
65. 光
まだ薄暗い、夜明け前の広大な海の上にそれはあった。
見上げるほどの大きな船。一歩一歩近づき辺りを見渡すが誰もいない。
手の中にあるメモを眺める。やっぱりこれは何かの間違いなのだろうか。
「なんだ、お前」
急に背後から声をかけられ、びくりと肩を揺らす。慌てて振り返れば、黒い服の強面の男。凶悪犯と言われても納得する顔つき。見回りの人だろうか。威嚇するように見下ろされ、私は微動だに出来ない。
「あ、あの私…」
言葉を震わせながらも男を見返すが、なんて言えばいいのだろう。神威さんの所在を聞いていいのだろうか。そもそも、この船は神威さんの乗っている船なのだろうか?
逡巡してる間に、ガシャと男が傘を肩に担ぐ。まるでいつでも戦闘態勢に入る準備は出来ているというように。
一歩近づかれ、私は恐怖で反射的に半歩下がる。ごくりと喉が上下した。
「なにしてんの? 」
俯いていた顔をパッと上げる。聞き慣れた声。男の背後から姿を現したのは、私の思い焦がれていた人物だった。
「俺を探してたんだろ? 」
その言葉に一瞬、どきりとする。その通りだったから。でも、そのセリフは私に言ったのではなく、目の前の仲間であろう男に向けたものだった。
男は先ほどの私に対しての態度とは全く違い、少しばかり姿勢を正して「は、はい。団長」と小さく呟く。
「もうすぐ出発の時間です」
「あぁ」
神威さんは一言発しただけなのに、それだけで有無を言わさない雰囲気があった。そして私など見えていないように、部下の男と共にこの場から去ろうする。待って、と言おうとしたその時、さらに頭上から間延びした声がふりかかってきた。
「おーい、団長ぉ」
目の前の男でさえ、怯えの素振りを見せた団長である神威さんという存在。そんな彼を軽々しく呼ぶ人は阿伏兎さんしかいない。
船の灯りに照らされた神威さんは訝しげに首を傾け、声の持ち主へ顔を向ける。
「機械に不具合。まだ飛び立てねェよ」
「は? 」
阿伏兎さんはわざとらしくため息をつく。彼の言葉に神威さんは予想外だと言いたげに少しイラついた声を漏らした。
一瞬だけ船の灯りに照らされた阿伏兎さんが私を見た気がしたが、「お前も手伝え」と先ほどの部下の男に声をかける。「は、はい」と男は慌てて船の中に戻り、阿伏兎さんもすぐさま甲板から姿を消してしまった。
波の音だけが響く。
船着場の灯りに照らされた神威さんは無表情で私を見ていた。温度のない瞳に怖気づきそうになりながら、私の胸には神威さんに会えた喜びが徐々に広がっていた。
一目会えた。それだけでこんなにも嬉しい。
言いたいことは沢山あるのに、言葉が喉につっかえる。口をぱくぱくさせていれば、痺れを切らしたように神威さんが口を開いた。
「何しに来たの? 」
短いため息と共に、棘ある言い方だった。神威さんの声が視線が、この場にいる私を責めていた。
「わ、わたし」
「ここはアンタが来る所じゃない。帰れ」
神威さんはそう冷たく言い放つと、無情にも私の横を通り過ぎていく。船の中に戻ろうとする彼の腕を、反射的に力の限り引っ張った。正確には腕があるであろう外套部分を掴む。
「ちょ、」
行かないで欲しい。話を聞いて欲しい。立ち止まる神威さんはチラリと私に視線を注ぐ。拒絶する色をした青い瞳。
でも振り払えるだろう私の手を、神威さんは解こうとしなかった。
「何? 」
「ごめんなさい…」
ぎゅっと外套を握る力が強くなる。神威さんを見るのが怖くて、俯いた私の視界には彼の黒いブーツが映った。
「なんで、謝るの」
心底分からないと言わんばかりだった。恐る恐る顔を上げれば神威さんと目が合う。しかし、先に逸らしたのは彼の方だった。私はそれでも彼の目を追う。
「ずっと、私を護ってくれたのに、ごめんなさい…
十年前の村のことも…神威さんの話も聞かないで、自分が傷つきたくないからって、あなたを突き離した」
神社で神威さんに告げた言葉が蘇る。”触らないで” と私は確かに彼を拒絶したのだ。
「…話もなにも俺たちの種族は十年前、なまえのいた村を滅ぼした。それは事実だよ。それ以上も以下もない」
" …分かってたよ、こうなることくらい "
あの時と同じだった。優しさに似た、諦めの表情をしている。
