A組の教室がどよめき、時折笑い声や野次のような声が廊下まで聞こえて来る。担任の先生はなんだかくたびれているけれどA組そのものは賑やかなクラスなんだろうな、と名前は思った。何を話しているのかなかなかHRが終わる気配はない。何の気なしに窓の外の景色を眺めていると、鞄の中の携帯電話が揺れた。見ると拳藤から『まだ学校にいる?』とメッセージが届いている。『いるよ』と返すとすぐに既読がついて返信がきた。
『教室の近く?』
『うん』
『よかった!定期が見当たらなくてさ、私の机の中にないか見てくれない?』
定期券をなくしたなら大変だ、と思い二つ返事で了承すると拳藤は『助かるよ』と言った。B組の教室に戻り拳藤の机の中を覗き込むとパスケースらしきものを見つける。手にとってみるとそれはやはり定期券で、名前はほっと息をついた。
『あったよ』
『ほんと!?よかったー!今から取りに行くわ!』
『下まで持って降りようか?』
『あれ?幼馴染みはいいの?』
『A組なかなか終わりそうにないから』
『そうか、じゃあ頼む!』
出久は校門の近くで待てばいいや、と思い名前はそう提案した。B組の教室を出て、A組の教室の前を横切る。そんな名前の背中をA組の教室から見送る少女がいた。名前がA組の教室の前で緑谷を待っていた時からただ一人、名前の存在に気がついていたその少女はふと思ったことを口にする。
「あの子、上鳴ちゃんが言っていた子じゃないかしら」
*
緑谷出久は焦っていた。『校門の近くで待ってるよ』という名前からの連絡を確認した後、目の色を変えて机に置かれた紙に向き合う。今日のヒーロー基礎学の反省と、明日の同授業に向けての課題や目標を書き提出した者から帰ってよし、と言って教室を出て行った相澤に「なんでこんなときに限って……!」と頭を抱えそうになった。同時に廊下側の席のクラスメイトの会話が耳に入ってくる。
「どうしてA組の前にいたのかしら」
「梅雨ちゃん、それ本当にあの子だった!?」
「三奈ちゃんが言っている『あの子』で間違いないと思うのだけど」
「えー!なんでだろう!気になるね!」
「誰かを待ってたって考えるのが自然だよな」
「その子って僕よりエレガントなのかい?」
「君たち!関係のない話をしてないで相澤先生から言われた課題に取り組もう!」
「でも私も気になってきたな〜!どんな子なんだろ」
なんか朝より話題に食いつく人増えてるし!と緑谷は辟易した。麗日や蛙吹、そして自分以外に興味がなさそうな青山まで話に加わっている。飯田だけは通常運転だが。蛙吹が見たという『あの子』が本当に名前なのか緑谷には知りようもないが、実際に見た者が一人しかいないのにこれだけ話題になるあたり名前の人を惹きつける力は最早異常だ。それも本人の意思に反しているところが尚更厄介だ。緑谷は誰よりも早く課題を終えるとそれを教卓に提出した。元よりヒーローの研究を自ら進んでやっていたし雄英に入学してからは人から言われずとも常に自分や周りを分析していたためすぐに終わらせることができたのだ。後ろの扉から廊下に出ようとした緑谷にそのすぐ側の席に座る麗日が声をかける。
「あれ?デクくん早いね、もう書いちゃったのか。流石だね!」
「う、麗日さん。うん、今日は人を待たせてるから急いだんだ」
「えっそうなの?うわあ、ごめん!急いでるところを引き止めちゃって、また明日ね!」
麗日の笑顔に心の中で「う、麗かだ……!」と目を細めながら緑谷も「また明日」と言って今度こそ教室を出た。さっき麗日さんも名前ちゃんのことが気になると言っていたけれど近いうちに紹介できたらいいな、と胸を膨らませる。緑谷が去った後の賑やかな教室では爆豪が一人、つまらなさそうに鼻を鳴らしていた。
*
ヒーロー科だけ七限目があり、他の科は六限終わりだ。さらにヒーロー科そのものの人数が少ないため校門もこの時間帯はまばらにしか人が通らない。そのため視線を集めることもなく名前は緑谷を待つことができた。拳藤の役に立つことができたし連絡先を交換したことが早速良い方向へ働いたことが嬉しかった名前は珍しく上機嫌だ。そして今から久しぶりに大事な幼馴染みに会って話ができる。そう思うだけで浮き足立ってしまう名前のもとにタッタッと地面を蹴る音が近づいてきた。
「ごめん名前ちゃん!待ったよね……」
「平気。走ってきたの?」
「うん。これ以上待たせちゃ悪いと思ったから」
「気にしなくて良いのに」
「名前ちゃんならそう言うと思ったんだけどね」と笑って緑谷は「じゃあ行こうか」と歩き始めた。二人並んで門の外へ出る。
「出久に数日会わなかっただけなのになんだかすごく久しぶりに感じる」
「名前ちゃんも?僕も全く同じこと考えてたよ」
