「此処に居る奴らは全員クソだ」

 視界一杯に広がる青空を眺めながら禪院甚爾はそう吐き捨てる。
 癖のない黒髪を土埃によって汚し、幼い顔に険を刻んでは実に忌々しげな口調で。
 だからであろう、ひょいっと顔を覗き込んできた人物が困ったように眉を下げたのが解った。
 次いでどこか気遣わしげに「立てますか?」と手を差し出してくると、さも当然とばかりに小さな身体に付着した汚れをぱっぱっと払い始めるものだから、されるがままの甚爾は隠しもせずにチッと舌を鳴らす。

「本当のことだろ。俺がどんなに努力を重ねたところで禪院(ここ)の奴らは絶対に「俺」を認めねぇんだからな」

 「呪術師」として生きていく為に必要不可欠なもの。それが禪院甚爾には備わっていない。
 生まれながらに肉体に強制された“縛り”によって、彼は「呪い」を祓う為の呪力を持たずに生まれたのだ。
 しかも一般人並みに呪力が下がってしまったのではなく、端から持ち合わせていない形で。
 要するに一般人以下、呪力を一切その身に宿していない(・・・・・・・・・・・・・・・)のである。


 御三家の一角たる禪院家において、術式を持たぬ者は人間(ひと)ですらない。


 この家では「禪院家相伝の術式を引き継いでいること」こそが何よりの絶対条件とされており、ひいては存在意義とされている。
 それ故に甚爾は人間(ひと)として扱われず、存在意義すらもない状態で育ってきた。
 この世に生まれ落ちた瞬間から落伍者の烙印を押され、これでもかと冷遇されてきたのだ。
 実の両親(おや)からも愛されず、誰からも目を掛けて貰えず、徹頭徹尾“居ない者”として扱われてきた────────「彼女」が禪院家を訪れるまでは。

「では今日限りで手合わせも仕舞い、と言うことですか?」

 彼女が禪院家を訪れたのは単純に順番が回ってきたからなのだが、何はともあれ、その日を境に甚爾を取り巻く環境はガラリと変わった。
 少なくとも“居ない者”として扱われることはなくなった、と言ってもいい。
 尤も、他者(みうち)から向けられる眼差しは依然として変わることはなかったのだが。

「止めねぇよ。いずれクソ共に吠え面をかかせる為にもな」
「……甚爾は年々口が悪くなっていきますが、それらは一体どこで覚えてくるのですか?」

 なるべく傍に居るようにしているのに、と肩を落とす女性を前に何を今更と言いたげな甚爾は溜め息混じりに「周りがクソだらけだからだろ」だなんて返事を返す。
 自分に向けられる悪意、侮蔑、嘲笑、蔑視……それら全ての感情を受け止め続けていたら自然と“こうなってしまっていた”だけだと。
 要は周囲の人間が悪いことを暗に伝えたら目の前の女性が見るからに表情を曇らせた為、それを目にした甚爾が又もやチッと舌を鳴らしかける。が、寸前で何とかそれを堪えると、相手の呪符に覆われた手を掴むなり自身に与えられている離れに向かって悠然と歩き出す。

「腹減った」
「…………ええ、そうですね。今日は沢山動きましたから」
「沢山投げ飛ばしたの間違いだろ」
「加減はしていますよ。甚爾はまだまだ小さいですし、気を付けなければ何処までも飛んでいきそうですから」
「なめんな」

 今にデカくなってお前を見下ろしてやる、と言う台詞は敢えて飲み込んでおいた。
 何故なら、現時点で彼女の半分にも満たない自分が“それ”を口にしたところで微笑ましく頭を撫でられるだけだからだ。実際、事あるごとに頭を撫でられるし。

『今は良い。精々好きなだけガキ扱いしてろ。でもオマエを見下ろせるくらいデカくなったら、俺はオマエを連れて禪院家(ここ)を出ていく』

 誰にも渡さず、自分だけのものにする。
 彼女が「呪い」を内包していようがいまいが、関係ない。
 必要とあらば呪術界からも切り離し、現し世からも隔離し、己の手だけが届く場所に閉じ込めてしまおう。
 だって彼女は、ようやく自分に与えられた唯一の存在(もの)なのだから。



『コイツはもう、俺のものだ』



 ──────誰にも奪わせてなるものか。








「五条家に「六眼」を持つ赤子が生まれたそうです」







 オマエは「それ」を聞いてどう思った?、と甚爾は女性に問い掛ける。
 彼女に与えられている部屋の障子戸に寄りかかり、年齢を重ねるに連れてすらりと伸び始めた手足を着崩した和服に隠しながら。
 それでいて観察するように相手を眺め続けていると、目を通していた手紙から視線を外して僅かに此方へと振り向いた女性が顎に指を添えつつ、一言。

「純粋に良かったな、と。無下限呪術と六眼の抱き合わせなど何百年ぶりかになりますから。これで五条家も暫くは安泰でしょう」
「へえ。んで?本音は?」

 建前が聞きてぇ訳じゃねえんだよ。
 背中を預けていた障子戸から離れ、女性の傍にまでゆっくりと歩んでいく甚爾は今の今まで相手が読んでいた手紙を指で摘み上げる。
 わざわざ目を通さなくとも、差出人も、内容も、既に見当が付いていた。五条家からだ。

「個人的な感情を口にするのなら、……そうですね。“今代こそ「私」を殺してくれる術師であれば”、と」

 何て事なさそうに話す女性ではあるものの、その表情(かお)は確かに期待に満ち溢れていた。
 何せ前回の六眼持ちは余りにも予期せぬ形で亡くなってしまったのだ。
 望まぬ形で何千年と生き続けてきた彼女にとって、己を殺せる可能性を持つ術師(・・・・・・・・・・・・・)の誕生は相当喜ばしいものであるのだろう。
 もしかしたら今度こそ死ねるかもしれない、と、楽しみにしている節すらある。
 当の五条家もそれを知ってか知らずか、こうやって幾度となく催促状(こいぶみ)を贈ってきているくらいだし。

