10
夏油傑は死んだ。この手で“それ”を確認した。
だから彼の名を騙り、かつての「夏油傑」を冒涜するものが赦せなかった。
◆
「巫蠱さんでもそう言う雑誌、読んだりするんですね」
雨の音がすっかり耳に馴染んでしまった6月某日。
意外だ、とばかりに目を瞬かせながら教室に姿を現したのは夜の空を思わす黒髪を後頭で結んだ青年こと夏油傑だった。
因みに彼の視線の先には机に上体を預けながら雑誌を捲っている同級生の女子と、それとは対照的にこれでもかと姿勢を正しながら椅子に座している一人の女性の姿があった。どうやら学友兼親友でもある白髪頭の青年は席を外しているようだ。
彼女が此処に居るのに珍しい、だなんて感想を抱く一方で律儀に教室の扉を閉めてから二人のもとにまで歩んでいく夏油は徐に女性陣らが眺めているものへと視線を落とす。
「ファッションに芸能、音楽……なんだ、硝子のか」
「はい。最近は硝子が色々と貸して下さるので読んでいてとても有意義なんですよ」
「どうせ五条は自分好みのもんしか見せないだろうし、そのせいで巫蠱さんがアイツ基準で物を考えるようになったらムカつくじゃん」
だから相手の好みを上書きする勢いで俗世の情報をじゃんじゃん吸収させていっているのだそうだ。勿論あまりにも俗っぽい内容のものはその都度省くようにして。
これでもちゃんと取捨選択はしている、と言うのが家入硝子の主張であった。流石である。
「お、この前見た店がいつの間にか新しくなってんじゃん。今度行ってみるかな」
「硝子も何気にフットワーク軽いよな。悟もだけど」
「行けるときに行っとかないと次があるか解んないからね。まあその日の気分にもよるけど」
「硝子の術式の場合、私達と違って危険な任務に就くことはそうそう無いと思うけど……改めて言われてみると確かにそうだね」
呪術師に「明日」の保証はない。
何故なら当たり前が当たり前ではない世界で生きているからだ。
ならば行きたい時、したい時に本人が望むことをすべきなのだろうと夏油は考える。何事においても「後悔」を残すべきではない、と。
だが“望むことを望むときに”、が存外難しいことも知っていた。自分の思う通りに生きることが出来ないのが世の常でもあるので。
「……そう言えば巫蠱さんは極力「外」に出ないようにしてる、って悟から聞きましたけど、昔からなんですか?」
「いえ、子供たちと外に出ること自体はそれなりにありましたよ。ただ「外」は「外」でも結局は敷地内だった、と言いますか」
「御三家すげぇな」
どんだけ広大な土地を有してんだよ、と言う家入の突っ込みも解らなくはなかった。
実際、御三家出身の親友ですら自身の生家を「無駄に広い」と称していたくらいだ。
尤もその親友は続け様に「何もすごかねぇよ。ある種の檻だぜ、あんなもん」やらなんやらとも愚痴っていたので単純に広ければいい、と言う話でもないようだが。
「なんにせよ、「私」のようなものを多くの人の目に触れさせるわけにはいきませんから」
なんて事無さそうな口調でそのようなことを述べながらも、女性はどこか羨望めいた眼差しで手元の雑誌に視線を落とす。長い年月をかけて少しずつ形を変えていったであろう美しい街並みが写し出されたページを前に、「いつの日か」、と言う
【俺からすりゃ、中途半端に視える奴が一番厄介なんだよ】
ふと。
いつだったか、親友がそう話していたことを思い出す。
完全に視えるでもなく、完全に視えないでもなく、中途半端に視えてしまう者が一番“質が悪い”と。
それはそれは実に忌々しげに、実に憎々しげに、隠すこともせずにチッと舌を鳴らしながらそのようなことを「彼」は語っていた。
中間を、境界を、狭間を視てしまう者は「彼女」を「人間」としても「呪い」としても視てしまうから。
見なくてもいい“ぐちゃぐちゃ”の部分を勝手に視て大半が怯え、発狂し、「化け物」と罵ってくるから。
だから厄介で質が悪いのだと、いつになく腹立たしげな様子でそう話していたことを──────不意に思い出した。
「……巫蠱さん」
「?はい」
雨粒が浮かぶ窓をチラリ、と盗み見てから夏油は女性の名を口にする。
