
5. 後ろ髪を引くのは私
告白をする前でよかった。これで、気まずくならなくて済む。
いや、そもそも私に告白なんてする勇気なかったんだし。そう、これで良かったのだ。
そう何度も自分に呪文のように言い聞かせて、夏油くんの前では、今まで通りでいようと私は心に決めた。
♢
報告書を提出し、寮に帰ろうとした時だ。陽も傾き始めて、道には自分の長い影ができる。
微かな話し声が聞こえて、何気なく顔を正面に向ければ、遠くからやけに身長差のある二人組が歩いてきた。
ハッと無意識に吸い込んだ音はそのまま喉に留まる。驚きというより、マズイという気持ちから、意識的に視線を地面に向けた。
顔をよく見なくても、誰だか分かるのが嫌になる。
一人は夏油くん。スクールバッグを左肩に背負い、時々その大きな体を相手に合わせて屈めながら歩いてくる。
もう一人は、例の補助監督さん。話によれば私たちより三つ年上らしい。
綺麗なミルクティー色の長髪に、大きな瞳とぷっくりしたピンクの唇。まるでお人形のよう。
この前、高専内で初めて見かけた時、あぁ、五条くんが言ってたのは、この人だとすぐに分かった。
楽しそうに会話をしている二人と、トボトボ一人で歩いている私の距離が縮まっていく。このままだと対面してしまう。猛烈にどこかに隠れたい気分だった。
「あ、」
そうこうしてる内に、私に気づいたらしい夏油くんが短く声を出し、ヒラリとその長い腕を持ち上げた。反射的に私も胸の前で小さく右手をあげる。
相手に認識されてしまえば、逃げ出すことは出来ない。
隣の補助監督さんもようやく私を認識したらしく、口元だけお手本のような笑みを浮かべた。そして、メイクで綺麗に整えられた顔はすぐ夏油くんへ向けられ、可愛らしく首を傾げる。
「じゃあ、わたし先に行くね。傑くんばいばい」
「はい。またよろしくお願いします」
傑くん…頭の中で反芻する。私は未だに "夏油くん" 呼びなのに、彼女はもう下の名前で呼んでるんだ。呼び方一つで親密度って、こんなに測れるんだ。
私と夏油くんが出会った今までの期間を、簡単に飛び越えられた気がして、無意識にスカートを握りしめた。
そんな私の真横を、補助監督さんは何事もなく通り過ぎる。
我にかえった私は、慌てて小さくお辞儀をしたが、彼女が私を見ていたかは分からない。
「任務終わり?」
さっきの補助監督さんに向けたワントーン上がった声色とは別で、同級生向けの、少し低めで優しさを含んだ声が上から降ってきた。
いつの間にか、目の前に来ていた夏油くんへ数回瞬きを送った後、私の喉からようやく言葉が紡がれる。
「そ、そう。さっき、報告書出してきたの。夏油くんは朝からだったよね?お疲れ様」
私は午後に一件だけ。でも彼は朝から任務だったはず。それを思い出して労いの言葉をかければ、疲れなど微塵も感じさせない笑顔を浮かべ「ありがとう。なまえもお疲れ様」と言われた。
私が無意味にスクールバッグを肩にかけ直すと、夏油くんの視線がそれを追う。
「あれ?猫は?」
夏油くんの長い指が、私の左肩を指差す。ネコ?と一瞬なんのことか不思議だったが、すぐさまあのストラップだと気づく。
「あーあれ!携帯につけ直したんだ」
ほら!と慌ててポケットをまさぐって、携帯を取り出す。そこには夏油くんに似たあの黒猫がぶら下がっていた。
ゲームセンターに行ったあの日。
店内に戻ると、五条くんが女子高生に逆ナンパされていた。モテる男の子は大変だなぁ、と横目で見ながら夏油くんと共に通り過ぎる。
"なまえ、これが欲しかったの?"
真っ先に黒猫のクレーン台へ戻り、夏油くんが不思議そうに私に聞いてきた。
さっきのナンパ師との会話で、私がこれを欲しがっているのが、何となく分かったのだろう。
普段、挑戦しない私がクレーンゲームをやっていたのが意外だったらしく、夏油くんは物珍しそうに景品の黒猫を覗き込んでいる。
口ごもる私に、隣にいた硝子ちゃんが何かを察したのか、「可愛いじゃん。夏油とってあげてよ」と代わりにお願いしてくれた。
それに快く承諾してくれた優しい夏油くんによって、この黒猫は私の元へやって来たのである。
好きな人が取ってくれた、好きな人に似てるストラップ。
これを手渡された時、私は嬉しさが全面に出てたらしい。「夏油くん、ありがとう…!」とお礼を告げると、その勢いに夏油くんは一瞬目を丸くし、フリーズ。
しかしすぐに、眉毛をハの字にして、「どういたしまして」と見守るような優しい笑みを浮かべたのは、今でも鮮明に覚えている。
「悟に言われたんだけど、それ私に似てると思う?」
夏油くんが急に顎に手を当てて、じーっとストラップを眺める。彼の発言にドキリと胸が動く。それは五条くんにも言われたことがあったから。
黒猫ストラップをたまたま見つけた五条くんは、しみじみと眺めて、「なーんかそれ傑に似てねぇ?」と訝しげに言ってきたのだ。
内心とても慌てたが、ふと視線の先に七海くんの姿。五条くんの興味はすぐに彼へと移ったので、それ以上突っ込まれることはなかった。
七海くんあの時は、ありがとう。
夏油くんに似てると言ったら、どうなるんだろう。自分に似たストラップを同級生が欲しがってたなんてちょっと、いや、かなり気味悪い…と自分でも思う。 瞬時にその考えに至った私は、
「そ、そうかな?」
似てるかな?と曖昧に笑ってしまった。私の態度に夏油くんはなぜか、ふーん、と探るような、納得のいかない様子で顔をしかめる。私が返答に困ってるのが分かったのか、
「君に可愛がられるなんて、羨ましいな」
嫉妬しちゃうね、なんて冗談混じりに夏油くんは微笑んだ。
「えっ…その、」
携帯をキュッと握りしめる。すると、夏油くんの指先が黒猫に伸びてきてストラップをもて遊んだ。されるがまま、ゆらゆらと揺れる黒猫を見て彼は満足したらしい。
「じゃあ、私も報告書だしてくるね」
そう言って横を通り過ぎた夏油くんの匂いが鼻をくすぐる。
大きな背中が遠ざかっていくのを見つめていたが、彼がこちらを振り返ることはない。
そこにはもっと話していたかったと、名残惜しく立ち止まる自分の長い影しかなかった。