(でもコイツは六眼のガキじゃなく、「俺」を選んだ)

 六眼持ちが生まれてから早数年、本来であれば疾うに五条家の預かりとなっている筈の彼女は尚も禪院家に留まり続けていた。気掛かりな存在(禪院甚爾)が居たからだ。
 つまり女性自らがもう暫く禪院家に留まることを決めたのだが、悲しきかな、順番を違えられたことによる非難の矛先は彼女自身ではなく「禪院家」に向けられていた。

 曰く「口八丁に言いくるめたのではないか」、と。

(幾らガキに甘かろうと、ンな簡単にコイツが言いくるめられるかよ。バカしか居ねえのか)

 永きに渡って生き続けてきた女性(かのじょ)は呪術界において“それ相応の立場の人間”、と言っても過言ではない。
 尤も当の本人は頑なにその立場を良しとせず、早い内から自分自身の権威と発言力を放棄してしまったのだけれど。
 ただそれでも女性の身を預かることが出来る御三家だけは、彼女を所有している期間中のみ、女性の持つ人脈や財源を際限なく自由に使用することが許されていた。
 故に御三家の一角たる加茂家と五条家が禪院家を糾弾してきたのだ。
 今回の件を機に「巫蠱(かのじょ)」を独占するつもりでいるのではないかと、そのような憶測で禪院家を非難した。
 まあ件の禪院家当主はそう言った非難の悉くを一笑に付し、何一つとして相手方の言葉を耳に入れようとはしなかったのだが。

禪院家(クソ共)がどう思われようと俺には関係ねえが…………コイツを“あのガキ”に会わせるべきじゃねえのは確かだ』

 摘まんだままであった手紙を一瞥し、脳裏に“とある少年”の姿を思い浮かべる甚爾は此方を見上げてきている人物を静かに見下ろす。
 呑気に「返事を書きたいのですが……」、だなんて口にしては手紙を取り返そうとしている見慣れた女性の顔を。ただただジッ、と。

『あのガキなら間違いなくコイツを殺せる筈だ。コイツも“それ”を切望(のぞ)んでる…………なら今しかねぇだろ(・・・・・・・・・)

 奪われてしまう前に、奪う。
 もとより誰の許しも必要ないのだから、と摘まんでいた手紙を雑に放っては此方に伸ばされていた相手の手を掴む。
 いついかなる時も禪院甚爾(おのれ)を導き、放さないでいてくれたその手を。
 いつの間にか自身よりも小さくなってしまっていた、■しき女性(おんな)の手を。

 今度は彼女からではなく自らが導くような形で、グッ、と、力強く。

「?甚爾、」
禪院(ここ)を出ていく」
「出、────……」

「オマエも連れてく。一緒に来い」

 禪院家を出ていく。
 その一言を受け、女性は“遂に「この日」が来てしまったのだな”、と一人感慨に耽ける。
 だが続けられた言葉と自分自身の手を握り締める相手の手の力強さに一瞬だけ思考を停止させると──────次の瞬間には確と甚爾の腕を掴んだ。
 掴んで、彼を引き留め、浮きかけていた自身の腰を再び座布団の上に戻す。

「おい。聞いてんのか、」
「甚爾。私は“そちら側”には行けません」

 己が手を握り締める手に手を重ねて、ゆっくりと引き剥がしていく。
 だが完全に引き剥がすのではなく、相手の指先に微かに触れたまま、女性は暫し逡巡する。
 そして────────もう一度だけ、繰り返す。
 迷い、惑い、無意識に■り掛けた己を律し、まるで言い聞かせるような口調で。

「────……「私」は、“只人の世界(そちら)”では生きていけない」

 ハッキリと。
 これが「正解」だとばかりに紡ぎ出されたその言の葉に、甚爾は何も返さなかった。
 失望したわけではない。
 絶望したわけでもない。
 ただ改めて思ったのだ。改めて思わされたのだ。
 後にも先にもこの女の■を■■■ことが出来るのは自分だけ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)であろう、と。

「だから、貴方とは一緒に行けません」

 指先から微かな温もりさえもなくなる。
 幼少期から幾度となく繋いできた手を自ら手放した女性は柔和な笑みと共に甚爾を見上げた。
 いつだって“この瞬間”は物悲しい気持ちになって仕方がないな、と思いながら。




「──────馬鹿だな、オマエ」




 そうやって己自身を■し続けるくらいなら、いっそ、この手を取って逃げ出してしまえば良いのに。
 そうすれば現状を変えることは叶わずとも、たった一人の理解者を失わずに済む。
 選ぶべきはどちらか、それが解らぬほど愚かな女ではないと、そう信じていた禪院甚爾は────────何処までも救いようがない目の前の女性を心底憐れみ、彼女の「特別」になり得なかった自分自身を心から嘲笑った。













「なるほど。貴様には好きで好きで堪らない意中の相手が居る、と言うことなのじゃな」

 某月某日、沖縄県某所にて。
 胸元まである長い黒髪を三つ編みに結い、頭にヘアバンドを着用した少女こと「星漿体」天内理子は沖縄そばに舌鼓を打ちつつ目の前の人物へとそう話し掛ける。自身と向き合う形で席に着いた白髪頭の青年こと五条悟へと。

「そー言うこと」

 因みに短い返事と共に今の今まで身に付けていたサングラスを額にまで持ち上げた五条は、その美しい碧眼を最初から最後まで己の携帯電話のみに注いでいた。
 意中の相手からの返信を今か今かと待ちわびているのである。かれこれ数十分間くらい同じ姿勢で。

「えっと……では先ほど私と理子さまを挟んで写真を撮っていたのは……」
「無謀にも相手にヤキモチを妬いて貰いたいんですよ」

 天内の隣で終始不思議そうに五条を眺めていたのは髪の毛をお団子状に括った女性で、名を黒井美里と言う。
 彼女は代々「星漿体」に仕える家系の出であり、一言で言うならば天内専属の使用人(メイド)だ。そして天内理子の唯一の家族、でもある。
 また携帯電話とにらめっこをしている五条の隣に座るのは一房だけ前髪を残して後は後ろで纏め上げた青年で、派手なアロハシャツを身に纏う夏油傑もまた携帯電話を片手に誰かしらへと連絡を取っていたのだった。