梅雨の時期特有の暗雲とした空からは相も変わらず針のような細かい雨が降り続けており、待てども待てども一向に太陽は拝めない。恐らく今日はずっとこのまま、絶え間なく雨が降り続けるのだろう。
だから丁度良い、と彼は考えた。こんな日だからこそ、と閃いた。
そしてキョトンとしている相手を促し、笑い掛ける。
「少し、出掛けましょうか」
◆
雨の日に好き好んで「外」に出るものはそう多くない。
仮に出歩くものが居たとしても大体は見知らぬ人間より自身の足元を
ただ、もしそれでも此方をまじまじと見て来る者、要は視えてしまっている者が居たとしたら──────その時は自分が彼女を隠せばいい。
だから一本の傘に二人分の身体が収まっているのは理由があってのこと、他に疚しい気持ちがあるわけではないのだと己に言い聞かせる夏油はどこか申し訳なさそうに傍らの女性へと声を掛ける。
「すみません。高専の外をぐるっと回るだけじゃ出掛ける、とは言いませんよね」
「謝る必要はありませんよ。だって傑は私を気遣って下さったのでしょう?」
「……流石にバレバレでしたか」
「傑のその優しさが何よりも嬉しかったので、だから謝らないで下さい。それに、外は外ですから」
雨の日にしか見えない景色もあって、とても楽しいです。
そう口にするなり微笑を携えて辺りに目を向ける女性であった為に夏油も傘を持つ手から僅かに力を抜き、ほっ、と胸を撫で下ろす。
実を言うと公共の交通機関を使って少しばかり遠出もしてみたかったのだが、如何せん“この後”のことを考えると『止めておいた方が無難だな』と判断せざるを得なかったのだ。一応家入には出掛ける旨を伝え、あの場に居なかった親友に対する言付けも確と頼んではおいたのだが────────果たして言葉通りにちゃんと伝えてくれているかどうか。
いや、まあ、でも、流石の親友とて呪術高専の周りを一周する程度の外出に目くじらを立てたりはしないはずだ。……多分。
「雨が降ると悟は何かにつけて「面倒臭い」と仰るのですが、もしかして傑も雨、お嫌いですか?」
「特に好き嫌いを考えたことはないですね。降ってたら「降ってるな」、としか思いませんし……任務があれば移動手段を少し考え直すくらいです。巫蠱さんは?」
「どちらかと言うと、私は雨、好きな方なんです。ただ悟にそれを伝えると信じられないものを見るような目で見られました」
「ははっ」
それが余りにも想像に容易い光景だったが故に思わず笑い声が漏れ出てしまうと、隣を歩く女性が夏油を見上げ、静かに目を細めた。
申し訳なさそうな顔で居られるより、こうして声をあげて笑ってくれている方が嬉しかったからであろう。
現に彼が笑ったのを機に女性も結んだままの唇に微かな笑みを浮かべると、どちらからともなく足並みを揃えては小さな下り坂を降って行く。
因みに二人が目指すのはこの先にあるコンビニエンスストアだ。出掛けるついでに、と家入から
「それにしても、硝子は辛いものがお好きだったんですね」
「あー……」
「タバスコ系の何か、とはコンビニに売っているものなんでしょうか?」
「(あれは巫蠱さんの前だったから配慮しただけで、実際はタバコって言いたかったんだろうな)」
「甘いものが好きではないことは知っていたのですが……お店の方に聞けば分かりますか?」
「大丈夫ですよ。無ければないで代わりのものを買えばいいんですから」
「代わりのもの、ですか」
「巫蠱さんが選んだって言えば硝子も文句は言いませんよ」
「そうでしょうか……では何点か硝子が気に入りそうなものを選んでみます。傑も好きなものを選んでいいですよ」
「……自分の分はちゃんと自分で払いますよ?」
「駄目です」
「えっ」
「駄目です。大人が居る時は大人が支払います」
「大人」
「少なくとも私が居る時は私が支払います。必要だと判断しない限りは「子供」に代金を支払わせる訳にはいきません」
「子供……」
「?傑はまだ「子供」でしょう」
「……………………悟の気持ちが痛いほど分かりました」
これはつらい。つらすぎる。
完全に
