
14. 届かないけど、ただ耳を寄せて
二人だった空間に第三者の存在が現れ、カーテンの先を凝視した。
予想外のことに涙が一瞬引っ込んだので、慌てて袖で目を擦る。これ以上、夏油くんに醜態をさらしたくない。
コツコツと少し高めのヒールの音。聞き覚えのある夏油くんの名前を呼ぶ声。
なぜか分からないけど、自分の今いるこの狭いテリトリーでさえ、無遠慮に踏み越えられそうな気がして、身構えてしまう。
すると、まるで読み取ったように夏油くんが立ち上がり、相手が侵入するより先に素早く白いカーテンを少しだけ開けた。私は夏油くんの大きな背中に隠される。
「やっぱり高専にいた!なんで、メール返信してくれないの?」
責めるような言い方だけど、頬を膨らませた姿が思い浮かぶくらいな温度だ。本気じゃないことは伝わってくる。
「あぁ、すみません。気づかなくて」
ワントーン上がる声と申し訳なさそうに素直に謝罪を述べる夏油くん。彼女は「もぉ、ちゃんと見てよね」とどことなく楽しそう。
彼女が数歩夏油くんに近づくのがわかる。なのに、夏油くんもそれに合わせて半歩だけ、足を後ろに動かしたことも私には見えていた。
夏油くんの背中が、絶対にこの空間には入らせない、という強い意志を持っているよう。
「誰か寝てるの? 」
「えぇ。なのでもう少し声のボリュームを低くお願いしますね」
「ふーん、そうなんだ。ねぇ、今日この近くでお祭りがあるんだって。一緒に行こ?」
声のボリュームはあまり変わってない気がしたけど、それよりも彼女の言葉の方が気になってしまった。お祭りって…七海くんが言ってたやつだ。
二人のデートの約束する場面を見せつけられてるみたいで、止まっていた涙がまた溢れそうになる。
やだ。夏油くん、
「……いで…」
行かないで。
なぜ、そんなことしたんだろう。
気づいたら私はベッドから乗り出して、夏油くんの制服の裾を掴んでいた。クッと彼の体がわずかに強張る。思ってもない行動に戸惑っているのは私だけじゃなかった。
しかし、私の無意識の抵抗も虚しく、夏油くんはそのまま彼女の方へ歩いて行く。私を見ることもなく、拒絶のように白いカーテンが閉められる。行き場のない私の手だけがそこにあり、そのまま医務室から二人が出て行く音がした。
虚しい、寂しい。胸が苦しかった。涙は一粒溢れると、あとは止まることを知らない。
静かに嗚咽を漏らす。誰も医務室にはいないけど、無機質なものにでさえ、私が泣いていることをバレたくなかった。
「うっ…っぅ…」
膝を抱えた瞬間、シーツを伝ってコロリと何かがベッドから転がり落ちる。黒猫のストラップだ。
私が危険を犯しても取り戻したかった黒猫が、冷たい床に放り出されている。
ベッド降り、慌てて拾った。私の気持ちとは裏腹に、ほっぺをピンク色に染めて幸せそうな笑みを浮かべる黒猫。夏油くんの笑顔と重なる。
そっか。もうあの優しい声も、柔らかい眼差しも誰かのものなんだ。
ベッドに戻る気にもなれず、手の中の黒猫を見つめながら目元を拭う。
その時突然、勢いよくカーテンが開いた。私の視界は黒い制服の足元部分でいっぱいになる。
「なまえ?!」
「げ、とうくん」
見上げればたった今出て行ったはずの夏油くんがいた。目を丸くして驚いている。
すぐさま膝をついて私の肩に優しく手を置いた。どうやら、体調不良でベッドから落ちたと思っているらしい。
「どこか、痛むのか?! 硝子呼んでこようか?!」
慌ただしい剣幕に、こちらが一瞬怯む。どこも痛くない、と言葉にしたいのに上手くできない。彼女と出て行ったはずの夏油くんが、ここにいることが不思議でたまらなかった。
陽の傾いた医務室。心配そうに覗き込む夏油くんの顔に影がかかる。
吸い込まれそうな琥珀色の双眸が、泣き顔でボロボロの私を見た瞬間、驚愕してスッと小さくなる。何かを言いたげに口が開くが、言葉が紡がれることはない。どうしていいか分からないようだ。
私は手のひらの黒猫をキュッと握りしめる。
すぐそばにいるあなたが、私を見てなくてもいい。
その優しい声が私の名前を紡がなくてもいい。
その背中を見つめるだけでいい。
___…本当に?
「なまえ、」
「好き…」
もう、自分に嘘をつきたくない。