「しかし脈なしとは……憐れな」
「余裕で脈ありだっつーの。なめんな」
「一向に返事が来ぬではないか」
「……ケータイに慣れてないから打つのにも時間が掛かんだよ」

 まるで自分に言い聞かせているようだ、とは思いながらも、ここは敢えて口を噤むことを選択する黒井だった。
 大人なので空気を読んだのだ。あと思春期男子の可愛らしい尊厳を守ってやらねばと思ったらしい。
 まあ向き合った先の思春期男子2号(げとう)がプッ、と吹き出したことでその気遣いは無駄に終わってしまったのだけれど。

「何だよ」
「いや……硝子が言うには、彼女、「悟が年頃の女の子と仲良くしていて実に微笑ましい」とか何とか言いながら画像を見せに来たらしくて」

 むしろ喜んでるっぽい。
 そう言って同級生から受け取ったメールを五条に見せる夏油は「だから逆効果だって言ったのに」、と口にするなり相手の肩をポンッと叩く。思いがけず自分自身に大ダメージを与える事となった親友を慰めようとしたようだ。
 一方で事の成り行きを見守っていた天内は口元を押さえるなりふるふると肩を震わし、一拍の後、ブハッ!と吹き出す。それはもう我慢し切れなかったと言わんばかりに体を折り曲げながら。

「ま、全く相手にされておらぬとは……!さては貴様の好きな女子(おなご)とやらは相当な年上なのではないか?」
「まあ年上と言えば年上だね。彼女からすれば私らなんて完全に「子供」だし」

 小さな子供が癇癪を起こす数秒前、みたいな表情となった五条を然りげ無くカメラに収めつつ天内の推察に相槌を打つ夏油。
 今に始まった事じゃないんだから不貞腐れるなよ、と言うフォローになっていないフォローは口にしないことにしたようだ。懸命な判断である。

「あっ、あの、でしたら贈り物などをなさっては如何でしょう?お相手の好きそうな物とか……」
「おお、名案じゃ!年下とは言え異性からの贈り物(プレゼント)に何も感じぬ者なぞ居らんじゃろ。どうじゃ?」
「ん〜……」

 仲を取り持とうとした黒井の提案に便乗する形で身を乗り出した天内ではあったものの、如何せん彼らの反応は中々に微妙なものであった。
 この様子からして既に実践した後だったのだろうか?
 恐る恐る元の位置に戻りながら二人を窺っていると苦笑を浮かべた夏油の口から事の説明が入る。
 曰く「贈り物は下手をすると呪物になりかねない」のだそうだ。
 また当人が全く以て物に頓着が無い人間(ひと)なので、例えアクセサリー類などを贈っても深く捉えられることはないのだと。むしろその辺に生えている草花を摘んで帰った方が余程反応が良いらしい。

「それはまた昨今の女性にしては物珍しい、と言いますか……」
「ああでも、一般女性とは少しだけ性質が異なるだけで……彼女は常に他人を思いやれる、本当に心根の優しい方なんですよ」

 あと無類の子供好きです。
 そんな風にとても穏やかな口調で相手のことを語る夏油だったが故に、この中で一番の年長者たる黒井だけが彼の“その態度”に僅かな違和感を抱く。
 これは気のせいかもしれない、余りにも小さな違和感だったけれど、『もしかして……』と思ってしまった彼女は此方に背中を向けている五条をチラリと盗み見る。
 そして再び件の夏油に視線を戻すと物の見事に彼と目が合ってしまい、思わず「本当は夏油様も(・・・・・・・)」などと口を動かし掛けたら──────────“しぃっ”、と。
 それはそれは静かに、音もなく人差し指を立てられた。

 “悟には黙っていて欲しい”、と、暗にそう訴え掛けられたのだ。

「ふうむ……そこまで聞いてしまうと妾も直接会ってみたかったものじゃな。気になって仕方がない」
「てか明日になれば天内も会えるよ?俺が高専(こっち)に居る間は向こうにも居を移させてるし、巫蠱が天内を天元様の元にまで案内してくれんの」

 ようやく気持ちを落ち着かせることが出来たのだろう、手元のグラスに手を伸ばしてストローを口に咥え始める五条は何処か呆れ気味に「最初に説明しただろ」と続ける。もう忘れたのかよ、とでも言いたげに。
 だが天内の口から即座に「聞いとらんのじゃが」と返されてはズココ……と音を奏でながらグラス内の水を飲み干し、ゆっくりと傍らの夏油を見やる。コクリ。頷かれる。
 どうやら話したつもりで話していなかったらしい。途端に非難の目が二つ、四つ、六つと突き刺さってくる。



「…………ま、明日のお楽しみってことで」



 五条悟、十六歳。
 素直に「ごめんなさい」、と口にすることが出来ないお年頃だった。










「──────任務、お疲れ様でした」


 お帰りなさい。
 そう言って護衛組を出迎えたのは見るからに物腰の柔らかな女性であった。
 身に纏うのは上下共に真っ黒な切袴(わそう)でいて、パッと見では成人しているかどうかの判断がし辛い。
 それでも相手の醸し出す雰囲気が年上の“それ”であったが故に天内は自然と居住いを正す。
 また鏡がないからと黒井に髪型や制服等に乱れは無いかを幾度と無く確認しては逸っていく心臓を服の上から握り締め、息を吐き出しながら件の女性へと向き直る。

