
13. こぼれ落ちたのは臆病な微笑み
私は暇を持て余していた。硝子ちゃんや校医の先生から今日は大人しくしてろ、と念を押され、居場所はずっと白いベッドの上。
そんなに釘を刺されなくても、今の自分に動く気力も体力もない。せいぜい、天井に自分の手をかざし、開いたり閉じたりをくり返すくらいだ。
まるで、自分の意思でこの指先が動くことが、信じられないというように。
ベッドから体を上半身だけ起こす。枕元に置いた制服の上着に目を向ければ、鎖骨辺りに付けられた高専のボタンがデロンと取れかけている。
これも昨日の戦いのせいかと眺めていた。
今、私がここにいるのは夏油くんのおかげだ。
呪霊を目の前にして絶望に見舞われたあの瞬間。スーパーヒーローのように駆けつけてくれた。観客がいたとしたら、歓声を上げているくらい。
そして、夏油くんは高専に帰ってきた後もずっとそばにいてくれた。いつ起きるかも分からない同級生の隣に。
どうして、そこまでしてくれるんだろう。夏油くんが優しいから?
もし別の誰かでも、彼はその人のそばにいるんだろうか?
一人で悶々と考えていれば、医務室の扉がゆっくりと開く音がした。寝ている人物を起こさないようにしようという、気遣いが伝わってくる開け方。五条くんではないな、とだけ思う。
硝子ちゃん? そういえば、また夕方に来るね、と言われたのをぼんやりと思い出した。
ようやく、一人時間が終わる、と思うと嬉しくて、その人物が姿が現すより前に声をかけた。嬉しくて声がうわずってしまう。
「硝子ちゃん?」
ピタリとその人物が足を止めた。姿を見せるのを躊躇っているみたいだ。硝子ちゃんでない。彼女ならとっくにこの白いカーテンを開けている。
私はもう一人、頭に浮かんだ人物の名前を呼ぶか迷っていた。
夜通しで私のそばにいてくれた人。カーテン越しの人物は、まだ私に声をかけるか迷っているよう。
「夏油くん…?」
確かめるように名前を呼ぶ。少しだけ、間をおいた後、カーテン越しに静かな声が聞こえた。
「…うん。開けていいかい? 」
寮の部屋でもないのに、開けていい? とわざわざ許可を取る姿勢は夏油くんの性格を表してるみたいだ。
ちなみに五条くんは寮の部屋でも、ノックだけして相手の返事を聞く前にドアノブを回してくる、と七海くんが苦い顔をしていたことがある。
「う、うん。大丈夫だよ」
私は慌てて返事をし、手ぐしで髪を申し訳ない程度に整えた。夏油くんには鼻血を出したボロボロの姿をもう見せてるというのに。
丁寧にカーテンが引かれて、緊張した顔つきの夏油くんが姿を現す。
「すまない。硝子じゃなくて」
どこか決まりが悪そうなのは、私が硝子ちゃん? と聞いてしまったからだ。期待した人物と違うことで私が落胆したのでないか、と気を遣わせてしまった。
「ち、違うの。硝子ちゃんが夕方来るって行ってたから、それでね」
捲し立てる方が言い訳っぽくなってしまう。夏油くんが来てくれて嬉しい気持ちはあるのに、緊張して目を合わせられない。感情が迷子だ。
そんな挙動不審な私を見ても、夏油くんは何も言わずに静かに微笑んでくれた。
「…座っていい? 」
開けていい? 座っていい? とその都度許可を取る姿勢は、まるで自分はここにいてもいい? と伺っているみたいだ。
私が静かに頷くと、ホッとした顔して彼にしては小さいであろう丸いイスに、その大きな体を落ち着かせた。
ようやく、夏油くんと私の目線が同じになる。しかし、視線は交わってない。
夏油くんは背中を丸めて俯き、両手は指先だけを合わせている。まるで座禅を組んでる人の手つきだ。私はそれをチラリと盗み見して、俯いてる姿も絵になるなぁ、なんて場違いなことを考えていた。
どちらがともなく、押し黙ってしまう。こうなって初めて普段夏油くんは、私が話しやすいように常にリードしてくれていたんだと実感する。
数秒の沈黙のあと、それを破ったのは夏油くんだった。
「体調はどう?」
優しく労わる言い方に、まるでお医者さんみたいだと思った。
「大丈夫だよ。硝子ちゃんが治してくれたから」
これ以上心配かけまいとして、えへへと大袈裟に笑う。
夏油くんはそれを見て安心したのか、切れ長の目尻が垂れた。そして、私にも聞こえるか怪しいくらいの音量で、よかった…と呟く。
「呪力も休んでたら戻ってきたよ。五条くんにはまた、怒られたけど」
呪力空っぽになるまで、一級に立ち向かうとか、バカなの?と五条くんに言われたセリフを思い出す。もはや自虐のつもりで五条くんの名前を出した。
なんとなく、共通の話題を出せば会話が途切れることはないだろうと思ったから。
ちなみに五条くんの小言は言われ慣れてるから、今さらなんとも思わない。しかし、それに対して夏油くんは、私が怒られて落ち込んでると思ったのか、
「あれでも、心配してるんだよ。悟、夜中に急いで帰ってきたからね」
と五条くんを庇う答えが返ってきた。
さすが夏油くん。相方のことをすかさずフォローできるのは、その普段の行いから勘違いされやすい五条くんの隣にいるからなのだろう。
