな……
そう、自分じゃない
誰かの赤
誰の?







その時、耳元で声がした。









「お前のせいだ」







 急いで振り返るが、人が多すぎて誰が言ったのか分からない。こちらを覗き込む人。心配そうに見つめる人。ただ見に来ている野次馬のような人。見渡してもそれらしい人はいない。



 でも、はっきりと鮮明に聞こえた。誰? 今の声は。それよりも、言葉の意味。






「私の、せい……? 」
「なまえ姉! 母ちゃんを病院に! 」





 晴太くんの一声で意識が引き戻される。今はそんな事考えてる場合じゃない。新井先生のところに向かわなきゃ。
 日輪さんの肩を持ち、なんとか歩き出そうとした時、




「なまえさん、どうしたんです? 」
「先生、」




 後ろから声をかけられた。その声は間違いなく新井先生。日輪さんの姿を確認すれば、驚いた顔をした。事情を説明し、急いで診療所に向かう。


 カタカタと震える手を握りしめて落ち着かせようとするけど、うまくいかない。大丈夫、と晴太くんを落ち着かせるように声をかけるけども、私もいっぱいいっぱいだった。





(日輪さん、無事でいて……)





 私は祈るように、晴太くんの肩を抱きしめた。



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