掌の温もり

『セキュリティ3が突破されました。生徒は速やかに屋外へ避難して下さい』

警報が鳴り響く食堂。アナウンス通り生徒たちは我先にと出口へ向かって走っていく。名前は立ち上がって呆然とその日常ならざる異様な光景を眺めていた。一瞬、人混みのなかに緑谷の姿が見えた気がした。

「オイ苗字大丈夫か!?」
「名前どうしたの!?私らも避難しなきゃ!」

他の生徒達と同様に走り出そうとした拳藤と鉄哲が動かない名前に気付き振り返る。それでも尚名前は動かなかった。否、足がすくんで動けなかったのだ。人、人、人。食堂の出口には人だかりができ、その向こう側に見える廊下も人で埋め尽くされているようだった。無理だ、と名前は思った。人に触れることが怖い。あの中に飛び込めばたちまち人の波に飲まれてしまうだろう。彼女にとってそれは自殺行為も同然だった。名前は薄く開いた唇から声を絞り出す。

「二人は、先に行ってて」

拳藤と鉄哲は顔を曇らせた。

「何言ってんだよ、苗字を一人置いてけるわけねーだろ!」
「ほら、名前も行くよ」

拳藤が勢いよく名前の手を掴もうとした。名前は頭で考えるよりも早くサッと身を引いてその手から逃れる。人に触れられない彼女にとって条件反射のようなものだった。しかし今の反応は拒絶と捉えられてもおかしくない。名前はそれに気付き「あ……」と声を漏らした。不安に揺れる瞳で拳藤を見上げる。瞳に映った彼女はどこか傷ついたような表情を浮かべていた。その表情に名前の心は軋んだ。

「名前……?」

声をかけてくる拳藤に名前は俯いて「ごめんね」と謝ると食堂のもう一つの出口に向かって脇目もふらず走り出した。屋外へ繋がる廊下ではなく校舎の奥へ続く廊下に繋がる出入り口であるため人はいない。二人の様子を伺っていた鉄哲が困惑の声を上げる。

「お、おい、どうすんだよ拳藤」

拳藤は難しい顔をして思案する。しかしそれは一瞬で、すぐに鉄哲の方へ振り返るとテキパキと指示を出した。

「ここは手分けして行動しよう。私は名前を追う。鉄哲は警報の通り避難して。セキュリティ3が突破されたっていうのは確か校舎内に部外者が侵入してきたって意味だからその騒ぎの原因を確かめてほしい。もしものときは私が名前を追って校舎内にいることを先生方へ伝えて」
「おう、分かったぜ。苗字を頼むな」
「ああ、任せてよ」

二人は頷き合うと別々の方向へ駆け出した。拳藤は考える。伸ばした手を避けるように身を引いた名前。そこに明らかな拒絶を感じてしまった。追いかけたところでまた同じ反応をされてしまうかもしれない。それでも放っておけないのだ。

「(ほんと、お節介にもほどがあるよな、私)」

そう苦く笑って拳藤は名前を追った。
一方一足早く食堂を飛び出した名前は途方に暮れていた。どこへ行っても、特に階段には外へ出ようとする生徒達がひしめきあっており八方塞がりだ。結果、人がいない場所を求めて名前がたどり着いた場所は食堂がある階の女子トイレだった。個室には入らずその場に蹲る。彼女の脳裏には拳藤の傷ついたような表情がこびりついていた。

「(私が一佳に、あんな顔を、させてしまった……)」

心が軋む。ズキズキ痛む。しかし名前は自分自身のその感情に気付けない。ただ漠然と自分を責めることしかできなかった。どうして。なんで。個性を使うようになってからというもの幾らか自信がついたのか爆豪から触れられても平気だった、緑谷に自分から触れることもできた。それなのにどうして。そう思ったところで名前はハッとした。幼い日の記憶が蘇る。名前の個性が発現した次の日の記憶。様子がおかしい名前に爆豪が手を伸ばそうとし名前は「触らないで」とそれを拒絶した。あの時、

「(あの時、かっちゃんは、)」

どんな顔をしていただろう。先程の拳藤と同じく傷ついたような表情を浮かべていただろうか、それとも彼らしく怒っていただろうか。まるで思い出せない。あの日の記憶は苦い思い出として確かに脳に刻まれているのに、何故か彼の表情や声色は全く記憶の中に存在しないのだ。名前の首筋を冷たい汗が伝う。

「わた、しは、」

声が震えた。忘れてしまったのではなくそもそも記憶していなかったのだ。あの時名前は爆豪の表情を見ようとせず蹲って、彼の言葉を聞こうとせず耳を塞いだ。私は彼に嫌われて当然のことをしてきたのだ、と名前は思った。

