仄めく燈

「……絶対足りない」
「え?何が?」

戦闘訓練が終わり、更衣室から教室に向かう道中。ポツリとこぼした名前の独り言に隣を歩いていた拳藤は首を傾げた。名前は浅く溜め息を吐く。その目はどこか沈んだ色をしており声色からも彼女が陰鬱とした気持ちを抱えていることは読み取れた。

「お昼ご飯、足りない」

拳藤は思わず数度瞬きをする。大真面目な顔して何を言っているんだろうこの子は、と。

「けっこう深刻な感じか?」
「とても深刻」
「今日あのでかい弁当じゃないの?」
「あれだけど足りない」
「まじかよ、あれで足りないのか」

呆れそうになる拳藤だったが名前を見れば眉を下げ本当に困っているようだった。「どうしよう」と雨に濡れた子犬のように目を潤ませるその様子に拳藤の世話焼きスイッチが入らないはずがなかった。

「うーん、そうだなあ。購買で何か買ってきてやろうか?」
「そんな、悪いよ」
「でも教室の外、できるだけ出たくないだろ?」
「……がんばる」
「ほんとに!?それじゃあどうせ出るなら購買より食堂の方がたくさん食べられるかもな」
「食堂……」
「大丈夫!私がついてるし!あ、そうだ!鉄哲も連れてこ!あいついつも食堂だからオススメとか聞けるし、な?」
「……うん、ありがとう」

名前は拳藤を見上げ微笑んだ。人に見られることと食欲を天秤にかけそれが食欲に傾いたのは拳藤の後押しあってこそだろう。

「鉄哲一緒に来てくれるかな」
「名前が頼めば断れないだろ」
「?そう」

首を傾げながらそれにしても、と名前は自分の腹部に手を当てる。耐え難い空腹感。これは一体何なのだろう。個性を日常的に使うようになってから度々名前を襲うようになっていた強い食欲。ほぼ間違いなく原因は個性にある。それは分かるのだが改善することはできないのだろうか、それが分からない。

「おーい鉄哲ー」

拳藤が鉄哲を呼びながら教室のドアを開けた。ドアのすぐ傍の席に座る鉄哲が振り返る。彼は既に二人の男子生徒と共に弁当を食べていた。モグモグと口の中の食物を咀嚼し飲み込んでから「何だよ拳藤」と言葉を返す。

「えー!お前今日は弁当かよ!しかももう食べてるし!」
「な、悪いかよ!てかなんなんだよ!」
「名前が今日食堂デビューするからついてきてもらおうと思ったんだよ」
「は、マジで?苗字外出られるのか?」

まるで引きこもりのような扱いを受けている気がする、と思いながら名前はぼんやりと鉄哲を見つめた。そして口を開く。

「でもやっぱりいいよ。その……二人に悪いし」

名前の視線の向きは鉄哲と一緒に弁当を食べていた男子生徒に移る。名前と目が合った二人は緊張から顔を強ばらせた。

「いや!俺達のことは気にしないでいいから!鉄哲連れてってくれ!」
「いいの?」
「おう!おい鉄哲お前さっさと行け。苗字さんを困らせるなよ」
「なんか俺の扱い雑じゃねえ?」