 正直、このような緊張感は生まれて初めてかもしれない。

「予てより存じてはおりましたが、実物はより可愛らしい御子のようですね」
「はぇっ」

 「子供」である天内を視界に入れるなり花開くような笑みを浮かべる女性だったが為に、当の天内が堪えきれずに変な声を漏らす。
 勿論すぐに口を押さえたものの、どうやっても頬の紅潮だけは隠しきれず、そのままどう答えるべきかどうかを悩んでいたら当然の事のように頭を撫でられた。
 情緒が追い付かない、とは正にこの事を言うのだろう。
 先ずは自己紹介をすべきなのか、或いは「可愛らしい」と言ってくれた事に対する礼を言うべきなのか。
 優しく頭を撫でられる度に相手の身体から良い匂いが香ってきて最早このままでもいいかな、だなんてことを天内が思い始めていたら。

「疲れた」
「?」

「俺は、超、疲れた」

 女性と天内の間に割り込んできた五条がただ一言、「疲れた」と。
 だからであろう、それを見ていた夏油と黒井が揃って『大人げない』と言う感情を胸に抱くのであった。

「ええ、確かに此方の想像以上の働きをして下さったみたいで……お疲れ様でした、悟」
「言葉以外の形で労って」
「言葉以外……では何か用意致しましょう。欲しいものは御座いますか?」
「“ん”」

 その言葉を待ってました、と言わんばかりに五条が女性を指差す。
 つまり任務を頑張った『御褒美』として彼女自身を所望したのだが────────これが不味かった。
 何を隠そう、相手を指差した瞬間に夏油と天内が容赦なく彼の頭を“スパーンッ”と引っ叩いたのである。生憎と当たりはしなかったが。
 しかしそれでも「人の好意を何だと思っておるのじゃ貴様は!」と言いながら五条の側から女性を引き剥がす天内で、静かに成り行きを見守っていた黒井もこればかりは同意見だと言いたげにうんうんと頷いていたのだった。

「欲しいものを欲しい、っつって何が悪いんだよ」
「ケダモノめ。口を慎むが良いわ」

「チッ。二度とごめんだ、ガキのお守りは」

 言うが早いか、一昨日からずっと術式を展開し続けていた五条が漸く己が術式を解いた。
 今の今まで用心に用心を重ねていたが、此処は既に呪術界の要、「天元」の結界内だ。
 もう奇襲は無いだろうと踏まえての術式の解除で、女性も再度「お疲れ様です」と五条に微笑み掛けると傍らの天内へと視線を移す。

「それでは参りましょうか」

 相手を安心させるような声音と態度で女性が天内に手を差し伸べれば──────────────“トスッ”と。


「………………は?」


 軽く肩が打つかった、程度の衝撃と共に五条悟の身体が貫かれた(・・・・・・・・・・・)
 何処からか姿を現した一人の男の凶刃によって、その身体()が。

『っ馬鹿な!!ここは高専結界の内側だぞ!?』

 一瞬。余りにも一瞬であった。
 その場にいた誰もが突然の強襲に驚き、目を疑っては初動に遅れを出した。

「────……っ、とう、」

 だが女性だけは彼らとは違う意味で行動を鈍らせてしまっていた。
 反射的に天内を己が背に隠しはしたものの、彼女はこの場にいる誰よりも驚きを露にすると無意識の内に喉を震わせてしまっていたのである。
 何故かと言えば、自身が振り返った先に居たのが“余りにも懐かしい「存在(じんぶつ)」”であったからだ。
 例え数十年ぶりであろうと、彼女が「彼」の顔を見間違える筈がなかった。

「……アンタ、どっかで会ったか?」
「気にすんな。俺も苦手だ、男の名前覚えんのは」

 禪院甚爾。否、伏黒甚爾。
 かつて女性が六眼の子よりも優先し、共に過ごすことを決めた存在が────────何故か“そこ”に居た。

「!」

 甚爾が五条の身体を貫いている刃を斜めに引き抜こうとした瞬間、彼の身体が突如として後ろに引っ張られた(・・・・・・・・・)
 それでいてその身が宙に投げ出されると「待ってました」と言わんばかりに喚び出されていた夏油の呪霊によって頭の天辺から足の爪先までバグンッ!、と丸のみにされる。

「悟!!」

 相手の動きを封じたことにより訪れた束の間の静けさの中、夏油が辺りを警戒しながら慌てて五条の元にまで駆け寄ろうとすると彼の口から即座に「問題ない」と言う一言が紡ぎ出される。
 曰く「術式こそ間に合わなかったけど内臓は避けたし、その後は呪力で強化して刃を何処にも引かせなかった」と。

「今は天内優先。アイツの相手は俺がする。傑達は先に天元様の所に行ってくれ」
「……解った。油断するなよ」
「誰に言ってんだよ」

 貫かれた箇所から伝わってくる熱と痛みに脂汗を滲ませながらも口元に笑みを形作る五条は、傍らの女性も一緒に連れていくよう親友を促す。
 しかし件の女性が此方を一瞥した後に呪術高専の入口、つまりは甚爾を飲み込んだ呪霊が居る鳥居に目を向けたのを見て、夏油はすぐに相手が“この場に残るつもりであること”を察した。故に逡巡してしまうのだが、今は迷っている時ではないだろうと判断すると振り切るようにして彼女に背を向ける。
 そして戸惑う天内らを連れて呪術高専の最下層に向かって一気に走り出す。

「っ、おい、何で傑達と一緒に」
「此処で何をしているのですか、甚爾」

 まさかこの場に残るとは思わなかったのだろう、五条が今からでも夏油達の後を追うよう相手を促そうとすれば物の見事に言葉を遮られる。
 しかも女性の視線はずっと鳥居の上に向けられたままであり、紡がれた言ノ葉も五条(かれ)に向けられたものではなかった。

 だから、だったのかは解らない。

 それでも彼女の“その言葉”に反応するような形で目の前の呪霊の身体が一気に切り裂かれていった。
 見るからに分厚い肉壁を内側から貫き、一瞬にして辺り一帯に臓物と血飛沫を飛び散らせた男こと伏黒甚爾は──────“かつての日”と何ら変わらぬ姿を晒す女性を不敵な笑みと共に見下ろす。
 その手に先程とはまた違う大刀(はもの)を握り締め、その肉体(からだ)に赤子のような顔と芋虫の如き体を持つ呪霊を巻きつけながら。

