10. 午後九時、旧校舎の迷い猫



 歌姫先輩、気をつけてと言われたのに、こんな状況になった私を、どうか許してください。
 なんて懺悔したところでもう遅い。時間は戻らないのだから。



 ズルズルと廊下を何かが通る音がする。自分は少しの物音も出すまいと、必死に呼吸さえも止めた。とりあえず、この旧校舎から脱出しなければならない。
 汗ばんだ私の手には、黒猫のストラップが握りしめられている。









 目の前に広がる校庭。そこにはブランコや鉄棒、滑り台、ジャングルジム、サッカーゴール。小学校ならではの光景が広がっていた。



「問題の校舎はどこにあるんですか」



 私の背後で静かに校門を閉じる補助監督に男の先輩術師が問いかける。
 校門も普段は鍵がかけられてるが、高専関係者が来るということで、今日だけ特別に鍵を外しておいてくれたらしい。
 補助監督は黒いファイルを手に抱え、無言で真正面を指さした。



「あの校舎の裏です」



 私たちの目の前にそびえ立つ、比較的新しい白塗りの校舎。中心には大きな時計がついていた。その時刻、午後八時過ぎ。


 今日の任務は、とある小学校の旧校舎。
 木造の造りの校舎は、数年前に役目を終え現在は新しい校舎の裏にひっそりと残されている。
 なぜ、その古い校舎を壊さなかったのかは不明。もしかしたら、歴史ある校舎ということで残されたのかもしれない。


 旧校舎は、基本的に児童は立ち入り禁止となっている。一階は物置代わりになっている為、教師のみが侵入を許されている状況だ。
 しかし、子どもの好奇心は止められないのだろう。
 密かに肝試し、度胸試し感覚で入った子どもが、必ず怪我を負ってくるのだという。


 報告によれば、決まってその子たちは、"変なのがいる" と口を揃えて言うらしい。
 視えてはないものの、やはり子どもの感覚は不思議なもので…
 得体の知れない何かがいる、というのは分かるらしかった。


 行方不明者がいる(いわゆる呪霊に取り込まれた)という報告は今のところない。それを踏まえ、三級程度の呪霊だろうと上は判断したらしい。



「でも、どうして子どもが出入り出来るんですか?」



 こういう旧校舎の出入り口って、普通鍵かかってますよね? と私も疑問を補助監督へ投げかける。すると、補助監督より先に、先輩術師が呆れを混じえて答えた。



「なーんかその鍵が、子どもがイジっても意外と簡単に外れちゃうんだってさ」

「えぇー…」

「子どもの好奇心って計り知れないですよねぇ。でも、この任務が終わったら、新しい鍵に変えるって聞きましたよ」



 補助監督も苦笑いを浮かべ、そのまま帳を下ろしてくれた。











 任務自体はまさかの、一時間もかからずに終了した。同行した先輩術師も「あっさり終わったな」なんて、手応えもないまま私と共に旧校舎を出る。



「お疲れ様でした」



 校門の前にいた補助監督に迎えられる。彼女の言葉に、「ありがとうございます」と言って笑顔をみせると、彼女も労いの笑みを浮かべた。
 そして、何気なく制服のポケットから携帯を取り出した時だ。
 いつもついてるはずの、"あの子"がいない。夏油くんにクレーンゲームで獲ってもらった黒猫のストラップが。
 両方のポケットを確認しても、今ポケットからすべり落ちたのかなと、辺りを見渡してもない。

 


(う、うそ。まさか落とした?)




 ガーンとまさにアニメみたいな効果音がつきそうなくらい血の気が引く。落としたとしたら、旧校舎の中だ。それだけは確信していた。
 任務開始直前、携帯で時刻を確認した時はちゃんと黒猫はぶら下がっていた。任務中に落とした事に間違いはない。
 どうしよう…正直、取りに戻りたい。私の頭は完全に黒猫に支配された。



 中々車に乗らない私を、補助監督と先輩術師が不思議そうに眺める。その視線に気づいた私は慌てて、携帯を見せた。
 そして、たった今連絡がきたみたいな顔をして、



「な、なんか、友達から連絡来たので、私このまま駅に向かいます!すみません 」



 そう二人に告げた。バレるかな…



「そうなんだ。遅い時間だけど大丈夫?駅まで乗っていけば?」



 先輩術師の優しさが身に染みると同時に、嘘をついてる罪悪感が襲ってくる。補助監督も送っていきますよ、となんの疑いもなく、ありがたい提案してくれるので、必死にこの場をすり抜ける、上手い言い訳を考えた。
 結局、二人の気遣いもここから最寄駅は近いし、なにより駅と高専は反対方向だから、という最もらしい理由でやんわりと断り、私は二人が乗る黒塗りの車を見送ったのである。



 傍から見ればストラップくらいと思うかもしれない。でも、自分にとっては大切なものだ。  
 好きな人が私のために獲ってくれたもの。あれを持つことくらい許されたかった。
 せめて、自分の想いが叶わない代わりに。



「よし」



 小さく気合を入れる。先ほど使った懐中電灯を握りしめ、私は校門という学校の境界を再び乗り越えた。









 呪霊を祓ったのは、一階の職員室。そこまでは理科室、保健室しか先輩と調べてないからあるとしたら、その三箇所か廊下。
 時が止まった校舎内には私の足音だけが響いていた。


