まだ人の気配がない早朝の学校。花瓶の水を取り替えてB組の教室に戻ってきた名前は自分の席に腰を落ち着けると小さく溜め息をついた。窓からは朝陽がうっすらと差し込み机に置いた花を照らす。絵を描くには絶好の自然光だ。しかし珍しく気が乗らない名前は再度溜め息を吐き花瓶を倒さないよう机にうつ伏せた。
「(かっちゃんって本当に、何を考えているんだろう)」
昨日緑谷から聞いた話がまだ名前の胸につっかえていたのだ。きっと爆豪本人と話さないことには胸につっかえているぼやけた感情はなくならないし名前を悩ませ続けるだろう。それは分かっているがどんな顔をして彼に会えばいいのか、それが分からなかった。
「(やっぱり駄目な人間だ、私は。幼馴染みと向き合えないのに友達なんて、出来るわけがない。たまたまここで最初に会った二人がいい人だっただけだ)」
物憂げに目を伏せた少女の輪郭を朝陽がなぞり浮かび上がらせる。柔らかな光に包まれたその姿はどこか神秘的な気配さえ纏っている。そのまま彼女は一人眠りに落ちていった。
*
どれくらい眠っていたのだろうか。ガラガラと教室の扉が開く音で名前は目を覚ました。ぼんやりと覚醒しきらない頭で「きっと塩崎さんだ」と思い顔を上げる。しかし扉の側に立ちこちらを見ていたのは塩崎ではなく金髪碧眼でタレ目の端正な顔立ちをした少年だった。彼の顔にどこか見覚えのあった名前は記憶を巡らせる。彼は誰だったろう。いや、というか、ここにいるのだからきっとクラスメイトだ、だから見覚えがあるのだ、と漸く冴えてきた頭で結論を出した。名前が寝ぼけ眼でじっと少年を見つめていると彼はスッと目を細め「おはよう、苗字さん」と笑いかけてきた。思いがけず挨拶とともに名前を呼ばれた名前は少し焦る。名前は彼の名前が分からないからだ。
「おはよう、えっと……」
「僕は物間だよ、苗字さん」
「物間くん」
彼の名を呼びおはよう、と改めて挨拶をすると物間はやはり目を細めて爽やかに笑った。しかしその笑顔をどこか嘘っぽいと思い、その裏に冷ややかなものを感じた気がした名前はこれ以上彼と話すのはよそうと彼から視線を外す。名前のあからさまな話しかけるなオーラに気づいたのか物間はそれ以上何も言わず名前とは反対側の端の列にある自分の席へ歩いて行った。心の中でこっそり安堵する名前だったがドサッと物間が自分の席に荷物を置く音が聞こえた後、椅子を引く音が聞こえないことに嫌な予感を覚える。何も気にしないよう花瓶にさした花を眺めていると数秒後すぐ隣でガタガタと椅子を引く音が聞こえ、驚いた名前はビクリと肩を震わせた。恐る恐る真横を見ると隣の鉄哲の席に先程と同じく貼り付けたような笑みを浮かべる物間が体を名前の方に向けて座っていた。
「その花、苗字さんが持ってきてたんだね。いつの間にか教室の後ろの棚に置いてあったから誰が手入れしてるんだろうって思ってたよ」
「うん、私。朝に水を取り替えたりしてる」
「もしかしていつもこんなに早く来てるの?」
「うん」
「へえ、そうなんだ」
そう言って目を細める物間に名前は少し身構える。物腰柔らかなその態度に何故こうも警戒してしまうのか名前は自分でも不思議だった。それにしても、この人いつまでここにいる気だろう。完全に鉄哲の席に座り込んでしまっている物間を横目に見て名前は口を開いた。
「あの、まだ何か」
「え?君と僕しかいないんだし話そうよ。苗字さんと話せる機会なかなかなかったしさ」
ニコニコと笑いながらそう言う物間に名前は「塩崎さん早く来て……!」と心の中で祈ってしまった。少し話しただけだが名前は物間のことをなんとなく苦手だと感じてしまったのだ。しかし人を第一印象で判断するのは如何なものかとも思った名前はできるだけ受け答えくらいはしようと心に決めた。
「君、入学数日で有名人だよね」
「……みたいだね」
「何もしてないのに見た目だけでここまで話題になるなんてすごいなあ。ヒーローは人気商売みたいな側面もあるしその点有利だよね」
「……」
「まあ君教室から全く出ようとしないしこんな時間に学校来てるあたり人目を避けようとしてるようだけど。僕には分からないけど色々大変なんだろうね」
決意も虚しく名前は完全に口を噤んでしまった。つらつらと言葉を並べる彼の口ぶりは名前の地雷をことごとく踏み抜くような物言いだ。彼に悪気はないのかもしれないけれど、人慣れしていない名前でも薄々感じ取れる程度には間違いなく、その言葉には嫌味が含まれていた。何をそんなに妬まれているのか知らないがいい気分はしなかった。黙り込んでしまった名前に物間は首を傾げる。
「どうしたの?」
「別に」
「ふうん、もしかして僕とは仲良くしたくないのかな?悲しいなあ」
「そんなこと言ってない」