「見りゃ分かんだろ。“仕事”だ」

 それなりの重量があるであろう大刀を軽く振っては刀身に付いた血を払い落とす甚爾。
 すれば彼を飲み込んでいた巨大な口と牙を持つ呪霊が蒸発するかのような形で塵と消えていく。甚爾の持つ呪具によって祓われたのだ。
 またこれによって彼の身体に付着していた呪霊の血液も消え去り、ここで五条と女性の両名は改めて五体満足のままである伏黒甚爾の姿を目の当たりにする事となったのだった。

「「星漿体(こども)」を殺すことが貴方の言う仕事ですか」
「ああ。つっても、件の「星漿体」はもう逃げた後みてぇだな」
「それは遺されたものを蔑ろにしてまでしなければならない事なのですか」
「…………あ?」

他者(みうち)に蔑ろにされた時の気持ちは貴方が一番よく知っているでしょう。なのに何故、貴方は帰るべき場所にも帰らず(・・・・・・・・・・・)、こんな所に居るのですか」

 子供が出来たらしい、と言う知らせを受けた時、女性は心から安堵した。
 これでもう大丈夫だ、と。
 「彼」にはもう守るべき相手が居て、帰るべき場所が在るのだと──────そう胸を撫で下ろした。
 だって彼女は「あの日」からずっと願い続けていたのだから。「彼」には誰よりも幸せになって貰いたい、と。

「今すぐ待つべき者が居る場所に帰ったらどうなのですか、甚爾!」

 なのに「現実」はどうだ。
 身内に蔑ろにされた時の気持ちは痛いほど知っている筈なのに。
 それなのに「彼」は遺してくれた者、遺された者の傍に寄り添おうともせずに“こんな所”に居る。

 よりにもよって「天内理子(こども)」を殺す為に。

「俺の願いは聞き入れなかった癖に自分の頼みは聞けってのかよ?ン千年も生きてんのに随分お目出度い頭してんなァ」

 らしくもなく語尾を強めた女性を前にしても甚爾の態度は何一つとして変わりはしなかった。
 何故なら彼にとって「これ」は別段珍しくも何ともない光景であったからだ。
 普段から他者と“ある程度の距離感”を保っている彼女も、不思議と甚爾の前でだけはよく感情を露にしていたのである。だからこのような光景は然して珍しくもなかったし────────むしろ懐かしさすら覚えてしまっていた。
 尤も女性の傍らに居る五条はこんな風に感情を剥き出しにした彼女を初めて見たようだが。

「俺に帰るべき場所なんざねえよ」
「────!」

「ああ、でも、“あの時”無理にでもオマエを孕ませてれば、」

 或いは「其処」が帰るべき場所になっていたかもしれない。
 そのような事を最後まで言いきる前に又もや甚爾の身体が“引っ張られる”。
 否、この場合は引き寄せられた、と言うべきか。
 身体が何も無い場所に向かって勢い良く引き寄せられていく、そんな感覚を受けて思わず口元の笑みを深めてしまう甚爾は自分自身が立っていた鳥居の一角が正に潰され掛けた“その一瞬”を決して逃しはしなかった。

「この程度で妬いてんじゃねえよ。ただの世間話だろうが」
「生憎、そこまで出来た子供でもねぇんだよ」

 自らの膂力のみで圧縮寸前の空間から逃れた甚爾は、近場の屋根の上に降り立つなり手にしていた大刀を己が呪霊の口に押し込む。次いで新たに取り出した呪具を女性に見られてしまう前に(・・・・・・・・・・・・)地を蹴った。

「虎の子か?残念、寄らせねぇよ」

 相対する甚爾に呪力が“全く無い”ことは既に理解していた。
 初期の段階からして気配を読み取れなかったのだ、「それ」に間違いはないだろう。
 現に「天与呪縛」によって得た高い身体能力が彼の動きを格段に速めており、疾うに目で追える範疇(レベル)ではなくなってしまっていたのだから。

 ──────俺の術式を知っててコソコソしてたんだろ?そんな奴が無策で近付いてくるとは思えねぇ。

 だったら近付かれる前に遠ざけてしまえば良い。
 そのような考えのもと再び甚爾を自分達から引き剥がせば、相手が盛大な音を奏でて建物の中へと吹き飛んでいく。
 静寂に次ぐ静謐。
 先に口を開いたのは女性だった。

「は、なし、話を、甚爾と今一度話をさせては貰えませんか……?もしこの依頼が多額の報酬によって請け負ったものなら、私がその倍の報酬を払うと約束すれば甚爾も、」
「却下」
「きゃっ、…………え、っと、何故?」
「見るな。話すな。聞くな。でもってこれ以上アイツの名前も呼ぶな。以上」
「以上……」

 話し合いによる解決はにべもなく却下された。
 理由は定かではないものの、どうやら知らず知らずの内にまた彼を怒らせてしまっていたらしい。
 割と気を付けている方なのに今回は一体どの辺りで?、だなんて事を女性が考えていると件の五条が小さく舌を打ったのが解った。目を離した訳でもないのに甚爾が消えていたからだ。
 故に透かさず女性も辺りを窺うのだが、如何せん呪力を持たぬ甚爾をそう簡単に捉えられる筈もなく、だからこそ「仕方ねぇな」と漏らす五条は両手を前に突き出すなり“狙い”を定める。


【術式順転、出力最大──────「蒼」!!】


 瞬間、周辺の建物が根こそぎ薙ぎ払われていく。
 要は彼を基点として四方八方の障害物が円形状に削り取られていったのだ。と同時に遮蔽物を無くすことで甚爾からの奇襲を回避したのである。
 ただ視界が良好になっても当の甚爾は何処にも見当たらず、森に身を潜めたかと視線を巡らせれば──────代わりとばかりに数百、数千を超える蠅頭が姿を現す。
 恐らく身体に巻き付けている呪霊の気配を探知させない為の(もの)であろう。確かにこれなら(じゅりょく)を隠すのに持って来いだ。

「────」
(…………そう言えば、)

 ふと。
 辺り一帯に羽音を響かせては一直線に飛んでくる蠅頭を前に女性は思考する。五条の術式によってその身を守られながら。

(あの時、甚爾は手にしていた呪具を私に見せないようにしていた。見られまいと(・・・・・・)していた(・・・・)……?)