「悟には甘いもの、硝子には辛いものと……どうせなら何冊か雑誌も買っていきましょうか。どれが良いのでしょう?」
「さっき見てたような系統であれば何でも…………っと、巫蠱さん、待ってください。そっちの棚は、」
「あ、こちらの雑誌は悟がよく読んでいたのを見掛けたことがあります」
「うわ」
「?」
「……絵面があれなんで一旦棚に戻しましょうか」
「?はい」
「えーと……」
「傑はこう言ったの、苦手でしたか?」
「いえ、苦手云々よりも前に、巫蠱さんは、その、抵抗とか」
「特には。悟も私の前で普通に読んでいましたし」
「……」
「ただ、」
「?」
「どんなに眺めていても私以外では反応しない、と仰るので、思春期の男児としてそれで大丈夫なのかどうか、その辺りがどうにも心配でして……」
「ああ、それは気にしなくて大丈夫です。悟のアピールの仕方が間違ってるだけなんで」
「??」
愚直にも程があるんじゃないか、と内心で呆れ返りながらも辿り着いたコンビニエンスストアの成人誌コーナーから然り気無く相手を引き離す夏油は、彼女の手から買い物カゴを受け取るなり先に外で待っているよう女性を促す。勿論手渡された財布は受け取るだけ受け取って支払いは自分持ちだ。なけなしの矜持である。
『分かっていた事とは言え、本当に私たちを「子供」としてしか見ていないんだな……』
ここまで来ると確かに親友のアピールの仕方は強ち間違ってはいないのではないか、とすら思えてくる。
むしろ露骨なくらいが丁度良いのかもしれない、だなんてことを考えていたら、
「あの、外にいる彼女さん、大丈夫ですか……?」
「?」
「多分、ナンパ……されてますけど……」
恐る恐る、と言った感じで声を掛けてきた店員がお釣りを手渡すついでに外を見るよう促してくる。なので素直にその視線を追う形で僅かに身体を捻らせると、
「あ」
指摘通り、外で待っている女性の前に見知らぬ
パッと見ではどちらも視えてる側では無さそうだったが、その
何を隠そう、夏油が声を掛けるよりも前に件の男性二人がこの場からさっさと立ち去って行ったのだ。しかも陽気に手を振りながら。
…………?
………………??
もしかして、もしかすると、“道を聞かれていただけ”、とか??
「……知り合い、では、ないですよね?」
「はい。見知らぬ方々です」
「何か聞かれました?」
「普段からこのような服装なのか、と聞かれたので「はい」と答えました」
「ああ……それで」
「その後に一人なら一緒に遊ばないか、どこかに行かないかと誘われましたので」
「……」
「「傑とデート中なのでそれは出来ません」、と丁重にお断りを致しましたら「なんだ残念」とお帰りになられました」
「────……え」
これまた何てこと無さそうな口調でそのようなことを述べる女性であったが為に夏油の思考が意図せずして停止する。
停止して、再始動し、じわじわと頬に熱が集まっていくのに気付いては彼女からの視線を遮るようにして透かさず真っ黒な傘を開いた。それでいて“嘘も方便”だと自分自身に言い聞かせると次の瞬間には何事も無かった体を装いつつ、「悟がうるさいんでそろそろ戻りましょうか」、だなんて苦笑いにも似た表情を浮かべて相手に帰路を促す。
「実はコンビニに着いた辺りからずっと電話とメールが引っ切り無しで。多分、硝子が余計なことを言ったんでしょうね」
「余計なこと?」
「その、巫蠱さんがさっき言ったようにデート中だ、とか」
「……?事実では?」
「え」
「出掛ける間際に硝子が「デート楽しんで来いよー」と傑に仰っていたので、てっきり“そう”なのかと」
「…………………………聞いてなかったですね」
聞いてなかったし、そのつもりも無かった。
何たって呪術高専からそう離れていないコンビニエンスストアまでの道程を「デート」だなんて思えるはずがなかったのだから。と言うか、思う筈がないだろう。
にも関わらず彼女は「これ」をデートだと認識していて、実際に見知らぬ第三者にもそう告げていた。
まあ彼女のことだから家入の言葉をそのまま復唱していただけに過ぎないのであろうが──────うん?
