17. 触れた体温に夏の雨



 その日はなぜか、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまった。二度寝をするほど、眠気も襲ってこず、仕方ないのでそのまま起き上がる。
 冷たい水で顔を洗い、いつものように髪を結い上げた。制服に着替えるのは朝食をとってからでいいだろうと結論づけ、そのまま寮食堂へ赴いた。


 食堂へ続く廊下の角を曲がろうとした時、見慣れた二人の姿があった。なまえと悟だ。なにやら話し込んでいる。別に隠れることないのに、なんとなく二人の空間に自分が入り込むことが憚られて、身を隠した。


 悟の指が、彼女のおでこに触れた。気のせいかもしれないが、あの日、なまえが泣いていた時から、二人の距離が近い気がする。というか悟がなまえに歩み寄ってるような。
 それと同時に、私がなまえに避けられてるのも肌で感じていた。


 先日、数学のテストがあった。いつもよりは良かったみたいだけど、悟が見たらまた高笑いする点数をなまえは獲ってしまったらしい。「夏油くんに教えてもらったところは出来たんだけど…」と申し訳なさそうに言うから、「それだけでも、凄いじゃないか」と微笑んだ。
 しかし、目を疑う出来事はその後起こる。テストを見た悟は、からかいながらも「俺が教えてやろうか」と言ったのだ。
 その発言には硝子も驚き、「やだー明日雪?涼しいからいいけど」と珍しげに軽口を叩いていた。


 体術訓練もいつも悟は容赦なくなまえを吹っ飛ばして、それを私が横から注意し、転がるなまえに私が手を差し伸べると言うのがお決まりだった。むしろそれに役得すら感じていた。
 しかし、最近は地面に転がるなまえに悟自らが手を差し伸べる。
 彼女も目を丸くしてたが、おそるおそると言うように、無下限が解かれた手を握り、「ありがとう、五条くん」と恥ずかしそうに俯いた。それは私の役目だったのに。


 あろうことか、私がなまえに話しかけるとどこかよそよそしい。視線もあまり合わない。
 私は彼女になにかしてしまったのだろうか?
 考えても答えは出ず、なのに悟とは仲良さげな彼女にどこか不満が募る。


 そのせいかこの前、七海と硝子を除いた四人で体術訓練をした時、私は彼女に冷たい態度をとってしまった。
 担任の呪骸に攻撃され、大怪我しそうになったなまえを悟が間一髪で助けた。私も咄嗟に呪霊を出したが、間に合わず。もうすでになまえは悟の腕の中。

 彼女に怪我がないことには心底ホッとした。でも、同時に悟に嫉妬してしまう。私が助けたかったのに、と。
 そんな子どもじみた考えを見透かされたくなくて、私に感謝を述べたなまえに、


「…助けたのは悟だよ。私は何もしてない」


と言って突き離した。その時のなまえの戸惑った表情を目にして、あぁやってしまった、と三秒前の自分を恨んだ。



 「き、気をつけてね」と一段と大きななまえの声で、ハッと意識をそちらに向ける。食堂の前で話し込んでいた二人が別れるところだった。
 悟に彼女が優しく微笑みかけている。包み込むみたいなその笑顔が好きなのに、それを自分以外に向けて欲しくないと思う浅ましい感情に、朝から深いため息が出た。







「九時回ってるのか…」


 小さく呟いた言葉は、駅のアナウンスにかき消されていく。
 午前中で任務を終え、午後からオフだったため、気晴らしに一人で出かけた。


 あの補助監督から「今日休みでしょ。傑くんと出かけたい」という旨のメールがきていたが、速攻で「すみません。用事があるので」と返信をする。なぜ休みの日まであの濃い香水の匂いを纏った彼女と一緒にいなきゃいけないのか。


 以前、車内に漂う香水に匂いに酔い、「何かつけてますか?」と半分皮肉も込めて彼女に聞いたことがある。
 すると「CMでもやってる香りなんだ〜いい匂いでしょ?」とむしろ興味があると勘違いされてしまい、ご丁寧に商品名まで教えてくれた。
 この前、なんとなく冥さんにその香水の名前を出してみたら、「今、女の子に人気の香水だよ。夏油くんは誰かにプレゼントするのかな?興味深いね」と妖しく笑っていた。
 それにより、巷で人気だかよく分からないが、自分は人工的な香りより、なまえが纏っている、石鹸みたいな自然な香りが好きなんだと自覚することになった。



 外出したは良いものの、大層な目的はない。気になっていた映画を鑑賞し、七海にオススメされた小説を本屋で買う。散歩がてら、たまに行く蕎麦屋で食事を済ませていたら、いつの間にか時間が経っていた。充実はしていたと思う。


 高専はそこまで門限に厳しい訳でない。任務で夜中に帰ることなんてザラにあるからだ。でも、オフで寮に帰るのが日付を超えたりするのはあまりよろしくない。うちの担任はあぁ見えて心配症なところもある。


 そろそろ帰るか。担任から電話がくる前に。
 そんなことを考えながら、駅にたどり着いた時、携帯が震えた。


(誰だ?)