「(私はちゃんと、かっちゃんに向き合っていなかった)」

そして緑谷にも。彼には約十年間気を遣わせ続けたことになる。その優しさに甘えて名前はその事実から目を逸らして生きてきた。そういったところに名前が人の感情を理解できない原因があったのだ。しかし先程の拳藤の反応から自分が目をそらしてきたものを目の当たりにしてしまう。そして結局また逃げてしまった。だから一人でこんなところに蹲っている。
その時、パタパタと誰かが廊下を走る音が名前の耳に届いた。その音はどんどんこちらへ近付いてくる。もしかしたら一佳かもしれない、と名前は思い身を固くした。あんなに酷い態度を取っておいて尚彼女が追いかけて来てくれることを期待している自分に嫌気がさした。足音がすぐ側で止まる。名前はギュッと目を瞑った。

「名前」

鼓膜を揺らした声の持ち主は期待していたその人で、思わずスカートの裾を握る手に力がこもった。

「なんでこんなところで蹲ってるの、ほら立ちな」

顔をあげればきっと自分に差し伸ばされる手があるだろう。しかしその手を取ることは叶わない。名前は唇を引き結ぶと視界に映る床のタイルの溝をただ眺める。顔をあげる様子のない名前に彼女を追ってきた拳藤は眉を下げた。

「名前」
「……」
「……参ったなこりゃ」

拳藤はそう呟くと名前と同じくしゃがみ込んだ。そして彼女を覗き込むようにして再度言葉を投げかける。

「名前どうしたの?私らも早く避難しないと」
「……」
「何かあったなら話してよ。そんなふうに黙ってちゃ私には何も分からない」
「……一佳は、」
「うん?」
「一佳はどうして私に、そんなに良くしてくれるの?」
「え?」

俯いたままやっと声を発した名前の言葉に拳藤は首を傾げた。そしてさも当然とでも言うかのように続ける。

「だって友達だろ?」
「……友達」
「当たり前のことだから特別良くしてるってつもりはなかったな。まあ確かに、なんだか放っておけないっていうのはあるかも、名前は。見てて危なっかしいっていうか、不器用っていうか、とにかくお節介を焼きたくなる」
「……」
「名前、顔をあげてよ」

諭し、導くような拳藤の声色にも名前はただ肩を震わせるだけだった。怖いのだ。人の表情をよく観察しているつもりでいて、しかし自分に都合の悪いところには全く目を向けていなかった。そのことに気付いてしまったから名前は拳藤の顔を見ることができない、怖くてたまらない。

「なあ、名前……どうしちゃったんだよ」
「……」
「黙ってちゃ分からないって。それとも私、お節介が過ぎたかな?でもな、名前が迷惑だって言おうが私は名前に構うぞ。ここで名前を一人にして、それでこのわだかまりが解けないままだときっと私も名前も後悔するから」
「一佳……」
「話してよ、何か心につっかえてるものがあるんだろ?」

名前は逡巡し、やがて薄く開いた唇から声を絞り出した。

「……苦しいの。これが何かは分からないけど。さっき食堂で一佳の手を避けてしまってから、一佳の傷ついた顔を見てから、ずっと苦しくてたまらない。私、人に触れられないの、個性のせいでトラウマがあって。だからあの時咄嗟に身を引いてしまった。一佳なら大丈夫だと思うのに実際に手を伸ばされると頭で考えるより早く体は動いてしまった」

声はか細く震えている。しかし糸のようなその声は確かに拳藤の耳に届いた。彼女は「そうか……」と言い少し考えるとまた口を開く。

「名前が私のそういう顔を見て『苦しい』って思ったならそれは、名前が私の表情を見ることで私以上に傷ついたってことだろうな。……ごめんな」

名前は拳藤の言葉を呑み込むとバッと顔を上げた。そして「それは違う」と抗議する。

「一佳が謝ることじゃない。一佳が謝るのは違う。それに私が優しいっていうのも違う。私は自分勝手なだけ」

突然顔を上げてまくしたてる名前に拳藤は呆気にとられた後困ったように眉を下げて笑った。それから人差し指を立てて名前の顔にそれを向ける。

「やっと顔を上げたと思ったら。そんな顔しないでよ」
「……私、今どんな顔をしているの」
「すごく泣きそうな顔してる」

そう言うと拳藤は立ち上がり名前へ手を差し伸べる。その手を見つめ困惑の色を浮かべる名前に拳藤は「自分で確かめてみなよ」と洗面台の鏡を指さした。

「でも私は、」
「ああ、無理はしなくていいよ。でもさっき『一佳なら大丈夫だと思う』って言ってくれただろ?だからこれはまあ私のエゴっていうか、この手を取ってくれたら嬉しいな」