「え、じゃあ、さっきのも方便とかではなく、本気で?」
「はい」
「えぇ……」
「……その様子だとやっぱり違っていたのですね。先程の方々にも嘘を吐いてしまった形になりますし、勘違いをしてしまって申し訳ないです」
「あ、いや、違っ、……わなくもないんですが、これを一度目としてカウントするんだったらやり直したいと言うか」
「?」
「…………いえ、すみません。少し取り乱しました。もう大丈夫です」
本音を思わず口走り掛けた所で冷静になる夏油は片手で顔を覆うなりチラリ、と傍らの女性を盗み見る。「デート」と口にしていながらも特にこれと言って深く捉えてはいないであろう相手を。
次いでどこまでも一方通行な現状を改めて受け入れ直すと傘を持つ方の手にコンビニ袋を追加し、自由になったばかりの手を音もなく女性へと差し出す。
「……?」
「────高専に帰るまでがデート、ってことで」
まるで帰るまでが遠足、とでも言いたげなノリでに手を差し伸べてくる夏油だったが為に女性が何とも分かりやすく目を瞬かせる。
だがすぐに顔を綻ばせると「ふふっ」、と花が咲いたような微笑を携えながら躊躇なく彼の手に手を重ねた。「はい、帰るまでがデートですね」と頷きながら。
それでいて再び一本の傘の中に二人分の身体を収めると、又もやどちらからともなく少しだけ歩調を緩めては他愛もない会話と共に来た道を戻っていく。
「次は、」
「?」
「もっとちゃんとした形で、デートでもしましょうか」
勿論、悟には内緒で。
そう言って女性の指に自身の指を絡ませる夏油は悪戯っ子のような笑みを浮かべるなり静かに目を細める。相手からの返事は求めず、ただ自分自身に誓う形で“またいつの日か必ず”と。
「下衆め!!妾を殺したくば、まずは貴様から死んで見せよ!!」
そのような叶えられない「約束」を、彼は自分自身と交わし合った。
◆
「────“そんなの”を
キミも大概愚かだね、と「■■」は嗤う。
とある男の
◆
10月31日。
首都高速三号渋谷線、渋谷料金所にて。
「二級とは言え猪野は実力のある術師だ。……それをこうもあっさり退けるとはな」
「
疾うに22時を通り過ぎ、時刻が23時に迫りつつある頃。
時間の経過と共に地上が厚い闇に閉ざされ始める中、伊地知の次に忙しなく運び込まれてきた人物の治療をようやく終えた家入はくしゃくしゃになったタバコの箱を片手に大雑把な見解を口にする。「向こうに肉体派の呪詛師でも居たんですかね」と。
なにせ運び込まれてきた人物こと猪野琢磨は本当に酷い有り様だったのだ。顔面が“原型を留めていない程に滅茶苦茶にされていた”のである。肉体の方には一切外傷が無かったと言うのに。
「気になるんなら学長も行ってきたらどうです?呪骸と巫蠱が居るんだし、こっちは何とかなりますよ」
「そうは行くか。オマエはもっとオマエ自身の価値を知れ」
「価値、ねぇ」
「“反転術式で他人を治す”、あの悟ですら出来ないことだ。オマエが此処に居ることを知れば敵は真っ先にオマエを
それだけは何があっても阻止しなくてはならない、とばかりに呪骸と共に辺りを警戒する夜蛾であった為に庇護下にある家入は「大袈裟ですよ」と溜め息を漏らす。
彼女からすれば反転術式なんて至極簡単な呪力操作でしかないため、それなりの評価をされる度に『言われるほどのもんかね?』などと思ってしまうのである。故に必要となれば本当に自分を置いていってくれて構わない、と言う頭でいるのだが────────背後から聞こえてきた突然の金属音にはすかさず夜蛾を盾にする家入で。
「……巫蠱?」
音の出所が天幕内だったこと、また周囲を警戒している呪骸が一切反応していなかったことから家入が徐に
恐らく立ち上がった際に勢いが余ってしまったのだろう。呆然と立ち尽くしている相手を気に掛けながらも倒れたままのパイプ椅子に手を伸ばす家入は「何か遭ったのかと思った」、と言いながらそれを元通りの形へと戻していく。それでいて再び女性に視線を投げ掛けると、一拍の
「巫蠱?どうし、」
「…………
それは蚊の鳴くような、小さな声だった。
この場に居ながらも此処ではない何処かを視ているかのような眼差しで虚空を眺め続けている女性は尚も“やめて”、と繰り返す。そして微かに震える手で顔を覆い始めると何を思ったのか指先を己が「
「!?ッ巫蠱!」
「やめて、殺さないで、なんで、」
「馬鹿、やめろ!」
「やめて、だめ、殺さないで、その子まで、その子だけは助けて」
「いいからそこから指を離せ!巫蠱!」
「いやだ、なんで、なんで
「っこの馬鹿!