 呪霊の肉を斬り裂いた大刀(じゅぐ)を格納した後に取り出していた「もの」。
 五条によって吹き飛ばされる以前にその手に握り締めていた「もの」。
 此方が完全に視認する前に視界から外れてしまったので全容こそ解らなかったが──────仮に見せまいとしていたのなら、それはきっと女性が知る呪具の一つだったのだろう。
 そして“その呪具の特性”を理解している女性が先ず取るであろう行動を予測した上での「あの動き」だったのなら、

「!!っさと、」

 “術式頼りの守りは意味がない”。
 そう判断した瞬間、女性はすぐさま五条に手を伸ばした。伸ばそうとした。
 なのにすぐ目の前に居る彼に手が届かなかったのは、“手首から先が失くなってしまっていた”からであった。
 またそれと同時に身体が傾いたのは左の下腿が切り落とされていたからで、ほんの一瞬の間に此方の懐にまで潜り込み、挙げ句、難なく己の行動を制した甚爾を前に女性は改めて自分自身の「甘さ」に唇を噛み締めた。



【特級呪具「天逆鉾」】



 その効果、発動中の術式の“強制解除”。

「────!」

 女性がバランスを崩したのと同時に彼女へと視線を寄越した五条の喉が天逆鉾によって貫かれる。
 音もなく、気配もなく此方の懐にまで踏み込んでいた伏黒甚爾の手によって、その喉が。
 しかし反射的に相手の腕を掴む五条は先と同様に刃を引かせないようにした。それならばまだ“何とかなる”だろうと。

 だが同じ轍を踏む甚爾ではなかった。

 何せ彼は五条に腕を掴まれた瞬間にはもう相手の身体を引き裂いていたのだから。
 一切の躊躇もなく、一切の迷いもなく、喉から脇腹に目掛けて斜めに刃を滑らせていた。骨を砕き、肉を裂いて。
 次いで相手の右足を天逆鉾で串刺しにすれば体勢を崩した五条の額に容赦なく小刀を突き刺す。

「ナマッたかと思ったが……これで少し勘が戻ったかな」

 小刀に付着した血を払い、血溜まりの中に倒れこんだ五条に背を向けながら甚爾は呟く。
 それでいて後は「星漿体」を殺すだけだな、と呪術高専の内部に向かおうとすると、残された片腕を使って身を起こそうとしている女性の存在に気が付いた。
 けれど特に何かをしよう、と言う気持ちにもならなかった彼は此方を睨んでいるであろう彼女に後ろ手を振ると何の後腐れもなくその場から去っていく。

 たった一言、予てより胸に抱いていた本音を口にしながら。



「オマエが望むなら、何度でも、何回でも、俺がオマエを殺してやったのに」



 “残念だったな、今代(こんかい)も死ねなくて”。
 そう口にするなりこの場を後にする甚爾の背中を──────女性はただ静かに見つめていた。
 睨んでなど居なかったし、後を追おうともしていなかった。
 否、追った所で意味はないと、自分自身、よく解っていたのだ。

 “どんな目に遭わされようと、「私」に「禪院甚爾」は殺せない”。

 それどころか傷付けることすらも出来ないだろう。
 きっと五条も「それ」が解っていた。だから先に行かせようとしていたのだ。
 一度でも「身内(たいせつ)」だと認識してしまったら、途端に割り切れなくなってしまう人種であることを身を以て知っていたから。

「…………「私」がただの人間(ひと)であったのなら、或いは甚爾(あなた)と生きて行く道も、あったのかもしれません」

 静寂に包まれた空間で女性がポツリ、と呟く。
 片手と片足が無い状態で地べたに座り込みながら有り得ない未来を想像して。
 そして徐に目の前の五条に目を向けると、開いたままの瞼を閉じさせてやるべくソッと手を伸ばす。が、直前でその手がピタリと止まった。
 時間にして物の数秒ほどではあったけれど、どことなくホッとした様子の彼女は五条の髪を梳くようにしてその頭を撫でると再度口を開く。


「────……どうか、追わないで下さい。後は、此方で何とかしますから」


 何とか、なんて、出来る筈もないのに。
 それなのに“そんな言葉”が口を衝いて出てしまったのは漠然と理解していたからだ。

 もう二度と「彼」に会えないであろうことを。









「星漿体」天内理子、死亡。





【──────馬鹿だな、オマエ】








及び「術師殺し」伏黒甚爾、死亡。









【俺以外にオマエが■■■だって見抜ける奴は居ねぇのに】









「……まだ、上手く寝付けませんか?」

 九月某日。
 まだまだ厳しい残暑が続く中で女性は夏油傑にそう問い掛けた。見るからに顔色が悪かったからだ。
 これが単純に暑さのせいならば此方も色々と対処の仕様があったのだが、如何せん彼の「これ」は明らかに夏バテとは異なっていた。
 言うならば「心」の在り方から来る不調、であろうか。
 故に自販機の横を通り過ぎて木製のベンチに座る夏油の前にまで足を運んだ女性はトン、と彼の胸を指す。相も変わらず呪符に覆われた手で。

「“これ”は決して気持ちの良いものではありませんから。傑なら大丈夫だと解っては居ても……少し心配です」

 それは夏油の「術式」を指しての言葉であった。
 ある意味では彼女もまた経験者で「取り込む側」であったからこそ、余計に今の彼の状態が気に掛かって仕方がなかったのだろう。
 件の夏油が「あの日」の出来事を未だ“過去のもの”として処理しきれずにいることを知っていたから。

