
64. 忘れんな
夜明け前。まだ星が瞬く空の下を、私は駆け出していた。
吉原の大門付近で一度立ち止まる。振り返り、町並みを眺めた。
幼い頃から過ごしたこの場所を、目に焼きつける。再び歩き出そうとしたとき、門の柱の影から人が現れた。咄嗟に身構えるが、その人たちの顔を確認して、安堵すると同時に驚きで声がうわずる。
「神楽ちゃん、新八くん…」
名前を呼べば、二人は気まずそうに微笑みを浮かべる。反射的に手の中にあるメモ紙を強く握りしめた。
どうして二人がここに?
「なまえ、もう体大丈夫アルか? 」
神楽ちゃんの言葉に、「もう平気だよ」と答えるが、頭にはまだ包帯が巻かれているので、説得力はあまりない。
「二人とも、ありがとうね。あの日、吉原を護ってくれて」
あの薬に操られた人々を、銀時さんたちが懸命に護ったと聞いていた。解毒剤を使用した住人たちは、もう元通りの生活をしているという。
わずかな沈黙を破ったのは、傘を握りしめる神楽ちゃんだった。
「なまえ、どこに行っちゃうネ」
「神楽ちゃん! 」
寂しげに呟く神楽ちゃんを新八くんが制する。あぁ、きっと彼らも私のしようとしてる事が分かっているのだ。
「…ごめんね」
私にはそれしか言えなかった。彼らが護ってくれた町を、私は今から手放すかもしれないのだ。
おそるおそる二人を見れば、神楽ちゃんは泣き出しそうな顔をして、新八くんは反対に穏やかな顔つきだった。
「なまえさん。また、団子屋さん一緒に行きましょうね」
「新八くん…」
当たり前に私との未来の約束をしてくれることに、胸がいっぱいになる。弟みたいに思ってた彼は、私よりもずっと大人だった。
「なまえ」
神楽ちゃんが弱々しく私の名前を呼んだ。
青い瞳。神威さんと同じ眼差し。それはもう確信に近いものだった。
きっと目の前の少女は、神威さんの血を分けた家族。
「なまえ、今アイツの手を握れるのはなまえだけアル」
「神楽ちゃん…」
「もしアイツが自分の名前も忘れて、暴走しても、私が絶対に止めるアル。
だから…アイツの手、離したりしないでネ」
祈るように紡がれた言葉に、私は強く頷いた。
♢
二人と別れ、吉原の大門を抜けたすぐあとのことだ。目の前からチカチカとした光が目に入った。それは私に近づいてくる。なんだろうと警戒の姿勢を示せば、そのスクーターはゆっくりと私の目の前に停まった。
「よぉ」
「…銀時さん」
銀時さんは指で軽くヘルメットを上げて、ふっと微笑む。どうして、ここに? と私が呆気にとられてる間にエンジンが止まり、夜の静けさが私たちの間に漂った。
数少ない街灯に照らされ、銀時さんの顔が浮かび上がる。その顔は私の頭に視線を向けると、痛々しそうに歪んだ。ゆっくりと手を伸ばし、指先で頭の包帯を優しく撫でる。
「ごめんな。すぐにお前のところに行けなくて」
その言葉に慌てて首を横にふる。
「銀時さん、吉原を護ってくれてありがとうございました」
深々とお辞儀をする。銀時さんに答える様子はない。その代わりに私の頭に何かがポンと乗った。慌てて見上げると、銀時さんは柔らかく笑っていた。
「行くところがあるんだろ? 」
彼の全てを見透かしたような言い方に、ヘルメットを外した手が中途半端止まる。どこまでこの人は見抜いているのだろう。
急に腕を引っ張られた。突然のことに、私はされるがままになる。
大きな体。私なんてすっぽりと収まってしまうくらい。春の太陽のような銀時さんの香りが鼻をくすぐる。
私は抱きしめられていた。そのあたたかさに心が緩むのが自分でも分かる。
「銀時さん…」
「ん? 」
「私は、間違ってますか…?」
今から私のすることは。自分の育った居場所を離れることは。
お世話になった人を裏切るような行為は。
別れを言わずに去ることは。
何も聞かずに送り出してくれた月詠さん、神楽ちゃん、新八くん。
それでもきっと一番、銀時さんに肯定してほしいのだ。間違っていないと。いつも私を導いてくれた銀時さんに。
都合が良すぎる自分に笑ってしまう。
ぎゅっと銀時さんの抱きしめる力が強まった。
「なまえは、どうしたい?」
どんな答えでも受け止めるような声色に、涙が溢れた。
吉原のみんなのことは、大好きなのに。
新八くんも、神楽ちゃんも。もちろん銀時さんのことも。
でも、それ以上に…
「会いたい…ですっ…」
私はどうしようもなく神威さんに会いたい。
涙ながらに答えれば、慰める仕草でポンポンと背中を撫でてくれる。
「お前は何も、間違ってねぇよ」
そう呟いた銀時さんはどこか寂しそうに思えた。
♢
波の音が聞こえてきた。徐々に緩むスクーターのスピードに、目的の場所はもう近くなのだと教えられる。
巨大なコンテナが立ち並ぶ一角。足元が見えるよう、灯りの近くにスクーターを停めてくれたことに、彼の優しさを垣間見た気がした。
「ありがとうございました」
コンテナの建ち並ぶ間から、船のようなものを見た気がしたが暗がりのため、それが神威さんの船なのかは分からない。
スクーターから立ち上がった銀時さんにヘルメットを返すと、おもむろに彼の逞しい腕が伸びてきた。
それは、私のおでこに巻かれた包帯を丁寧に撫でる。
「銀時さん…? 」
「なまえ、どんな選択をしても、俺はずっとお前の味方だから」
それだけは忘れんな。
そう言葉にした銀時さんが、穏やかに微笑んだ次の瞬間、何かを後頭部が撫でた。あっ、と思った時には、おでこに柔らかい感触。
銀時さんの唇が、包帯を巻いた私のおでこに寄せられていた。
それはまるで、恋人との別れを惜しむかのような優しさと寂しさを含んだものだった。
唇が離れ、銀時さんが私を見つめる。
私の瞳の中に、太陽のような銀時さんの笑顔があった。