物事ってなんでも、なんで浮き沈みがあるんだろう。
先月はうまくいってたじゃん。なんだこれ、もう。


「…あー、もう、」


くしゃりと掴んだ前髪からシャンプーの匂いがする。お気に入りのこの香りも今は私を落ち着けてはくれない。
帰りたい。帰りたいけど、帰ろうと思案を巡らせるたび先ほどの上司の嫌味が脳裏を掠める。くそう。
仕事でミスをして、立て込んで…勝手に自爆した。なんとか終業までに立て直したものの、刺さる嫌味を避けきれず自棄になって残業している。自棄残業ってなんだよ。自分でも笑ってしまう。
やれどやれど後から仕事が出てくるのはまったくこの国の闇だと思う。
濃度の高い溜息を吐き出して目頭を押さえた。
そろそろ切り上げようかな。明日は休みだし、これだけまとめとけば少なくとも月曜日は楽できるでしょう。


「あっ、」


パソコンを終了させていざ立ち上がろうとしたら、積んであった資料に引っかかった。バサバサと音を立てて滑り落ちる無数のA4。クリアファイルやらリングファイルやら…もう、きちんと順番通りに並べてあったはずなのに。


「……なんっなの、ほんとに」


こういう日って、ある。
なぜだか朝からイライラして、負の感情に引き寄せられるように気の滅入ることが続く。大きなことも、小さなことも。
しゃがんで資料をかき集める。ファイルからこぼれ出た資料がホチキス留めしてなくて絶望した。これまとめたの誰よ…。
限りなく小さな部類に入るはずのこんな出来事も、本日最後となれば積もり積もって重圧となり私の肩にのしかかった。勘弁してほしい。こっちは一日中ブルーライトと睨めっこで肩はもうパンパンなのだ。


「痛、」


くない。痛くないけど、サッと軽く血の気の引く感覚がした。やっちゃった。紙で指先を切ってしまった。じんわりと赤く滲んできた人差し指を慌てて口元へ寄せる。鉄の味がした。痛い。痛くない。痛い。…もうやだ、なんかいろいろ痛い。
苛立ちとか、悲しみとか、思考が詰まって視野が狭くなった気さえする。
しゃがんで指をくわえて固まる私を俯瞰で想像して、なんだか笑えた。惨めだ。最早おもしろい。
揃えた資料をデスクに置き今度こそ荷物を片付けた。書類の順番なんて知らない。そんなのは来週の私がなんとかしてくれるでしょう。


#


花金なんて、ばかみたいだ。
定時を回った社内は閑散としている。いつもならありえないほど素直に降りてくるエレベーターの階数表示を見つめた。
…いや花金は悪くない。悪いのは私だ。今日何度目かわからない溜息をこぼした。
…煙草、吸って帰ろうか。…いやさっさと帰ろう。帰って寝ちゃおう。ゆっくりお風呂に浸かるのもいい。このあいだもらったバスボムが湿気ってしまう前に使わなきゃ。明日はゆっくり寝て溜めてた録画でも見ようかな。

あのドラマ先週分観てないからなあ。どうなったんだろうあの後。
お気に入りの若手俳優演じる刑事とその同僚の恋について思考を巡らせていると、いきなり脈絡もなく彼の顔が浮かんだ。今日1日考えないようにしていた、灰を落とす姿がやけに様になる彼の顔が。彼は今日も忙しかったんだろうか。

告白まがいな言葉をうけてから、ずっと気になっていた。あたりまえだ。あんなこと言われて気にならないわけがない。
今日のミスだって、もしかしたら村上くんのせいもあるかもしれないよ?なんてありもしない責任転嫁を心の中で笑った。
…私もいい年した大人だ。その辺はわきまえている。仕事中は村上くんのことは一切考えないようにしてるからそれとこれとは別問題。…別問題だけど、今思い出さなくてよかったかも。考えることが増えて余計気分が落ち込む。

電球色の灯るエレベーターの箱が開いて、足元を見ながら乗り込むと男性ものの革靴が目に入った。会釈をしながら扉の方へ向き直ってまたひとつため息をつく。


「なんや、疲れてんのかいな」


いきなり飛び込んできた声に弾かれたように振り向いた。
目が合う。息を吸う。彼は笑わない。
わたしは今 きっと目を見開いてる。
そこには少し顎を上げ気味に立つ、いつも通り表情の堅い村上くんがいた。


「む、むらかみ くん、」
「なんやねん、人をバケモンみたいな目で見て」
「え。や、あ…お疲れさまです…」


「おー、お疲れ」
ゆっくりと頷くように村上くんが言う。
びっくりした。本当にびっくりした。だって気がつかなかった。エレベーターに乗ってる知り合いに気がつかないなんて、あるか?本当に周りが見えてなかったんだと感心さえした。


「残業て、珍しいなあ」
「…そうだね」
「最近そんな忙しいん?」
「や、そうでも、ないけど」


なんかちょっと、気まずいのは私だけだろうか。先日あんなことを言われてから、きちんと話すのはこれが初めてだ。
…気にしてるのは、わたしだけなんだろうか。


「…ほんまに元気ないやんけ。どうしてん」


少し怪訝そうに覗き込む村上くんがかっこいい。こんなかっこいい人が、私のことを好きになるなんて…ないか。


「や、なんにもないよ。元気元気」


“お前みたいなん、めっちゃ好きや”
って、よく噛み砕いたら恋愛じゃなくも十分取れるし。
なんてあの日から何度繰り返したかわからない考えを一瞬でひと巡りさせた。
本気になってはいけない。自分から傷つくようなことをしてはいけない。村上くんとわたしは違う世界の人なんだ。
いつものように笑って見せて、1の数字を点灯させて止まったエレベーターの扉が開くのを待った。


「ほんまか?なんか悩んでるんとちゃうか?」


追いかけるように聞こえる村上くんのやけに優しい声が痛い。やめてほしい。お願いだからそんな風に心配なんてしないでほしい。


「話くらいなら聞いたるで?」


降りたエントランスには誰もいなくて、暗くなった外にはポツポツと車が走っている。


「響子、」


立ち止まって振り返ると、村上くんも立ち止まった。名前でなんて、呼んでなかったじゃん。
心配そうにこちらを見ている表情がなんとも言えず可愛かった。いつもはかっこいいのにこんな時だけ可愛いなんて、ずるい男だ。


「飲みに行こか」


何かを悟ったように薄く微笑んだ彼の言葉に、何も言わずただ頷いた。

あ、だめだ、わたし、






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村上くんが、好きです。

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ミガッテ