「特級術師になったことで任務の数も増えましたし……そうですね、何か気晴らしになりそうなものでも用意致しましょうか」

 とは言いつつ、彼が素で喜びそうなものなんてそう簡単には思い付かなかったのだけれど。
 これが五条ならある程度の予想もつけられたのだが──────夏油が相手となると途端にそれが難しくなる。自らを積極的に主張(アピール)してくるような人間ではないからだ。
 だからこそ女性は率直に尋ねる事にしたのだろう、かつての日と同じ口調と態度で。

 今度は夏油に向けて“欲しいもの”を。

「傑はなにか、欲しいもの等は御座いますか?」

 しかし夏油は五条とは違って明け透けに「欲しいもの」を要求したりはしなかった。
 欲しい、と思うものが複数個に及んでしまっていたからかもしれない。
 そしてその中の何個かは彼女の手では絶対に用意出来ないもの、であることを既に理解していた。
 何せ彼女は常に他者を思いやれる、本当に心根の優しい人間であったから。

 そんなこと出来やしない(・・・・・・・・・・・)だろうと、分かっていた。

「────……いえ。今は、何も」
「…………」
「と言うより、私のことを慮ってくれたその気持ちだけで十分ですよ。これ以上を望んだら罰が当たりそうだ」
「?そんなことは、」

ただ(・・)、」

 “ただ”、と続け、ゆっくりと顔を持ち上げていく夏油は目の前の女性を静かに見つめる。
 己の胸に触れている相手の手に手を重ね、そのまま強く握り締めては真っ直ぐな眼差しと共に口を開きながら。




「いつの日か必ず、私が、私の「理想とする世界」を手に入れたのなら…………その時は貴女と色々な話がしたい。貴女に、聞いて貰いたい想い(ことば)がある」




 非術師を見下す自分。
 それを否定する自分。

 どちらを「本音」にするかは──────疾うに、決めていた。







 【記録】
 2007年、9月。
 ××県××市(旧××村)

 【任務概要】
 村落内での神隠し、変死。
 その原因と思われる呪霊の祓除。

 担当者(高専3年、夏油傑)派遣から五日後、旧××村の住民112名の死亡が確認される。
 全て呪霊による被害と思われたが残穢から夏油傑の「呪霊操術」と断定。

 夏油傑は逃走。
 呪術規定9条に基づき「呪詛師」として処刑対象となる。








 思わず「寂しい?」、と聞いてしまったのは彼女が空室となった部屋の前で立ち止まってしまっていたからだった。
 それが無意識であったのかどうかまでは解らなかったものの、話し掛けられたことによって背後へと振り返った女性は五条の姿を捉えるなり困ったように眉を下げた。相手の頭が盛大に濡れていたせいである。
 恐らく風呂上がりなのであろう、首にタオルを下げたままペタペタとスリッパを鳴らす五条は愛しい女性の前にまで来ると上機嫌で彼女の顔を覗き込む。そのせいでまた己の髪から一雫が滴り落ちてしまっていた事にも気付かずに。

「ちゃんと乾かしてから寝ないと風邪を引きますよ」
「いや拭いて貰おうと思って」

 はいどーぞ、の一言と共に身を屈めては女性に頭を差し出す五条。
 この時点からして乾かすのが面倒だった、とかではなく、ただ単に彼女に甘えたいだけであることが容易に窺い知れた。
 まあ特級術師になって以降やたらあちこちに出向く機会が増えてしまったのだ、こんな時でもなければ女性に構って貰えないのだろう。
 そして女性もそれが解っているからこそ、ここは敢えて彼の望む通りの行動をとってやるのだった。

「先の問いですが、寂しくない、と言ったら嘘になります」
「……だろうね」
「でも、今は楽しみなこともあるので、暗い気持ちのまま過ごしている訳でも無いんですよ」
「え。なにそれ、誰かと何か約束でもした?」

 首に下げていたタオルで優しく髪の毛を拭われながらも五条は即座に思考を巡らす。
 自分の知らない所で「誰」が彼女と「約束」を取り交わしていたのかと。
 相手が女性ならば、まあ許せるけど、仮に男性であった場合は────────うん、約束の内容によって“どうするか”を決めよう。狭量な男は嫌われやすいし。
 いやでも彼女が自分を嫌う筈はないのだが。……うん?ならば別に相手をどうしたって構わないのでは?
 と、こんな感じの事を人知れず考えていたら頭上からクスクスと言う小さな笑い声が聞こえてきた。なのですかさず前髪の隙間から女性の顔を窺う五条であったのだが────……、


「だって、悟は近く「私」を殺して下さるでしょう?」


 それが楽しみなことですよ、と。
 そう言って彼女は微笑(わら)って見せたのである。いつの日かの無邪気さと共に。
 だからであろうか、風呂で温まった筈の五条の身体から一気に熱が失われていく。




【「私」は五条悟(あなた)に殺される日を心から待ち望んでいるんです】




 あの日からずっと。
 ずっと傍に居続けて、この想いをちゃんと彼女に向けて吐露し続けていたのに。
 それなのに彼女の「願い」を別のものに変えさせてやることが出来なかった。

 その事実に、五条悟はらしくもなく、打ちのめされた気分になった。

「──?さと、……っ!?」

 一切の反応を無くした相手を訝しみ、手を止めて彼の顔を覗き込もうとすれば突如として腕を掴まれた。
 それでいてそのまま然して遠くない五条の部屋にまで連れ込まれると、反動を利用して“勢いよくベッドに放られる”。
 幸い弾力性のあるマットレスが衝撃を吸収してくれたものの、余りにも突然すぎるその行為に脳の処理が追い付かなかった女性は部屋の主たる五条に何事なのかを問うべくしてすぐさまその身を起こそうとする。

 が、ベッドに手を突いた所で背中に「何か」が乗せられた。

 ある程度の重みと背中から伝わってくる形状から想像するに、これは「膝」、であろうか?
 多分、五条の片膝、が、女性の背中に乗せられている。
 一体何故?と思ったが、理由は単純明快。彼は彼女を“起き上がらせなくさせたかった”のだろう。
 現に女性は軽く身を捩らせることは出来ても、身を起こすことは出来なかった。うつ伏せの状態で完全に組み伏せられてしまっていたのである。