グローブをはめた手が居場所を求め空宙で行ったり来たりを繰り返す。やがてそれが拳藤の掌に重なると名前は力強く垂直方向へ引き上げられた。よろめきながらも立ち上がる。グローブ越しに確かな人の熱が伝わってくる。その感覚がなんともむず痒かった。

「やったじゃん名前触れたよ!あ、でもさっき以上に泣きそうな顔」
「う……一佳……」

鏡を見ればなるほど確かに。自分でも見たことがない表情をした少女がそこにいた。涙を堪え顔を歪めるその様子はある意味とても人間らしく、少なくとも感情のない人形のようだと揶揄されてきた少女の面影は何処にもない。

「こんな顔、自分でも初めて見た……」
「名前表情変わらないからな〜、でも今は感情剥き出しって感じだ」
「うん……あの、一佳。もう手離していい?」
「あ、ごめんな」

拳藤の手に包まれていた名前の手が解かれる。名前はあれだけ怖かったはずなのに離れていく温もりに何故か名残惜しさを感じた。

「触れても名前平気だったよな?トラウマ克服できたのかな」
「ううん、全然平気じゃなかった。心臓の音がうるさくて。でも、嫌でもなかった。なんでだろう」
「まあ、私は何より名前が笑ってるからそれでいいよ」
「え?」

名前は自分の顔にぺたぺたと手を当て始めた。どうやら笑っていた自覚がないらしい。その様子に拳藤はたまらなくなり吹き出した。

「あはは、まあ、まだ泣きそうな顔でもあるけどな」
「どっちなの」
「ふふ、とりあえず避難しよう。もう警報は鳴ってないっぽいけど状況を確認しなきゃ」
「あ……ごめん、私のせいで」
「そういうのは後だ。いいから行くぞ、ほら」

拳藤が名前の手をひいて歩き出す。今度は反射的にその手を避けることはなかった。「恥ずかしいよ」と抗議はしたが拳藤に「慣れないと克服できないぞ」と笑い飛ばされてしまった。

「一佳の手、大きいね」
「そうか?個性のせいかな。なんにせよちょっと照れるな」

廊下に出ると辺りに人の気配はないが教室がある方向からは人の声や足音が聞こえる。

「あれ、おかしいな。誤報だったのか?」

とりあえず教室の方へ歩いていると二人の背中を「オーイ!」と呼び止める少し暑苦しい声があった。振り返ると鉄哲がこちらへ走ってくるのが見える。

「こら、廊下を走るな」
「イテッ、なんだよ俺ァお前ら探し回ってたんだぞ!全然見つかんねえしどこいってたんだよ!」
「あー、それは、」

正直に答えると女子トイレだが、二人して女子トイレにいたとはこの男にはなんとなく言いづらい。「まあいいじゃん」と拳藤が鉄哲を宥める。

「それより警報は?」
「マスコミが原因らしいぜ。アイツらが雄英バリアをくぐったんだと。ほら、朝から取材で学校の外にたくさん来てただろ」
「あー、いたなあ。オールマイトが雄英に就任したからその取材をさせろってやつだろ」
「私それ知らない」
「名前は登校が朝早すぎるからな」
「つーわけで生徒らはいつも通り行動しろって訳だ。5限も予定通り開始らしいからそろそろ時間やべーぞ」

マジか、急がなきゃな、と拳藤が歩き出す。それにつられて名前も歩を進めると鉄哲が名前の横に並んだ。

「苗字……その、なんつーか、もう大丈夫なのかよ?」
「うん。もう平気。心配かけてごめんなさい」
「おう、ならいいんだけどよ」

鉄哲も心配してくれていたんだな。そう思うと名前は周りに迷惑ばかりかけているような気がして自分が情けなかった。仮にもヒーロー志望なのにまだまだ精神的に未熟だ。しかし逆に言えば今回そのことに気付けたのだ。これを反省して成長していけばいい。そのためにまず緑谷と爆豪に謝らなければいけない、と名前は思った。緑谷の優しさに甘えていたこと、爆豪にきちんと向き合っていなかったこと。きっと二人はいきなり謝られても何の事だと思うだろうが謝らなければ名前の気が済まなかった。出久は話が出来るとしてかっちゃんは私の話に聞く耳を持ってくれるだろうか、という不安が名前の頭をよぎった。

「つーかオメーらなんで手ェ繋いでんの?」
「いいだろ〜!鉄哲がいない間名前と私は友好を深めたんだよ〜!な!名前!」
「うん」
「お、おう。そうか」

若干引き気味の鉄哲に気付かず少女はぼんやりと考えていた。こういう些細なやり取り、取るに足りない時間に最近よく胸がいっぱいになる、と。この感情の正体はよく分からないけれど、これを大切にしていきたい。きっと大切にしていいものだし、するべきものだ。

「(今日はタイミングを逃してしまったけれど、二人には近々個性のことを話せるといいな)」