そう言いながらも食事を中断し弁当を包みながら立ち上がる鉄哲に名前は「鉄哲はいいの?」と尋ねる。「おう」とぶっきらぼうに返事をした鉄哲に口元を綻ばせた。

「じゃあお言葉に甘えて鉄哲借りるね、えっと……」

二人の名前が分からない……と名前が言葉を詰まらせる。察した拳藤がすぐに「回原と円場」と小声で耳打ちした。

「回原くん、円場くん。ありがとう」

普段の彼女らしからぬ柔らかな表情で礼を言う名前に回原と円場はどぎまぎせずにはいられなかった。教室を出ていく三人を見送り残された彼らは顔を見合わせる。

「苗字さんって笑うんだな」
「天使か?って思ったし正直鉄哲が羨ましい」
「俺も」





机にはそれぞれの弁当と名前が注文した料理が所狭しと並んでいる。食堂に来るまでの間「ランチラッシュの作るメシはマジでうめぇから!」と力説していた鉄哲の言う通り、どれも名前の舌を蕩けさせた。食事に夢中になる名前をよそに拳藤と鉄哲は目で会話する。「やっぱ見られてるな」と。食堂に向かうまでの間は道行く人が振り返って名前を見た。こうして席についた今はただでさえ生徒で溢れて賑やかな食堂が一層ザワついている。「あの子が」「噂の」そんな言葉があちこちで飛び交っている。噂が噂でなくなった瞬間だった。一方名前はと言うとあれだけ嫌がっていた割りには注目されること自体には慣れているのかさほど周囲の目を気にしているようには見えずいつも通りだった。そのことが二人を安堵させた。

「なんつーか、改めて苗字すげえなって思い知るな、こういう状況になると。初めて苗字を見たときそういう個性なのかと勘違いしたの思い出すわ」
「そういう個性って?」
「人を惹き付けるみたいな、そういうのだろ?私も名前を初めて見たときそう思ったから分かるよ」

名前は箸を動かすのはやめずに「ああ」と生返事すると「あながち間違いではない」と言った。拳藤と鉄哲は眉を顰めると「それってどういうこと?」と聞き返す。

「私の母がそういう個性。老若男女を問わず人を強く惹き付ける個性。で、外見って個性の影響受けるでしょ?そのせいか母、すごく見た目が良くて。私はそれに似ているらしい」
「個性は遺伝せずに容姿は遺伝したってことか!すごいな、そんな個性ほんとにあるんだな」
「俺らの親世代で活躍した伝説的女優がそういう個性だったって噂があるけど、所詮噂だもんなァ」
「ああそれ知ってる!うちの親が二人揃ってファンだったって。無個性の一般男性と電撃結婚してそのまま引退しちゃったって、私らが生まれる前のことだけど今でも美談として有名な話だよな。あの頃すでに個性婚が問題になってたし」

盛り上がる二人に名前はまた「ああ、」と生返事する。そして口に運んだ唐揚げを咀嚼して飲み込んだ後衝撃的な言葉を口にした。

「それがうちの父と母」

大したことじゃないとでも言うような口調でさらっとそう告げた名前に拳藤と鉄哲は理解が追いつかず暫し固まった。そして数秒後二人揃って「は!?」と身を乗り出す。突然大声をあげた二人に周りの視線が集まる。拳藤は「やばっ」と身を竦めたあと小声で名前を問い詰めた。

「どういうこと!?聞いてないんだけど!」
「聞かれなかったから」
「いやいや、お前の母ちゃん芸能人?って質問が出てくるわけねえだろ!」
「あ、それもそうだね」
「お前なァ……」

こいつマジかよという目を名前に向ける二人。コミュニケーションにおいて彼女の感覚が普通の人間と少しズレていると感じることは今までにもあったことだが今回は特にそうだった。言うなれば彼女は自分自身に無頓着だ。自分に興味がないとも自分を蔑ろにしているとも言える。拳藤が「は〜……」とわざとらしく溜め息をついた。

「こっちから聞かないとほんっとに自分のこと何も話さないんだから……」
「そうだぜ、今日の戦闘訓練だってびっくりしたんだからな!なんだよお前のあの個性!めちゃくちゃすげえじゃねえか!」