「???……あの、悟?」

 何がどうしてこうなったのか、明確な理由が解らないまま相手の名前を紡ぐと返事の代わりに結び目が解かれた。
 誰の?
 勿論、女性が着用している切袴の腰紐がだ。

「は、」

 自身の腰にあった僅かな圧迫感が緩められ(なくなっ)たのと同時に襟首を掴まれて身に纏っていた小袖が一気に引き下げられる。
 つまり肩と背中が外気に晒される形となってしまい、女性がすかさず肌襦袢だけでも引き寄せられないかと手を動かそうとすれば間髪入れずに“噛み付かれた”。露になった首筋に。

「……!?……っ、────!!」

 痛みこそ無いが背中を這う舌の動きと幾度となく肌を吸われる感覚にくらり、と眩暈が起きそうになる。
 しかも自分達以外誰も居ない空間故か相手のリップ音がよく響き、肌襦袢を肩に引き寄せようとしていた女性の手も何時の間にか縋るようにして目下のシーツを握り締めてしまっていた。


 “なぜ”。
 “どうして”。


 どのような経緯から“このような事”をされているのか。
 その「理由」が、全く解らなかった。
 何が起因となっての「これ」なのか、どんなに考えようとも一向に正解と思しき答えが出てこない。
 だって自分は可笑しな行動を取ったつもりも、問題となるような会話もした覚えがなかったから。

 でも、怒らせた。
 「私」はまた彼の地雷を踏み抜いてしまったのだ。










『────……正直、これまでの行動や言葉に意味がなかったとは思わない』

 なのに彼女の意思が変わらなかったのは“それだけ自分を「人ならざるもの」として認識し続けてきたのだろう”、と五条は考える。
 或いは“「人間(ひと)」として正しくない”と言う認識を植え付けられたか、だ。
 恐らくは女性(かのじょ)を“ぐちゃぐちゃ”にした張本人が、そう植え付けた(・・・・・・・)

 五条悟にとっての「彼女」は紛れもなく「人間」で、愛しい一人の「女」だと言うのに。

 自分に向けられる想いを素直に享受して良い側なのに、彼女自身が“それを良しとしない”のだから本当に腹が立って仕方がない。
 本気であればあるほど届かなくなるだなんて、完全に此方の心を折りに来ているとしか思えないではないか。……いやまあこの程度で折れるような柔な想いでもないのだけれど。

「そもそも」
「っ……?」
「巫蠱に対して抱いてる俺の感情が「間違ってる」だとか、「正しくない」だとか、」
「さと、」

「“それ”を決めていい、否定していい権利を持ってるのは俺だけ(・・・)だろ。五条悟(おれ)の想いを否定していいのは五条悟(おれ)だけなんだよ。巫蠱じゃない」

 そこを履き違えんな、と口にするなり五条は女性の腰に手を這わす。
 次いで裾をたくし上げながら滑らせるように身体の線をなぞって行くと彼の指先が確かな膨らみに気付き、触れる(・・・)
 そして弾力のあるその膨らみを確と己の手の平に納めると、中央部にある突起物を弄りながらぐにぐにと揉みしだいていく。

「……んッ、」

 時間にして物の数分。
 時折親指と人差し指で執拗に突起物を捏ねたり引っ掻いたりする行為を繰り返していたら、必死に声を押し殺していた女性の口から徐々に嬌声じみたものが漏れ出す。
 またそれと同時に外気に晒されている彼女の肌が羞恥心から淡く色付いていくのを見て、五条の心臓がきゅぅ、と締め付けられていく。

 “このまま穿ってしまいたい”、と、素直にそう思った。

「────……五条家を継いだら、巫蠱の中の「呪い」を祓う。これは決定事項だ」

 だけど敢えて“それ”を堪えた。
 彼女に要らぬ感情を抱かせたくはなかったのだ。
 これはただの性処理でしか無かったのだろう(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、だなんて勘違いを、絶対にされたくはなかった。から、堪えた。

「俺は絶対に巫蠱を殺さないし、「殺して欲しい」だなんて願いも聞き入れない」

 “だから二度と俺に「殺される日を待ち望んでる」、だなんて言うな”。
 それが約束できるならこれ以上はしない、と続ける五条は相手の背中に乗せていた膝を退かすと代わりとばかりに己が下腹部を女性の臀部に押し付ける。
 彼女に触れ始めた時点から既に熱を持ち、布越しでもハッキリと解るぐらい隆起していたものを。
 すれば途端に何度も頷き始める女性だったので、音もなく相手の身体から身を引いた五条は残念な気持ちと共に盛大な溜め息を吐き出す。でもって空いているスペースへと顔面から倒れ込んだ。

「あの、」
「……なに」

「────……いえ。考えます。ちゃんと、考え続けます」

 ゆっくりと身体を起こし、乱れた衣服の前を合わせながら女性は彼にそう告げる。
 五条が怒り続けている「本当の理由」が解るまでちゃんと考え続ける、と。
 だから暫し待っていて欲しい、とまで続ければ返事の代わりに五条の指が女性の指に絡み付いてくる。そしてそのまま強く握り締められると相手が目を閉じて寝る姿勢を取った為、女性はそっと彼の頭を撫で始めた。
 まるで小さな子供を寝かし付けるかのような優しい手付きで、その頭を。








 因みに「あー……ちんこめっちゃいたい」だなんて呟きは流石に聞こえなかった振りをした女性だった。こればっかりはどうしようも出来ないので、と。












「────ああ、やはり!!光は生で感じるに限るな!!」





 2018年、6月。





「呪霊の肉などつまらん!人は!女はどこだ!!」





 宮城県仙台市、杉沢第三高校。





「良い時代になったのだな。女も、子供も、蛆のように湧いている──────素晴らしい(・・・・・)





 その日、その一瞬、僅かながらにも。





「鏖殺だ」





 遥か彼方の東京に居た女性は、確かに「両面宿儺」の体動を感じ取ったのであった。





















【呪いを内包している人の話2】

20.12.02
23.04.12:加筆修正