それぞれ別のコミュニティで濃い時間を過ごしていた二人はたった数日を数週間と錯覚してしまうほどお互いを懐かしく感じた。
「かっちゃんの様子はどう?」
「はは……相変わらずだよ。雄英でも唯我独尊って感じ」
「そう、彼らしいね」
「ただ、」
「ただ?」
「雄英の人ってすごいよね。あのかっちゃんが時々、いやけっこう、いじられててさ」
「……え?」
あのかっちゃんをいじる?少なくとも彼の中学時代までの学校での様子を知る名前はまるで想像できず思わず首を傾げた。
「信じられないよね。僕も初めてこの目で見た時はびっくりしたよ」
そう言って緑谷は上鳴や切島、瀬呂の顔を頭に思い浮かべた。他にもいじるとは違うが飯田や蛙吹、芦戸、耳郎に八百万あたりも割と思ったことをはっきり言うタイプだ。良くも悪くも雄英の生徒にはそんな風に人としっかり向き合える人が多い気がする、と緑谷は感じていた。すると隣で名前が「そういえば」と声を上げる。
「私も中学時代までには考えられなかったこと、あるな。クラスメイトが話しかけてくれたんだ。三人だけだけど」
「あ!言ってたよね。噂のことは友達から聞いたって。僕それ聞いたとき『名前ちゃん友達できたんだ!』ってなんだか自分のことのように嬉しかったよ!」
「ふふ、ありがとう」
本当に嬉しそうに目を輝かせる緑谷に名前は微笑みを零した。
「雄英の、それもヒーロー科の人ってやっぱり普通の人とはちょっと違うのかな」
「だから私もかっちゃんも、今までと周りからの扱いが変わったのかな」名前がそう言うと緑谷も「たぶんそうなんじゃないかな」と答える。きっとヒーロー科には文字通り、より個性的な人が多く集まっている。個性や性格、生い立ちや育った環境、それぞれ違う者達が集まってお互いに影響を及ぼし合う。それがこの雄英高校だ。その意味では名前や爆豪を取り巻く環境が変わったのは喜ばしいことなのかもしれない。
「そういえばね、今朝かっちゃんが名前ちゃんを庇っていたよ。かっちゃん、名前ちゃん本人を前にすると絶対に直接態度には出さないけどきっと君のこと心配してるんだと思う」
緑谷の言葉に名前は一瞬固まって、それから顔を彼の方へ向けた。
「庇ってたって、何かあったの?」
「名前ちゃんの噂、A組にも広まっちゃって。それで今朝A組の何人かがB組に見に行ってみよう!って話をしてたんだけど、名前ちゃんそういうの嫌がるでしょ?そしたらかっちゃんが彼らを引き止めてくれたんだよ。まあ、その説得の仕方は横暴だったけど……」
「……」
その話を聞いた名前は沈黙した。そして混乱している脳内を整理しようと努めた。確かに名前は見世物のように離れたところからジロジロ見られることが嫌いだ。中学までがまさにそうだったしそれに慣れていったことも嫌だった。それを知っていて爆豪が名前を庇ったということがいまいちピンとこない。確かに彼は時折分かりにくすぎる優しさを見せることがあった。それでも名前に対する発言はやはり暴力的だったし何より最後に話したとき喧嘩別れのようになってしまっているのだ。爆豪は素直じゃないだけで本当は名前の心配をしていると緑谷は言うけれど、名前には分からなかった。他人の表情や言動の裏に隠された想いを感じ取ることができず人の心の機微に疎い彼女には理解できなかったのだ。黙り込んでしまった名前に緑谷が「大丈夫?」と顔を覗き込む。
「ごめん、考え事してた」
「かっちゃんのこと?」
「……うん。庇ってくれたことは嬉しいけど本当に心配してるなら言葉にしてくれないと私には分からない」
「それは……どうだろうね。かっちゃんああいう性格だから素直に言葉にできないんだと思う」
緑谷のその言葉に名前は力なく笑った。
「そうだね。彼には彼らしくいてほしいから、それでいいや」
それから緑谷と名前はいつもの公園の前で別れるそのときまで離れていた数日間を埋めるようにお互いの話をした。緑谷の話には麗日と飯田という人物がよく出てくる。特に緑谷のことを「デクくん」と呼ぶらしい麗日の話に名前は興味を持った。彼女のおかげで今までコンプレックスだった「デク」という蔑称の意味が変わったのだという。はにかみながらそう話す緑谷に「彼女ならきっと私にはできない良い影響を出久にもたらしてくれる」と名前は直感した。
「その麗日さんって子、気になるな」
「ほんと!?麗日さんも名前ちゃんのことが気になるって言ってたよ。近いうちに紹介できたらいいなあ」
その言葉に名前は少し驚いて、それから微笑む。話が尽きない二人は明日も一緒に帰る約束をして別れた。陽が沈みかかった夕と夜の境い目のような空を見上げ一人歩く。名前の心の中では新たな出会いへの希望と爆豪に対する靄のかかった曖昧な気持ちが混ざりあっていた。