名前はピタリと箸を動かす手を止めた。
時はほんの数時間前に遡る。結果から言うと対人戦闘訓練で勝利したのは名前と物間の敵チームだった。核のある部屋の外で名前は一人、ヒーローチームの骨抜と泡瀬と交戦。骨抜の「柔化」の個性への対応に追われ泡瀬を取り逃す。しかし部屋に足を踏み入れた泡瀬は予め部屋に用意されていた無数のツルに襲われ動きを封じられ、待機していた物間が「溶接」の個性をコピーした。その後部屋では物間と泡瀬が、廊下では名前と骨抜が一進一退の攻防を繰り広げたがそこにこそ敵チームの狙いはあった。鳥兜に鈴蘭。部屋を埋め尽くしていた草花たち。それらは全て体を麻痺させる毒を花粉と共に空気中に放つ種類のものだったのだ。本来その毒は微量なものだがこの部屋に蔓延するそれは名前の個性によって強化されている。気付かないうちに泡瀬の体は内側から蝕まれていった。やがて決定的な痺れと共に動けなくなったところを物間による自身の「溶接」で拘束された。その後は物間が名前のもとへ駆けつけ二人がかりで骨抜を取り押さえ敵チームの勝利となる。名前のアイデアと物間の策によって初めから計算され尽くした勝利であり講評会でも評価は高かった。
それにも関わらず、鉄哲の「すごい」という賞賛の言葉を名前はゆっくり首を振って否定する。

「鉄哲と一佳だってすごかったしかっこよかったよ」
「話を逸らすな。今は名前の話をしてるの」
「……私はすごくないよ。だって、あの骨の人……」
「骨抜な」
「そう、骨抜くんの個性に対応するだけで精一杯だったし、ヘアバンドの人……」
「泡瀬な」
「泡瀬くんを取り押さえられなかったし」

「名前、人の名前もうちょっと覚えような」と拳藤が苦笑する。それから「それさえ想定した上でのあの作戦だったんだろ?」と続ける。

「それに骨抜はうちのクラスの推薦入学者だぜ?あいつとあそこまで互角に渡り合えるのはやっぱすげえよ」

そう言った鉄哲が急に神妙な面持ちになった。そして声を潜める。

「苗字、あのよ。お前の個性、ただ植物を出せるってだけじゃねえだろ。なんかもっと本当は複雑なものなんじゃねえの」

名前は目を見開いた。みるみるうちに頭から血の気が引いていく。血液が下へ下へ、落ちていく。驚きのあまり自分の瞳孔が開くことさえもが分かるようだった。そんな名前の様子に鉄哲は確信を抱く。拳藤はいまいち状況を飲み込めていないようだった。

「どうして、そう思うの」
「いや、俺は頭良くねえから分かんなかったけど。さっき更衣室で物間がな、教えてくれたんだよ。苗字が出した植物はまるで生きてるみたいだったってな。そりゃ植物だって生き物だけどなんつーかそうじゃなくて、意志を持った生き物のようだったって」
「ああ、確かに名前の目が届いてないところでもツル動いてたもんな。私てっきり遠隔操作もできるだけかと思ってたけど」
「……」
「あとこれは苗字には言うなって口止めされたんだけど『苗字さん、個性だけじゃなくて事情も複雑っぽいから友人としてしっかり支えてあげなよ』とも言われたぜ。素直じゃねえよな、あいつ」
「……物間くんが?」

名前はまたも驚きで瞼をゆっくり瞬かせる。あの物間が自分の身を案じているなんて信じられなかったのだ。

「物間、ああいう奴だけど仲間思いなんだよ。名前」
「態度はあんなんだけどよ、仲間と認めた奴のことは大事にする奴だぜ」

拳藤が優しく笑う。その笑顔には名前の心を綻ばせる暖かさがあった。鉄哲が真っ直ぐに名前を見つめる。その目には名前を安心させる力強さがあった。

少女は思った。この人達には、話していいんじゃないかな、と。大切な幼馴染みにさえ隠してきた秘密。十年間向き合うことを避けてきた過ち、今も尚手のひらに転がるその残滓。まるで呪いのような。でも、でも。きっと話していい。ただの直感だ。まだ出会って間もないけれどこの人たちなら、と何かが彼女にそう思わせる。

心は決まった。あとは伝えるだけ。声帯を震わせて、言葉に全てを託すだけ。

「二人に伝えたいことがーー、」

その時だった。名前の声は耳をつんざくようなけたたましい警告音に掻き消された。