 ポケットから携帯を取り出し、ディスプレイをみた瞬間、心臓がドキリと高鳴る。なまえからだった。不覚にも、好きな子からの着信に顔が緩む。と同時に珍しいなと思う。あまり彼女から電話がくることはないからだ。一呼吸置いて通話ボタンを押す。


「もしもし?」


 彼女の優しい声が返ってくると思ったのに、何も応答がなかった。もう一度、問いかける。やはり、なんの反応もない。彼女がこんなイタズラをするとも思えない。不審に感じ、今度は彼女の名前を呼んだ。



「なまえ……なまえ!」
 
 

 やはり、おかしい。なまえからの応答もなければ、かといって通話を切りもしない。
 なんとなく落ち着かず、胸騒ぎまでした。半ばこれがイタズラでいいから、彼女が出て欲しいと祈る気持ちで叫ぶ。




「なまえ!!」
『…なまえって黒い制服着たお姉ちゃんのこと?』




 え?
 幼い子どもの声がした。一瞬思考が停止する。状況が分からない。小学生くらいの少年だろうか。
 なぜ、なまえの携帯に見知らぬ子が出るのか。思考がパンクしかけたが、電話を切られても困る。慌てて冷静になり、至って優しく電話越しの子どもに問いかけた。



「えっと…君は誰だい?この携帯持ってたお姉ちゃんは?」
『お姉ちゃんが、変な化け物に襲われてる!』



 一気に胸がスッと冷える。今度はなぜか少女の声。どうやら、電話越しには少年少女がいるらしい。
 化け物という単語が、すぐさま呪霊と結びついてしまうのが、呪術師の性というもの。


 化け物、呪霊? 襲われてる? どこで? どうして? 彼女のそばに誰もいないのか?


 溢れる問いに頭がパンクしそうだ。見た訳でもないのに、傷だらけで真っ赤な血を流した彼女の姿が頭をよぎる。
 痛くなるほど携帯を自分の耳に押し当てた。電話越しの声を聞くと、少年は「は?化け物ってなんだよ」と少女の言葉に疑問を抱いている様子。化け物が呪霊だと仮定すると、どうやら、視えるのは少女の方だけらしい。


「お願いだ。君たちがどこにいるのか教えてくれ。私は…そのお姉ちゃんの友達なんだ。その子を助けたい」



 一気に捲し立てる。早る気持ちが抑えられず、私はすでに走り出していた。
 とりあえず人気のないところ。携帯を耳に当てたまま右手を素早く前に出せば、目の前の景色にピキッとヒビが入る。そこから割り入ってきたのは、前に使役した飛行する呪霊だ。飛んだ方が早い。



『えっと…小学校』
「小学校?」



 少女の言葉を繰り返す。そういえば、なまえは今日、ある学校の旧校舎へ任務だと聞いた。その学校だろうか。
 子どもたちに学校名を聞けば、今いるところから割と近い。移動時間が少なくて済むので少しばかり安堵する。



(早く、早く…)



 一分一秒も無駄に出来ない。








「見えた…」


 しばらくして眼下に小学校が現れた。月明かりのおかげで辺りは青白く、ランプ代わりの呪霊がなくても学校全体を見渡すことが可能だった。
 校門へ視線を向ける。中途半端に開けられた門の外。花壇の植え込みに、身を潜める二人の子ども。きっと電話越しの少年少女だろう。
 肩を寄せ合い、時々少女が学校を恐る恐る覗き込んでいる。


(なまえは、)


 その子たちに気を配りながら、なまえを探す。まさかの彼女より先に、濃い呪いを纏う呪霊を発見した。
 その真っ黒な腕の先。天高く見せ物のように吊るされているのは、間違いなくなまえだった。


 血の気が引いた次の瞬間、本能的に素早く腕を伸ばし、使役している呪霊を呼び出した。自分の元からイカを型取った呪霊が勢いよく飛び出していく。
 それはなまえと呪霊を繋いでいる黒い線を容赦なく貫いた。




「なまえ…!」




 ドサリと彼女の体が地面に叩きつけられる。必死に肩で息をし、何が起こったか分からないという顔をしている。乗っていた呪霊から飛び降りた私は、あたりを見渡すなまえの元へ一目散に駆け寄った。



「なまえ!!」



 その勢いのまま彼女を抱きしめた。なまえの石鹸に似た香りが鼻をかすめる。腕に力を込めた。
 彼女は確かに生きている。そのあたたかな体温に思わず泣きそうになる。



「夏油くん…?」



 まるで起き抜けの子どもみたいに、弱々しくなまえが私を呼ぶ。その一言と困惑する表情だけで、聞きたいことが山積みだと伝わってきた。
 自分の心臓が飛び出そうなくらい早い。左胸の"ここで" 動いているんだと分かるくらいに。なまえを見れば、至る所傷だらけ。しかも鼻から血が垂れている。



(呪力が切れかかってるのか)



 以前、呪力が底をつくと鼻血が出る体質なんだと、恥ずかしそうに話していたのを覚えている。本当に、危機一髪だったらしい。
 今になって汗が滲み出す。最悪の事態が起きていたらという恐怖と、間に合って良かったという安堵。感情がごちゃ混ぜになり、深くため息をついた。


 彼女をこんなにした呪霊は数メートル先にいた。私のそばから離れないように、なまえをきつく抱き寄せる。
 呪霊は未だに襲い掛かろうとしていたので、恨めしく睨みつけ、スッと右手を前に出した。



—取り込みはしない。跡形もなく消してやる



 そんな呪いをかけながら、私は空を切った。