「でも! あの戦いから神威さんは、私を助けてくれた…」
神威さんが驚いたように目を見開く。
もう、間違えたくはない。もう逃げたくない。
「私はあの日の記憶に蓋をしてたんです。思い出したくなくて。向き合うのが怖くて。…楽してた」
先生に薬を体に入れられた時。十年前の、あの日の記憶を私は確かに見たのだ。
「その、記憶の中には神威さんがいた。
…あの戦いから私を護ってくれたのは、あなただった」
辛い記憶の中にあった、一つの光。ひとりぼっちになったあの瞬間に、雨の中抱きしめてくれた、少年。そのぬくもりに、自分は確かに救われた。独りじゃないと思えた。
涙が溢れる。それは拭っても止まることのない。私は小さく息を吸い込む。
混乱の色が混じった青い瞳。私の次の言葉を待っているようだった。
銀時さんの言葉が蘇る。
" あとは、なまえがどうしたいかだな "
私はどうしても、伝えたかった。拒絶されても、神威さんが私に本当のことを言わなくても、この言葉だけは私の本心だ。
「神威さん、ありがとうございます。私を助けてくれて、そばに…いてくれて」
♢
今日、俺たちは地球を発つ。
太陽が昇る前に。まるで、俺たちを忌み嫌うまばゆい光から逃げるように。
自分の手を眺める。あの日、なまえを抱いていた感触を思い出す。俺が力を込めれば壊れてしまいそうなほど、細くて柔らかなアイツは安心したように俺の腕の中で気を失っていた。
数分前まで夜兎の血に呑まれそうになっていた奴とは思えないくらい、穏やかな表情だった。
(このまま、連れ去ってしまおうか)
そんな事も考えた。でも、俺の隣にいる生活と、
所詮、俺たちは相容れないのだから。なのに…
「何しに来たの? 」
「わ、わたし」
「ここはアンタが来る所じゃない。帰れ」
どうして、ここにいる。
どうして、俺から離れてくれないんだ。
「ごめんなさい…」
どうして、アンタが謝る。拒絶すればいいのに。俺を親の仇だと。嫌いだと言えばいいのに。
「私はあの日の記憶に蓋をしてたんです。思い出したくなくて。向き合うのが怖くて。…楽してた」
違う。楽をしてたのは俺の方だ。
なまえに許されないことで、自分を許そうとしていたのだから。
許しを請う方が辛かったから。許されなら仕方ないと、そう思う方が楽だったから。
彼女の目から涙が溢れる。その目元を拭ってやりたい衝動を必死に抑えた。俺の外套を掴むその震える手を、本当は握り返したかった。
彼女が俺を見上げる。薄い唇が俺の名前を紡いだ。
「神威さん、ありがとうございます。私を助けてくれて、そばに…いてくれて」
あぁ、もう…無理だ
気づいた時には、震える彼女を引き寄せ、自分の中に閉じ込めていた。戸惑っている彼女を他所に、逃げ場をなくすように強く力を込める。
救われたのは俺の方だ。あの時、自分が助けた少女が生きていてくれた。
その子が俺に笑いかけている。それだけで、あの時、弱かった自分、力のない自分のしたことが肯定された気がした。
だから、同時にますます言えなかった。彼女の両親を助けられなかったのは、俺のせいだと。俺が弱かったからだと。
" 本当はホッとしてるんだろ? "
阿伏兎の言う通りだった。俺はなまえに拒絶された時、どこかでホッとしたんだ。
あぁ、これ以上距離が縮まることはない。なまえの優しさに触れることはない。
彼女のあたたかさをこれ以上感じてしまったら、知らなかった頃にはもう戻れない。それが怖かった。
だから、俺の元から離れて安心した。それなのに、
"神威さんの手が、こんな人の為に血に染まるのは、もっと嫌だ……! "
"神威さん、ありがとうございます。私を助けてくれて、そばに…いてくれて "
どうして、アンタは引き返してくる。
どうして、その真っ新な手で、血だらけの俺の手を執るんだ。
どうして、俺の名前を優しげに呼ぶ。
部下には怯えるように団長と呼ばれ、命乞いをする敵には、憎しみのこもった温度で呼ばれる自身の名。でも彼女には怯えも憎しみもない。
「どうして、引き返してきちゃったの? 」
気づけば俺はそんなことを口にしていた。
あのまま、アンタは光の差す方へ進めば良かったのに。あの侍のいる方へ。
なのになぜ、戻ってきたんだ。俺のいる方へ。
「神威さんが…好きだから」
