名前は一人で早朝の電車に揺られていた。相当早い時間帯であるためまだ周りには雄英の生徒はおろか通勤するサラリーマンや通学する学生の姿さえ少ない。学校の開門時間と同時に登校するのは入学数日で既に習慣となりつつあった。事務室で教室の鍵を受け取って一人B組の教室に向かう。普段賑やかなはずの学校がしんと静まり返っているのはなんだか不思議な感じがすると名前は思った。教室につくと自分の席に荷物を下ろし、後ろの棚に置いてある花が一輪ささった花瓶を手に取る。水を取り替えるべく廊下に出てA組の教室の前を横切りながら名前は高校生活二日目のことを思い出していた。
その日の名前は今日と同じように学校が開くと同時に登校した。朝、教室で絵を描こうと思ったからだ。持参した花瓶に水を入れてスケッチブックの紙を一ページちぎった。個性無効化のグローブを外してそれを適当に丸めると次の瞬間紙は一輪の花になっていた。名前の個性だ。それを花瓶に指し自分の机に置くと生徒がちらほら登校してくる時間になるまで黙々とスケッチをした。その日の授業では初日にA組が行ったという個性把握テストをB組も行った。そして昼休み。拳藤と一緒に教室で食事を摂っていた名前は食堂から帰ってきた鉄哲から声をかけられた。
「なあ苗字、お前他の科の間で噂になってんぞ」
「噂?」
名前が首を傾げると鉄哲はこう続けた。
「さっき食堂で他学科の生徒が話してるの聞いたんだけどよう、今年のヒーロー科一年の生徒の中にすげえ美少女がいるとかなんとか」
「あー、そりゃ十中八九名前のことだろうな」
拳藤が鉄哲の言葉に同意する。そして彼女はそう言えば、と何かに気づいたような声を上げた。
「今朝から他学科の生徒が何故かヒーロー科のこの階の廊下をウロウロしてたな。あれってもしかして名前を見に来てたんじゃないかな」
「まじかよ、苗字お前すごいな」
「……あまりいい気分はしない」
どこか沈んだ調子の声で眉を寄せる名前に拳藤と鉄哲は顔を見合わせた。
「よし苗字、次廊下でそういう奴見かけたら俺が追い払っておいてやるよ!」
「名前、もし知らない奴にしつこく絡まれたりしたら私に言いな。ぶっ飛ばしてやるから!」
「う、うん。ありがとう?」
ヒーロー科の生徒が「ぶっ飛ばしてやる」なんて言うのはどうなんだろう、と思いながらも名前は頷いた。自分のことを心配してくれる友人が緑谷以外にもできたことが素直に嬉しかったのだ。そうして鉄哲から噂のことを聞いて以来名前は極力教室から出なくなった。たまたまその日は早めに登校していたし、それ以降も人目を避けるように早朝の登校とスケッチを続けて今に至る。
「(なんで二人は私のことを気にかけてくれるんだろう。きっと私、無愛想に見えてるだろうに)」
花と向き合いながら名前はそんなことを考える。するとガラガラとドアが開く音がして生徒が一人、教室に入ってきた。時計を見ればスケッチを始めて四十分が経とうとしていた。
「苗字さん、おはようございます」
「おはよう、えっと、塩崎さん」
「今日もお早いんですね、感心します」
そう言って綺麗に微笑む塩崎茨に名前は「塩崎さんこそ、充分早いと思う」と返す。名前の次に登校してくるのはいつも彼女だ。その関係で塩崎とはこうして朝の挨拶をするくらいの仲にはなることができた。他はまだ拳藤と鉄哲としか話せていない。入学初日が上手くいき過ぎただけで人間そう簡単には変われないのだなと名前は思った。
「お上手ですね」
名前が顔を上げると今まで挨拶を交わすだけだった塩崎が名前の席の側まで来ていてスケッチブックを覗き込んでいた。名前は小さく「ありがとう」と返す。
「先日から気になっていたのですが苗字さんは絵を描くことがお好きなんですか?」
「うん、好き。でもこれは個性の練習のためにしてること」
「個性?苗字さんの個性って、確か私と似ていましたよね。植物系で」
「そうだね」
「それと絵を描くことがどう結びつくのでしょう?」
塩崎の疑問は最もだ。名前は慎重に言葉を選ぶように説明する。
「私が個性で植物を出すのには条件があって、対象の構造から色や匂いまで鮮明に脳内でイメージできなきゃいけないんだ。だから絵を描いて想像力を養ってるの」
名前は半分嘘をついていた。名前の個性はただ単に植物を出すだけの単純なものではない。「なるほど」と納得する塩崎に嘘をついた後ろめたさを感じながら名前はスケッチブックを閉じた。
「あら、もう止めてしまうのですか?」
「うん、もうすぐみんな登校してくるだろうから」
「ではまた明日、よかったら見せてください」
そう言ってやはり綺麗に微笑む塩崎には高校生らしからぬ落ち着きと物腰の柔らかさがあると名前は思った。「また明日」という言葉、これからも歩み寄ってくれると約束されたその言葉が嬉しくて、そして少し気恥ずかしくて名前は小さく笑みを返す。