まるで、君まで誤解しないであげて?と諭すように夏油くんがわずかに困った顔をするので、私は慌てて大袈裟に首を縦に振った。
そして、夏油くんに会ったら、真っ先に言おうと思っていたことを勇気を出して伝える。
「夏油くん、あの…助けてくれてありがとう」
深々と頭を下げる。彼が来てくれなかったら今私は間違いなくここにいないだろう。彼は命の恩人だ。
顔を上げれば、夏油くんがわずかに腰を浮かし、その腕を伸ばしてきた。大きな手がそのまま私の頬に触れる。
突然のことに少し驚いたが、どこか確かめるような優しい手つきにされるがまま。振り払うどころか、ずっと触れていて欲しいと思ってしまう。琥珀色の瞳は揺らいでいた。
「いや、もっと早く駆けつけられれば良かった」
すまない、と逆に謝られてしまう。
昨日、ボロボロの私を目の当たりにした夏油くんは、今までに見たことない焦りようだった。
いつも、冷静で相手を翻弄するくらい余裕のある彼がこんな顔をするのか、と意識が朦朧とする中で思った記憶がある。
少しだけ冷たい指先が離れる。名残惜しいと思う気持ちを急いで打ち消した。
「あ、あの子たちにもお礼言わなきゃ」
二人の子どもたちの姿を思い出す。結局、あの後会えずじまいでお礼も言えてない。
「良くなったら一緒に行こうか」
椅子に腰かけた夏油くんはそう言って微笑んでくれた。
空は薄く透き通る青からあたたかな橙色に染まりつつある。開け放たれた窓から、心地よい風が流れてきた。
それは白いカーテンをふわりと動かし、二人の髪を揺らす。
あぁ、そういえば前にもこんな風に、心地よい風の中で、夏油くんと教室で二人きりだったことがあった。
「悟に」
「え?」
「悟に最初、電話したんだって」
過去に想いを馳せていれば、ポツリと夏油くんが呟く。電話と五条くんという単語に昨日のことだと察した。
確かに昨夜、私は迷った挙句最初に五条くんに電話をかけた。でもそれをどうして、わざわざ聞いてくるのか、理解できない。
返す言葉を探してる間に、夏油くんはハッと目を丸くする。まるで今話した内容が自分の中で想定外だったように。夏油くん自身が驚いていた。
いや、とか、そうじゃなくて、とか私は何も言ってないのに、言い訳をしようとしてる。
「夏油くん…? 」と戸惑いと疑問の色をのせて名前を呼べば、誤魔化すのを諦め、どこか観念したように、
「悟の方が…頼りになる?」
そう臆病な微笑みと共に弱々しく呟いた。
今、目の前の同級生が口にした言葉の意味を理解しようと、私は何度も瞬きさせる。
五条くんの方が頼りになる?どうして自分と比べるような言い方を。私にとっては二人とも頼りになるし、心強い存在なのに。
俯いてる夏油くんのつむじが見える。表情は分からないが、彼の特徴である黒いピアスをした耳はほんのりと赤みを帯びていた。
どうして、そんなこと言うの?
どうして、耳が赤いの?
私はただの同級生でしょ?
夏油くんには好きな人がいるんでしょ?
言いたいことはたくさんあるのに、その先を聞くことが躊躇われた。
「夏油くん、昨日出かけてるって聞いたから…」
邪魔したら悪いと思って…と語尾が自信なさげに小さくなる。
結局口から出たのは、夏油くんの昨日の予定を非難するような言葉。責めるつもりは毛頭ないのに、なぜかそんなことを言ってしまう。
夏油くんは決まりが悪そうに口を閉じたため、私たちの間に中途半端な静寂が流れた。
「なまえは、」
夏油くんの真綿で包み込む声が私を呼ぶ。つられるように顔を向ければ、いつになく真剣な夏油くんがいた。どこか不安げに見えるのはどうしてだろう。
「悟が好き?」
薄い唇が、五条くんの名前を紡ぐ。その次に、はっきりと、"好きか?" と聞いてきた。
恋愛的な意味であることは、彼の言い方を聞けば明らかで。
唯我独尊。わがままで口の悪い同級生。私のこと弱いと罵るし、とっておいたデザートを勝手に食べるし、たまに頭を肘置きにされる。
でも、泣いてる私にハンカチを貸してくれた。元気づけようとしてくれた。私を心配して、夜中にわざわざ帰ってきてくれた五条くん。そんな彼を私は好きだと思う。
でも、それは友達としてだ。
私が、好きなのは夏油くんなのに。目の前にいるあなたなのに。
それを伝えられないもどかしさと、私の気持ちも知らないで、五条くんが好きなのか、と的外れなことを聞いてくる夏油くんに、なぜだか怒りにも似た感情が湧いてくる。
それに、夏油くんに私が誰を好きとか関係ない。どうせ、私の想いは叶わないのだから。
しかし、それは言葉にならず、代わりに涙としてポロポロと溢れ出した。
突然、感情をむき出しにした私に、夏油くんがギョッと目を丸くする。急いで立ち上がったせいでガタガタッと丸い椅子が勢いよく倒れた。
それを立て直すことも忘れ、夏油くんは私の横でオロオロとする。
泣きたい訳じゃないのに、涙は止まってくれなかった。
「なまえ、」
「傑くん!」
突然、バチンッと扉が跳ね返るくらいに開かれた音。驚いた拍子に私の肩がビクリと揺れた。