19. 砂時計は逆さまにしない



「わ、私が好きなのは、夏油くんだよ…五条くんじゃない」


 夏油くんを見ないまま、訴える。もう戻れない。数分前の自分には。恥ずかしすぎて、この場から逃げ出したい。
 心臓の音が聞こえる。まるで自分の耳元にあるみたいに。  
 間違いなく言った。夏油くんにも届いてる。沈黙がこんなにも恐ろしいなんて、初めて知った。



「なまえ」



 あぁ、フラれる。
 彼に告白した子たちに向けた、あの申し訳なさそうな、心苦しそうな顔を、今から私も向けられるんだ。
 ふりかかる痛みを覚悟して制服のスカートを握りしめた時だ。



「なまえ、こっち向いて」



 真剣な声色に、思わず頭を上げてしまう。そこにはどこか泣き出しそうな、迷い子みたいな夏油くんがいた。
 彼の腕が伸びてくる。そのまま親指が目元に触れて、遠慮がちに私の涙を拭った。



「昨日、」

「?…」

「傷だらけの君を見つけた時、本当に焦ったんだ。心臓が止まるかと思った」



 頬に触れていた手がそのまま私の後頭部に回る。気づけば私は、夏油くんに抱きしめられていた。
 彼の筋肉質な片腕が背中に回る。私はその大きな体に収まってしまい、良く知る香りがゼロ距離にあって、思考を奪った。
 


「げ、とうくん…?」


 
 戸惑いの色をのせて名前を呼べば、応える代わりに腕に力を込められた。
 でもどこか遠慮がちで、私がもしその腕を解こうとするなら、すぐに解放してくれる逃げ道のある抱きしめ方だった。



「怖かった。君がいなくなることが」



 ギュッと背中のワイシャツを夏油くんが握る。その時の感情を思い出すように。
 どうして、そんなこと言ってくれるんだろう。私を必要としてるみたいな言い方をされたら、勘違いしてしまう。
 でも、夏油くんの縋りつく弱々しい声に思わず、心配しないでと言いたくなった。





「好きだよ」

「……え?」





 その一瞬、世界から音が消えて、夏油くんの言葉だけが切り取られた。





「私も君が好き」 





 穏やかで、凪いだ海のような声がふってくる。



 すき…?それは私が思ってる好きと同じ?夏油くんが私を? いつから? あの補助監督さんは?
 信じられなくて、思考がショートしそうになる。聞きたいことは山ほどあるのに、言葉にできない。


 でも、壊れものを包むみたいな腕が、少しだけ震えてる声が、息をのむくらい緊張している夏油くんが、間違いなく私の目の前にいる。
 自惚れてもいいの?手を伸ばしてもいいの?



 ゆっくりと夏油くんが私の体を離す。彼の強張った無骨な手が、黒猫を握る私の手の上に重ねられた。あたたかくて、安心する。


 夏油くんへ顔を向ければ、その熱を帯びた視線に、私の方が囚われてしまう。
 いたたまれなくなり、何か言わなきゃと焦った口から飛び出したのは、一番気になっていたことだった。



「夏油くん、あの…さっきの補助監督さんは…?す、きなんじゃ…」



 中途半端に止めた言葉に、夏油くんは一瞬キョトンとしたあと、気の抜けた困り笑みをこぼした。



「…私が好きなのは、なまえだよ」



 間違いなくね。
 飾らない真っ直ぐな言葉に、全身の血がぶわっと沸騰する。今鏡をみたら、間違いなく私の顔は真っ赤だろう。
 嘘も迷いもない、彼の琥珀色の瞳に射抜かれる。目を逸らしてはいけないと思った。こんなにも私を見つめてくれる彼から。


 差し出された気持ちに応えたい。どうしようもないと諦めていた自分の気持ちに素直になりたい。
 夏油くんをもっと知りたい。後ろから眺めるんじゃなく、隣にいたい。
 どうか私にあなたの横を歩かせて欲しい。




「私で、いいの…?」
「なまえが、いいんだよ」




 震える声で伺えば、間髪入れずに夏油くんが言葉を被せてきた。
 同時に彼の目尻が垂れ下がり、眉毛がハの字になって、口元から笑みが溢れていた。その顔を見たら、私も気が緩んでしまう。
 夏油くんの隣にいていいんだ。いて欲しいと彼が願ってくれたんだ。

 
 いつの間にか涙腺は崩壊し、ポロポロと雫が溢れ出した。
 拭ってもとめどなく涙が流れる。目の前に好きな人がいるのに嗚咽が止まない。
 これ以上醜態を見られたくなくて、黒猫を持った手の甲で強引に顔を拭けば、コロリと手から滑り落ちた。慌てて拾おうとすれば、先に夏油くんの手が伸びる。
 じっと黒猫を観察し、数秒後、どうぞと私に返してくれる。それをおずおずと受け取れば、彼は満足げに目を細めた。



「ねぇ、聞いていい? その黒猫…どうしてあんなに欲しかったの?」



 私の手元を見て、期待のこもった温度で聞いてくる。きっと聡い彼は答えが分かっている。敢えて私に質問しているのだ。


 動揺してつい俯く。いや、この際欲しかった理由を言っても良いんだけど、改めて言うのは心中を曝け出しているようで恥ずかしかった。うぅ…と唸り声を出して言葉を絞り出す。



「夏油くんに……似てたから…」



 半ば、これで満足ですかっ、という気持ちで言い放つ。耳が、頬が熱い。夏だからなんて言い訳は通用しないだろう。


 次の瞬間、ガバッと後ろに倒れそうな勢いで、再び夏油くんに抱きしめられた。先ほどと違って逃げ場などない、力一杯の抱きしめ方。歌姫先輩みたいにしっぽが見えてもおかしくない。
 夏油くんってこんな風に気持ちを表現することあるんだ、と少しばかり驚く。



「あの、夏油くん…?」
「やっぱり君、可愛いね」


 
 なんだか、嬉しそうにしているから私まで笑顔になってしまう。彼の背中にぎこちなく腕を回した。するとさらにキツく抱き寄せられる。
 もう、数分前の自分には戻れない。好きな人の体温が、こんなにもあたたかいと知ってしまったから。