
61. 変わらない眼差し 神威side
水を打ったような静寂。何かが俺の頬に落ちる。
「……泣くなよ」
ある意味俺の言葉が引き金のように、ポロポロとなまえの瞳からは涙が溢れ出す。震える彼女は、小さく呟いた。
「どうして、抵抗しないの……?」
なんだ、そんなことか
「アンタを傷つけたくないからね」
なまえの涙を指先で拭う。同時に自分の手についた血が彼女の頬につく。俺は自分の顔が無意識に歪むのがわかった。
透明なものは、一度色が混ざれば、もう元には戻れない。
なまえは混乱したように、俺の体から立ち上がり、両手で顔を覆った。
「私は、どうして…神威さんを…
どうして、こんなこと…! 」
座り込んだなまえを、包むように抱き寄せた。なまえはなんの抵抗もなく受け入れてくれる。
血の匂いが充満する、この冷たい戦場。でも、俺の腕の中にいる彼女はこんなにも温かい。その事実に、どうしようもなく戸惑う。
「声が、するの…
私は……誰も、っうぁぁ…」
彼女も戦っている。
早く解放してやりたかった。
俺は懐から小さな小瓶を取り出す。
「なまえ、聞こえる? 」
俺の問いに彼女は、縋るように外套を掴み、必死に首を縦にふる。俺は口でコルクを開け、小瓶をなまえの唇に当てる。
「飲んで」
俺がそう言えば、彼女は素直に口を開け、ゆっくりと中身を飲み干す。一応阿伏兎から、抑制剤をもらっておいて良かった。
なまえの顔を覗き込む。その瞳は力尽きたように虚ろだったが、殺気はもう感じられない。怪我したこめかみや顔の傷が痛々しい。血は乾いているが、早く手当てをしなければ。
この場から立ち去るため、彼女を抱きかかえようとしたその時だ。
乾いた音が鳴り響く。
咄嗟に傘を開けば、足元に銃弾がコロリと転がった。
「ま、てよ…」
床に伏せてた男は拳銃を手にしていた。そんなものをまだ持ってたのか。
往生際が悪いこの男に聞こえるように俺は舌打ちをした。
「しつこいな。まだなまえに何か用? 」
「全ては、そいつら家族が村に来たせいだ!
そのせいで母さんは死んだ! 」
ヤケクソに叫び散らかす男を目の前にして、反対に自分の頭は冷静になる。
「……じゃあ、教えてやるよ」
低く唸るような俺の言葉に男は一瞬、間抜けな声を出す。この事実を口にしたところで、コイツは何を思うのだろう。
「おかしいと思わない?
あの暴走したあの女のそばにいて自分はなぜ助かったのか。
あんな理性がぶっ飛んだ奴に、他人も息子も区別なんてつくわけがない。
…アンタは護られたんだよ。なまえの父親に」
そう。あの時実はもう一人、診療所には患者がいた。その人物は恐怖で物陰に隠れ、場をやり過ごしたらしい。そいつが全てを見ていた。
俺が最後に見た光景。なまえの父親が倒れた瞬間。俺からは見えなかったが、あの時、床にはこの男がいた。彼女の父親はコイツを庇ったのだ。身を挺して。
「それに、華岡ヨルはなまえの父親に殺されたんじゃない。
村医者に、仮にも俺たち並みの能力をもった奴を相手に出来ると思う? ただの人間に。
アンタの母親は耐えきれなくなったんだよ。
自分が作った薬に、身体がね」
自分にも薬の効果を試していたのだろう。しかし、所詮は夜兎の紛いモノ。人間にとっては異物。身体が拒否反応を起こすのは当たり前だった。
「う、嘘だ……」
突きつけられた事実に男は失望した声を出す。男はその場に膝をついた。
「アンタが行方をくらませなければ」
この事実はコイツの耳に届いていただろう。男は項垂れている。聞いてるのか聞いてないのか分からないが、俺は構わず話を続けた。
恨んでいた人物に、自身は助けられていたのだ。なのに、それを忘れ憎しみだけを募らせた。
「なまえに恨まれるべきなのは、アンタの方だよ」
コイツを庇って、なまえの父親は死んだ。その事実に変わりはない。
自分がなぜそうしたのか分からない。
気づけば、俺は男に近づき、頭に番傘を突きつけていた。敵討ちのつもりなのだろうか?
「哀れな地球人だね」
男は動かない。まるで、そうなる事を望んでいるかのように。俺は引き金に指をかける。
「…何? 」
突然、背中にトンッと小さな衝撃。震えるなまえがそこにいた。
こんな小さな身体を振り払うことなんて、簡単に出来るのに、なぜそれを躊躇してしまうのだろう。
「だめ、です」
「……なんで?
俺たち夜兎の血を使ってここまでの事されたんだ。アンタだって、傷つけられた。命を狙われた。今だって、怪物にされかけた。
なのに、何で止めるの? 」
拒絶する声色で言っても、なまえは俺から離れない。寧ろ、さっきよりも強く俺の服を掴む。弱々しいのに、そこには確かな意志を持っていた。
「この人を、許す訳じゃない。
でも……神威さんの手が、こんな人の為に血に染まるのは、もっと嫌だ……! 」
なまえは泣いていた。自身の為じゃない。俺の為に涙を流している。
自分の手など、もう後戻りできないくらい血にまみれている。でも、それは俺が望んだこと。なのに、彼女は俺が赤に染まるのは嫌だと言う。
俺はもう、とっくの昔に怪物だというのに。
__…な、ないていいからね
遠い記憶を思い出す。自分の方が辛いのに、俺の事を心配していた小さな少女。
ずっと変わらないその眼差しが、どうしようもなく愛おしい。
「神威さん……」
なまえに名前を呼ばれるのが好きだ。こんな時に、そんな事を思う。もうこんな風に呼ばれることないと思っていた自らの名。
あのハゲも、泣き虫なバカな妹も。
俺は静かに腕を下ろす。それに安堵するように、背後のなまえは手を緩めた。
「こ、ろせよ……」
今まで黙っていた男が、力無く呟く。全てを諦め、絞り出した声だった。懇願する男を俺は冷たく見下ろす。
この男をどうしようか考えてた時だ。ふいに俺の後ろにいたなまえが、一歩前に進む。何をするのだろう?
「あなたを許すことは出来ない。
でも、父が助けた命を、自ら投げ出すことは、もっと許さない…! 」
なまえの言葉が耳に残る。
気づけば、混沌としていた町も静寂を取り戻しつつある。
向こうの戦いも終わったようだった。