「そうかな、だって苗字さん拳藤と鉄哲とはよく話してるよね?ああでも、もしかすると苗字さんは周りの人間には興味ないのかな?僕の名前だって覚えていなかったしね。その様子だとまだ殆どのクラスメイト把握してないでしょ。まあ君自身は有名人だしそんな必要性感じないのかもしれないけどね」
何だこの人。名前はただ一言そう思った。情緒が不安定なのだろうか。もしかしたら相当やばい人に目をつけられたのかもしれない。名前はただただ塩崎の一刻も早い到着を願った。
「私のことよく見てるんだね」
「そりゃあなんて言ったってあの苗字さんだもん。B組の、いやヒーロー科の話題の人物だからね。動向が気になるじゃないか」
「……」
名前が何か一言口を開くと一を十で返してくる物間に名前は辟易していた。この人と話すと心が疲れる。それにこの感じは何かに似ている、と名前は考えた。決して自分の腹の内は明かさずそれに加えみみっちいプライドの高さを感じさせる話し方。それを名前は知っている気がしたのだ。悶々と考えているとフッとある人物の顔が頭に浮かんだ。名前は「あ、」と小さな声を上げる。
「え?何?」
突然何かを思いついたような素振りを見せた名前に物間は疑問の声を上げた。名前は物間の方へ顔を向けその碧眼を覗き込む。
「君、私の幼馴染みによく似ている」
「そ、そうなんだ?」
「うん。性格とか顔じゃなくて、人格の根本の部分が似てる」
人格の根本って何だよとか、物間は何か言い返したかったが何も言えず押し黙ることになってしまった。名前が小さく小さく、だけど確かに笑ったからだ。初めて見るその表情に見惚れ何も言えなくなる。名前はというと物間のみみっちさが爆豪のそれに似ていると気付くと先程までの物間への嫌な印象が少しだけマシになっていた。そのとき教室の扉が開く音がして、名前が待ち焦がれていた人物が顔を出す。
「苗字さん、あら?それと物間さんも。おはようございます」
「あ、ああ……おはよう、塩崎」
「塩崎さんおはよう」
二人に対して丁寧に挨拶をした塩崎は名前に微笑みかけるとスタスタと自分の席へ歩いていく。名前の真横でガラガラと椅子を引く音がした。見れば物間が立ち上がっている。彼は名前をチラリと一瞥すると「じゃあまた今度ね」と目を細めて笑った。
*
「へえ、物間に絡まれたん?そりゃ災難だったな」
昼休み、パンを頬張りながらそう言う拳藤に名前は弁当の隅をつつきながら眉を下げた。
「大変だったろ。あいつ精神がちょっとアレだからな。何か気に障ること言われても気にしなくていいと思うぞ。悪い奴ではないから許してやってほしい」
「うん。一佳は物間くんとも交流があるんだね。すごいな」
「別にすごかないよ。気づいたらいつも色んな奴の世話焼いちゃうんだ、私。周りを放っておけないタイプらしい」
「それがすごいんだよ」
食い気味に拳藤を褒める名前に拳藤は「はは、そこまで言われると照れるな」とはにかんだ。名前は本当に拳藤へ尊敬の眼差しを向けていた。彼女は名前にはないものを持っている。様々な人とコミュニケーションを取りそれをまとめていく力、すなわち統率力。数日間いっしょに過ごしただけで拳藤がその力に長けているのがよく分かったのだ。物間に代表されるようにB組の、一癖も二癖もある個性豊かな生徒達をまとめるのは並大抵の人には不可能だと名前は思う。
「もし学級委員長を決めることになったら一佳がなるべきだと思う」
「おいおい、まだそんな話出てないだろ」
「もしもの話だよ」
名前がそう言うと隣から「俺もそう思うなァ」と声が聞こえた。
「あれ?鉄哲いたの」
「苗字それ酷くねえ!?」
「いやだってお前、いつも昼は食堂じゃん」
「今日は弁当なんだよ!見りゃわかんだろ!」
名前と拳藤二人して鉄哲をいじり笑う。三人での会話はこういう流れになることが多かった。
「てか学級委員だよ。多分そのうち決めると思うぜ。先輩が言ってたからよ」
「そうなんだ」
「まあたぶん皆やりたがると思うなあ。鉄哲だってさっき名前に賛同してたけどホントは自分がやりたいだろ?」
「そりゃ当たり前だろ」
名前は首を傾げる。「そういうものなの?」と。すると二人は「そりゃそうだろ!」とツッコミを入れた。
「名前分かってる?ヒーロー科の学級委員だよ。ヒーローに必要な組織をまとめる統率力が求められる。そりゃみんなやりたがるよ」
「もしかして苗字、自分はいいやとか思ってんだろ」
「う、うん」
名前が鉄哲の言葉を肯定すると二人は「はぁ」とわざとらしく溜め息をついた。「まあ、名前らしいけどな」と拳藤が言う。
「少しは考えておいた方がいいと思うぞ」
二人の言葉を聞いて、私には皆のように一人前のヒーローを志す気概が足りないのかもしれない、と名前は思った。これは口が裂けても周りに言えないが、そもそもヒーローになりたくてこの学校へ来たわけではないためやはりその辺りの心持ちが欠けている。皆真剣にヒーローになるべく学んでいるのに、それに水を指すような態度を取るべきではない。二人の言葉を噛み締めて名前は箸を進めた。