 目当ての呪霊を祓ったとはいえ、四級以下の呪霊は至る所に姿を見せる。
 先ほど、先輩術師と共に、この呪霊たちも祓ってしまおうと思ったのだが、「今日の任務は子どもを狙った呪霊の討伐だけ」と補助監督に言われた事を思い出し、大人しくそれに従った。
 五条くんなら、「どうせなら全部綺麗にした方がいいだろ。なんでやらせてくんねーの? 」と悪態をついてるだろう。
 補助監督も、上と私たち生徒の板挟みで大変なのだ。



 ふと、自分の目の先に蠅頭が現れる。大きさにして、卓球球くらい。おちょくっているのか、私の周りをふわふわと浮かんでいる。軽く、エイッと懐中電灯で押し除ければ、慌ててどこかに飛んでいってしまった。
 そういえば、小学生の時はこんな小さな呪霊にも怯えてたっけ。






「あった…!」


 くまなく調べ、結局お目当ての黒猫は職員室で見つかった。おそらく、呪霊を祓った時に何かの拍子に紐が切れたらしい。
 自然と安堵の笑みが溢れる。良かった、見つかった。
 胸の前で黒猫ストラップを大事に抱え帰ろうとしたその時だ。






ズズッ…ズッ…






 荷物を引きずるような、何かが廊下を這う音がする。え?と一瞬思考が停止したにもかかわらず、反射的に身を屈めた自分を褒めたい。
 只事ではないと呪術師としての経験から察し、懐中電灯をゆっくりと消す。私の体が入れるだけ開けた職員室の引き戸から、そっと廊下を覗いた。
 次の瞬間、私は息を呑み、腰を抜かしてしまった。




「あれ…なに…」




 二階へと繋がる階段から降りてきたのは、人の形をした黒紫色の呪霊だった。まるで、マネキンをそのまま黒く塗りつぶしたような。頭の部分には大きな目が一つついてるだけ。
 人型のそれがゆらゆら左右に体を揺らしながら、重い足取りで歩いている。



 直感でわかる。私に、アレは祓えない。纏う空気が前に五条くんと任務に行った際、対面した一級呪霊のものと酷似していた。あんな呪霊の報告なんてない。
 二階にいたってこと?
 さっきの任務で帳を下ろしたから、あぶり出された呪霊?
 …いや、もうそんなのどうでもいい。相手は呪霊だ。どのタイミングで生まれて、出現するのかなんて考えてもしょうがない。



 呪霊が私に気づいている様子はない。これは出入り口に向かっているのだろうか?
 出入り口。つまり旧校舎の昇降口は、職員室の隣にある。確実に私が息を潜めている、ここの前を通る。もしかしたら、通った時に私の存在に気づくかもしれない。
 ここを出るなら、距離がある今しかない。



 職員室の窓を細心の注意をはらい、そっと開ける。窓枠に足をかけ、忍者さながら音もなくそのまま地面に降り立った。
 手入れのされてない花壇。百葉箱。木で作られた何も掲載されてない掲示板。それらを横目に旧校舎を走り抜ける。




 外にある体育倉庫の陰にとりあえず身を寄せた。ここなら、旧校舎の出入り口がよく見える。
 私は動揺する手で携帯をポケットから取り出した。あれは明らかに二級以上の案件だ。私一人でどうにか出来るものではない。高専に電話して、誰かに来てもらおう。
 いや、二級以上の術師に直接電話した方が早い?
 でも、誰に?





「夏油くん…」





 縋るように口にしてしまった名前。急いで頭をふりかぶり、その考えをかき消す。
 ダメだ。夏油くんはそもそも今、高専に居ない。それに、無闇に電話して彼の邪魔をしたくない。



「他は」


 
 冥さん…は今は海外に行ってるって歌姫先輩が言ってた。高専どころか日本にいない。
 あとは、五条くんだ。
 私は急いで五条くんの名前を探した。朝の彼とのやり取りを必死に思い出す。
 もう任務が終わってるかもしれない。運が良ければ既に東京にいるかもしれない。
 縋る思いでボタンを押したが___

 


「ダメだ、出ない…」




 絶望がひしひしと胸に広がるのを感じながら、震える手を必死に抑える。ダメだ、落ち着いて。
 私は再び、画面の五条くんのすぐ上に映し出された、もう一人の同級生の名前を見つめた。
 親指を一回動かせば、カーソルが上に上がる。そう、そのまま受話器マークのかけるボタンを押せば彼に電話がかかる。





「——…」
「え?」




 その時、なぜか人の話し声のようなものが聞こえた気がした。
 こんな時間、こんな場所で?私しかいないはずなのに?
 激しい違和感を覚え、出所を探せばそれはすぐに見つかった。


 右へ視線を移す。校門が目に入った。その付近。
 月明かりが青白く辺りを包んでいる。だからこそ見える。揺れ動く二つのシルエット。一つの陰が門を横にスライドさせ、呆気なく校庭に入り込んできた。
 


「子ども…?」



 自分自身に確認する意味を込めて、見たままの景色を小さく言葉にする。
 時刻は午後九時を過ぎ。子どもが学校にいて良い時間じゃない。


 私の混乱をよそに、もう一つの陰も恐る恐るでありながら、門をすり抜けてくる。
 考えるより先に地面を蹴った。なるべく目立たないよう、校庭の端を縫うように走る。木々や遊具に身も寄せながら、私は校門へ急いだ。