瞬間、天幕内に乾いた音が響く。
“頬を打たれた”のだと気付いたのは痛みがあったから、ではなく、目の前の家入にこれでもかと言わんばかりの力で手首を押さえ付けられてしまっていたからだった。
「────────しょ、う、?」
「……落ち着いたな?いい、動くな、少し待て。一先ず拭くものを用意するから」
動くなよ、と再度釘を刺してから女性の手首を離す家入は積み重ねられた段ボール箱がある場所にまで足早に歩んでいく。
だからか、半ば呆然としたまま立ち尽くす女性は右往左往と視線を彷徨わせてから徐に自身の指先を見下ろした。
自らの血液によって巻き付けられた呪符ごと赤く染まった指先を、恐らくは傷付いた瞬間から己の意思とは反する形で治っていったであろう眼球で。ただただ、ジッ、と。
「……なんで、」
色違いのセーラー服を身に纏った、対照的な見た目をした二人の女の子。
明るい髪色の少女と、長い黒髪を持つ少女だ。
“こちら”に心底怯えながらも、何かを必死に訴え、何かを必死に懇願していた。
なのに
揃って顔を上げた瞬間、黒髪の少女の顔だけが瞬く間に失われた。
頭部を失い、バランスを崩した身体が地面に倒れ込んで。
明るい髪色の少女が目を見開き、延々と名前のようなものを叫び続けていた。
そして憎悪に満ちた瞳で“こちら”を睨み、スマートフォンを掲げて──────顔の半分が斬り落とされた。
空中で少女の顔が細切れになり、次の瞬間には身体もろとも
「なんで……っ!」
「彼女ら」が誰だったのかは知らない。
でも、あの子たちは紛れもなく「子供」だった。
奪ってはならない、殺してはならない、未来ある「子供」だった。
「…………悠仁…………」
唐突な視覚の共有、同調といい、これまで以上に強く「
ならば一刻も早く彼の自我を取り戻させないと、と考える女性ではあったものの、一歩を踏み出そうとした正にその瞬間────────“物の見事に膝から崩れ落ちた”。
また無様にも地に膝を預け、息を乱し、頭を垂れるようにして腹部を押さえ付ける。
「………………ッ」
恐怖で
それと同時に思い出さなくていい「痛み」を思い出し、喉の奥からせり上がってきそうになる悲鳴を唇を噛むことで何とか抑え込む。
「…………ぅ……」
脳裏にまざまざと蘇ったのは引き裂かれた腹から臓物がまろび出た光景で。
真っ赤な舌を覗かせながらゲラゲラと嗤っていた相手の声が又も耳にこびりついて離れなくなる。
なにせ「それ」は今を以てしても尚、誰かを嘲笑い続けているから。
この瞬間にも己以外の誰かを傷付け、弄び、依然として「快」だけを求め続けているから──────
「…………け…………て………………」
「
「たす…………けて…………さとる…………っ」
立ち上がれずに居る自分を立ち上がらせて欲しい、奮い立たせて欲しいと。
この身体になってから初めて自分以外の誰かにそう心から救いを求めたのに────────その声が件の相手に届くことはなかった。
五条悟は「巫蠱」を「救い」はしなかった。
それ故に、つい、嗤ってしまう。
解りきっていたことなのに
この千年間で何も学習してこなかったのだな、と、歪んでいく視界の中で「己」と言う存在を嘲笑った。
「巫蠱、取り敢えずこれで──……」
家入が濡れたタオルを手に戻った時、そこに女性の姿は無かった。
◆
星の輝きのような美しい瞳を持つ少年だと思った。
◆
「──────……おねーさん、どこの人?」
煌めく白銀の髪。
透き通るような白い肌。
柔らかな髪と同じ色彩をした長い睫毛。
そして宝石の如き輝きを放つ、この青い
この「眼」の
それなのにどうしても目の前に居るこの子から目が離せなかった。
だから「この子だ」と確信した。「この子なんだ」と心が躍った。
「……つまり「俺」より優先したい奴が居たってわけだ」
そよ風に揺れる柔らかな髪に指を通したいと思った。
どことなく拗ねた口調でゆらゆらと足を揺らし始めるこの子を喜ばせたいと思った。
この子は何が好きで、何が嫌いなのか。得意なことは、苦手なことは何なのか。
純粋に知りたかった。ただただ識りたかった。
だってこの子は「自分」を終わらせてくれる存在だ。