それから続々と生徒が登校してきて、午前の授業はあっという間に過ぎ去った。週に二日、三〜四限にヒーロー基礎学が入るカリキュラムになっているが今日はB組は座学で、A組がヒーロー基礎学になっているようだ。
「名前〜、ご飯食べよ」
拳藤が弁当を片手に振り返る。そして名前が机に広げている弁当に目を留めると「おっ今日は少ないんだな」と目を丸くした。
「そんなにいつもたくさん食べるわけじゃない」
「でも二日に一回くらいの頻度ですごい食べるじゃん。弁当重箱で持ってきてるだけで驚くのにそれに加えて10分休憩にもパンとかおにぎり食べてるんだもん」
「う、たしかに、そうだけど……」
名前は視線を泳がせる。
「……個性を使った日はどうしてもお腹が空くから」
「へえ、そういう理由だったんだ?」
「うん、原因はいまいちよく分からないんだけど」
「それは大変だな」と言う拳藤に名前は頷いた。日常的に個性を使うようになったのがここ一年以内だから原因はよく分からない。ただ事実として個性を使った日は異常な程強い空腹感や強い眠気に襲われるようになった。早く原因を突き止めて克服しなければいけないと思っている。
「あ、そうだ。名前に聞きたいことあったんだよ」
そう言って拳藤はポケットから携帯電話を取り出した。そしてその画面を名前に見せる。無料で通話やメールのようなチャットができる緑の某SNSだ。
「これやってるよな?連絡先教えて」
毎日聞こうと思って毎日忘れててさ〜と言って笑う拳藤に名前は呆然としていた。そのアプリなら入れている。しかし名前の連絡先には両親と緑谷しか登録されていなかったのだ。拳藤と連絡先を交換するとその寂しかった連絡先一覧に「拳藤一佳」の文字が追加された。それを物珍しそうにまじまじと眺める名前に拳藤はからからと笑った。
「これで学校以外でも話せるな」
「うん」
名前も小さく笑う。と、そのとき名前の携帯電話が震えた。見るとその数少ない連絡先の一人である緑谷からメッセージが届いている。
「ごめん、ちょっと携帯触ってもいい?」
「もちろん。誰からなん?」
「幼馴染みから」
「ああ、前言ってた奴か。A組なんだっけ?」
そうだよ、と拳藤に言いながら名前はトーク画面を開いた。噂が広まってるという話、それを心配しているという話、それから今日久しぶりに一緒に帰らないかという誘い。名前は目を丸くした。私と一緒にいたら出久も悪目立ちしちゃうのにいいのかな、と。それでも彼は大丈夫だと言う。
「一佳。今日は幼馴染みと帰っていい?」
「へえ、いいじゃん。私は気にせずそうしなよ」
拳藤から了解を得たので名前は緑谷の誘いを受けることにした。緑谷にはたった数日会っていないだけなのに、雄英での生活が濃かったため随分会っていないように錯覚する。
「名前、嬉しそうだな」
その言葉に驚いて携帯の画面を見ていた顔を上げると拳藤はただ優しく笑う。
「私、嬉しそうに見えた?」
「ん?見えたよ」
「本当に?」
「何疑ってんの。ほんとにそう見えたよ」
名前は自分の感情を表現する術を知らない。どんな顔も今までずっと無表情と一括りにされてきた。だから当然人から嬉しそうだね、と言われたことはなく、自分の感情が意識せずとも表に出ていたことに驚いた。もしかすると拳藤の洞察力がかなり優れているのかもしれない。
「一佳はよく人を見ているんだね」
「そうかな?意識したことはないけど」
でも名前の表情の違いは最近分かるようになってきた、と拳藤は快活に笑ってみせた。
*
7限目の授業を終え、名前は伸びをした。携帯を見るが緑谷から連絡はない。そういえば特に待ち合わせはしていなかった。A組に行けばいいのかな、と名前は疑問に思う。分からないからやはりそうするしかない、と荷物をまとめ拳藤と一緒に教室を出た。
「じゃあまた明日な」
「うん、また明日」
小さく手を振ってA組の教室の前で拳藤と別れた。少し背伸びをして教室の様子を伺うとA組はまだHRの最中のようだ。
「(あ、あの人……本当にA組の担任だったんだ)」
教卓には入学初日に呼び出されて校長と話をした時に一緒にいた、少しくたびれたヒーローらしからぬ風貌の男性が立っている。名前はもう少し教室内を見渡してみた。すると奥の窓側の席に緑谷と爆豪の姿を見つける。爆豪を見るのは合格報告のとき以来で随分久しぶりだ。
「(席前後なんだ……二人は本当に縁があるんだな)」
その縁とは因縁の類かもしれないがそれでも名前は二人が羨ましかった。どうして私だけいつも蚊帳の外なんだろう、と思う。名前は窓の側から離れて廊下の壁に背中を預けた。ここで待っていれば確実だがもしかしたら爆豪にも会ってしまうかもしれない。
喧嘩別れのようになったままの関係で、私は彼に何か言えるのだろうか。