弱々しく波の音にかき消されそうなくらいの音量でなまえは言う。
自分の中に芽生えている感情と同じ気持ちを彼女も抱いてくれている。応える代わりに、さらに腕に力を込める。
もう、俺にはそれだけで充分だった。
「なまえはモノ好きだね」
そんな軽口を叩きゆっくりと体を離す。彼女の温もりがすぐに夜風に奪われ切なくなる。
船の灯りに照らされた彼女の顔は、涙に濡れ、頬は赤く染まっていた。いじらしい姿に再び抱き締めたい衝動を、深呼吸をして必死に抑える。
俺は意を決して、言葉を紡いだ。
「もう、船が立つ。帰りな」
「え…」
なまえの目が開かれる。これは最初から決めていたことだった。
「アンタは連れて行かないよ」
「いや、です。どうして、」
外套を両手で掴まれる。ポロポロと涙を溢しながら、訴えかける姿に思わず目を逸らした。自分の意思が揺らがないように。
「いやだ、神威さん」
「俺は、なまえに生きててほしい」
俺と来れば、危険に晒されるだろう。俺を恨んでる奴はなまえを人質にとるかもしれない。襲いにくるかもしれない。
俺のせいでなまえが傷つく。そんなのはごめんだ。
「それに、俺と来るってことは
もう、アンタから家族を奪いたくないんだよ。
俯いたなまえは動かない。弱々しく外套を掴む両手を解こうと遠慮がちに掴めば、彼女は離れまいとさらに力を込めた。
「…確かに、吉原で出会った人も、歌舞伎町で出会った人も、私にはすごく大切な人たちです。
でも、神威さんのいない場所で、生きてる意味なんて私にはない…! 」
俺は目を見開く。その一瞬だけ時が止まったようだった。
遠い記憶にあの人がいる。似たようなことを言っていた。
" ここにいさせて。隣にいたいの "
隣にいなくたって、生きててほしいのに。
「わたし、…わがままっ、言うって決めたんです…」
それは精一杯のなまえの心からの叫び。これほど、感情を剥き出した彼女を見るのは初めてで、面食らってしまう。
子どものように嗚咽を漏らすなまえの小さな体は、俺の胸の前で震えていた。
だめだ。振り払え。目の前の彼女の手を。
簡単だろ? こんな弱々しい手を引き離すのなんて。
なのにどうして、俺にはそれができない。
…あぁ、そうか
「俺が…手放したくないからか」
そうだ。俺からは手放せない。だから彼女の方から去っていくのを望んだ。俺の手を振り払って欲しかった。
自覚した自分の感情に自嘲気味に笑う。随分と彼女に絆されてしまっていたらしい。
「なまえ」
びくりとなまえが肩を揺らす。次に発せられる俺の言葉を怯えたように待ち続けていた。
俺は額に巻かれた真っ白な包帯に指を滑らせる。そのまま、すくった髪を耳にかければ、戸惑いながら、わずかに顔を上げた。
「俺も、好きだよ」
軽く腕を引き、そのままなまえの髪に自分の唇を落とす。今度はちゃんと意識のあるなまえに伝えたかった。なまえは固まったまま動かない。腕の中の彼女が動揺してるのが手に取るように分かり、少し笑ってしまう。
「前言撤回」
あぁ、そういえばよく阿伏兎が、「団長は気まぐれだな」と憎まれ口を叩いてるっけ。
なまえの頬を両手で包み、その小さな額に自分の額を寄せる。
星が役目を終え、空は太陽が顔を出し始める準備をしていた。
今日くらいは良いだろうか。彼女と共に日の光を浴びても。人々が無意識に求める、このあたたかさを、自分が実感しても。
「俺のそばにいて」
独り言のように呟けば、彼女の瞳から涙が溢れた。そこには怯えも憎しみもない。なまえは俺に向けて、ただ笑いかけてくれた。
視界の端が光に包まれる。朝日が昇ってきている。眩しそうになまえが目を細めた。そして、弾かれたように俺をパッと見る。
「神威さん、あのっ傘…」
慌てた様子で俺の両手をみるが、今は生憎そんなものは持っていない。こんな時まで、他人に気をつかうなんて、彼女らしいなと思う。
「いい。今日くらい」
アンタの隣で朝を迎えさせてよ。そう言い、覗き込こむようにして微笑めば、泣きそうな顔でなまえは穏やかに笑った。
失うのが怖かったから、置いてきた。
もう何も持たないと誓ったはずなのに。
俺の手をあたたかいと言う彼女を、
俺にありがとうと言う彼女を、
俺のために大粒の涙を流す彼女を、
俺はきっと一生手離せない。