だってこの子は「自分」に「死」を与えてくれる存在だ。
ならばこの子に最大限の敬意を払おう。
ならばこの子に最大限の謝辞を送ろう。
積年の「望み」を、「願い」を託すのだから、この身で叶えられることがあるのならば何だって叶えて見せよう。
だって「殺してもらう」のだから。
今の内にちゃんと対価を支払い、それ相応のものを差し出さなければ“この美しい少年の手をただ汚すだけ”になってしまう。
否。
否。否。否。
それだけはしてはならない。
それだけはあってはならない。
この子の人生に泥を塗りたくはない。
この子の人生を「自分」と言う存在で汚したくはない。
だから「自分」を殺すことは正しいことなのだと、何も間違えてはいないのだとしっかり理解してもらおう。
例え今はまだ幼く、「自分」に対し、情を抱き、絆されようとも。
大丈夫。何も問題はない。
この子は誰よりも賢く、聡い子だから。
身も心も成熟してくれば、「それ」が幼心に抱いた一過性の感情だったとちゃんと認識してくれる。
そして存在そのものが間違いでしかない「自分」を完璧に消し去ってくれる
「巫蠱のことが好きだ、っつってんだよ」
──────────はず、だった、のに。
「ずっとずっと前から」
「誰にも渡したくねぇし、渡すつもりもない」
「巫蠱を手に入れる為だったら俺は何だってする」
「どんなに面倒なことでも、巫蠱に関することなら諸手を挙げて首を突っ込む」
「別に今すぐ応えろ、とは言わない。応えてくれるまで待てば良いんだし」
「つーか、諦めるつもりも、手放すつもりも端からねーんだよ。「諦める」だなんてこと、出来るはずがないだろ」
「巫蠱」
「
「例え巫蠱が過去に何をしていようと、何を抱えていようと」
「そんなんで僕の想いは変わらないし、変わるはずもないし」
「だって僕、巫蠱と出会った瞬間から巫蠱しか見えてないもん」
「君だけなんだよ。僕の心をこうも掻き乱して、ぐちゃぐちゃにしちゃうの」
「本音を言うと巫蠱が僕以外の人間に優しくしたり、
「でも巫蠱に狭量な男だと思われたくないから。嫌われたくないから。だからこれでもかなり我慢してんの。僕なりに精一杯。偉くない?この五条悟がだよ?」
「つまりそれだけ僕は「君」が大事で、大切で、特別なんだよ」
大人になった今でも子供のような無邪気さを伴って「彼」は笑う。
大好きなオモチャが詰め込まれた宝箱を前に喜びを隠しきれないでいる小さな少年のような純真さと無垢さで、それはそれは目をキラキラと輝かせながら。
“目の前に
「好き。巫蠱が好きだよ。大好きで、愛してる。君が愛しくて愛しくて堪らない」
なのに何で。
どうして「彼」はこんな「
「巫蠱。例え終わりが来たとしても、
何故こんな「
(悟。私は、)
誰かと共に生きていく「未来」を想像したことは、一度として無かった。
常に「終わり」ばかりを考えていた。自分自身の「死」ばかりを追い求めていた。
どうしたら死ぬことが出来るのか、あとどれほど待てば自分を殺せる存在と出会えるのか。
そればかりをずっと、思い続けてきた。
だから「彼」の「願い」を知った時、息が止まった。
頭の中が真っ白になって、目の前が真っ暗になった。
耳鳴りが酷く、聞き間違えたのではないか、とすら思った。
でも「彼」の愛情に満ち足りた眼差しと頬を撫ぜていったあの温もりを思い出したら聞き間違いではなかったのだと分かって──────────絶望した。
『
そんなことを。
一瞬でもそんなことを思い、そんなことを夢見てしまった自分自身に、心底絶望した。心底、失望した。
己が“これまでにしてきたこと”を考えれば到底赦されることではないと言うのに。
これまで散々死ぬことだけを考え続けてきた癖に、こうもあっさり己が「願い」を覆すのかと。どこまで恥知らずな奴なのだと、自分自身を罵倒した。
身勝手で浅ましい、救いようがない「化け物」なんて存在しているだけでも「害」なのに。
いっそ今すぐ死んでしまえば良い。肉片も残さず惨たらしく死んでしまえばいい。
「
【呪いを内包している人の話10】
21.04.15
23.06.07:加筆修正