「異動、ですか」





ロマンスグレーの中年男性がもたれる椅子を回しながら私にファイルを手渡した。
『この企画が例年通りいったらな』言われた言葉が耳から入ってきて脳を侵食する。

本社異動って、なんだ。
つまりそれは……転勤?

泳がせていた視線を書類に止めて、反芻する言葉の意味を飲み込むのに必死になった。
ここ数年、わたしが主体となって担当してきた大きな企画が今年もまた始まる。ここからまた5ヶ月間のロングラン。
毎年いっぱいいっぱいになりながらも取り組んできたが、頑張りなりには評価されていたらしい。評判が悪くないというのは知っていたけれど、まさか自分の知らないところでそんなことになってるなんて思いもしなかった。
『先週みたいなミスだけはやめろよ』と穏やかな口調で念を押す上司に頭を下げる。優しさかもしれないけど、それ嫌味にしか聞こえません。



『課長、なんだって?』



琴美が椅子ごと近付いてきて、小声で顔を寄せる。
できるだけさらっと、オブラートに包んで概要を話すと『え!やったじゃん!頑張んなきゃだね!』と肩を叩かれたから苦笑いをした。
嬉しい、けれど、毎年ぎりぎりでやってる分だけ少し不安になった。

落ち着けば大丈夫、と言い聞かせながら座り直す。しかし資料を読む目が滑ってなかなか頭に入らなかった。
…課長ももう少し言うタイミングずらせなかったかな。せめてこんな出鼻ではなくちょっと軌道に乗った時とかさあ…いろいろあるでしょうよ。


「…………」


細く息を吐いてファイルをデスクに放した。
…だめだ、全く身が入らない。


『どしたの?』
「や、どうってわけではないけど」
『…プレッシャー?』
「まあ、そんなとこ」


正直、今日は朝からあまり身が入ってない。考えないようにしているけれど、どうしても浮かんでしまう顔があるからだ。地に足がついてないような、思考に靄がかかったような、何をするにも頭の片隅にチラついて離れない。
こんなこと今までなかったのに。社会人も何年めだと思ってるんだ。


『会いに行って来れば?』
「…誰に」
『そりゃもちろん、』


紫煙くゆらす彼でしょう。

そう悪戯っぽく笑った彼女の顔を思わずまじまじと見た。ちょっと、なにそれ いつ聞いた?
何も話してないはずの彼女が指す彼の顔を慌ててかき消す。
『とりあえずリフレッシュしてきな』なんてやけに落ち着き払って言うから「…そうする」と納得しないままに頷いた。
迷ったけど、財布と一緒にお気に入りのポーチもひっつかんだ。


「“コーヒーブレイク” へ 行って参ります」


わざとらしくハキハキとそう告げると『行ってらっしゃーい』と彼女は綺麗に微笑んだ。



#



がこん。
重い音に屈めばひんやりとしたスチール缶が手に入る。自販機の前のベンチに腰掛けプシッとプルタブを起こした。
先週残業しておいてやっぱりよかった。じゃなきゃこんなことしてられない。

喫煙室に行くのは少し迷って、でもリラックスできない気がしたからここに逃げてきた。
…まあ別に他の喫煙室使えばいいだけなんだけど。ビクビクしながら吸う煙草なんてきっとおいしくない。

壁にもたれて項垂れると考え事の重みで首が取れそうだった。短期間でいろんなことが起こりすぎて、正直頭が着いていかない。同時にいくつかの物事を考えるのって、どうも苦手だ。



「あー、」




村上くんに会いたいような、会いたくないような。
気が緩むといつだってあの日の夜のことを思い出してしまう。たった一回の行為をこんなにも引きずるなんて、学生みたいだとその度に少し笑えた。

転勤、企画、村上くん。
ちょっと一度に抱えるには重たいなあ。

公私混同なんてありえないと思ったけど、しっかり惑わされてる自分が情けない。ちゃんとしなきゃ。頑張れよオトナ。

少なくとも企画が始まる前に村上くんのことはどうにかしよう。
幸か不幸か、行為より先に自分の気持ちを自覚してしまった。そのおかげで幸せだったあの時間は その同じ分だけ私を苦しめる。

そういう関係としてこれから先も割り切って接せる性分でもなければ、一夜限りだったんだとなかったことにすることもできない。できないのは、彼のことを好きだと気付いてしまったから。我ながら厄介である。





「 こんなとこおったんかいな 」





飛び込んできた音に思考が止まった。

幻聴でなければ、今私はとんでもない声を聞いた。
おそるおそる顔を上げる。視線の先に見慣れた革靴が入った。



「…なんでここに いるんですか」



相変わらず表情を崩さない彼が立っていて。
目を合わせると途端に動悸が激しくなった。声だけ平静を装ってて逆に不自然なほどだ。


「なんでて、探したんや」


探したって、それはなんで。
ゆっくり私に近付いて、少し眉間に寄った皺が深くなる。



「異動、するん」



聞こえたセリフに耳を疑った。
…え?…異動っ て、



「…なんでもう知ってるの!?」



思わず大きな声を出す私に「ちょお落ち着け」と彼は短く返した。落ち着いてなんてられるか。私だって十数分前に知った情報を、なぜ違う部署のあなたが知っているんだ。


「なんで!?どうして!?」


取り乱す私を促すように「場所、ここなんかあかんわ」と言って身を翻した。待って。慌てて缶を捨てて彼の後をついていく。

村上くんに会ったらどんな顔で何を言おう…なんて考えてたのに、予想外の展開すぎて全部ふっとんだな。



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ミガッテ