森閑たる教室

「髪をもっとよく見せて欲しい……ですか?」
「うん」

名前は頷くと「嫌ならいいの。変なお願いをしているのは分かってる」と付け足した。そう言いながらも好奇心に胸を躍らせる子供のような輝きがその目の奥で微かに見え隠れしている。それに気付いた塩崎は少し驚いてそれからふふっと微笑むと「いいですよ」と答えた。

「いいの……?」
「はい、どうぞ」

慈愛に満ち満ちている、と形容するべきか、そんな塩崎の微笑につられて名前も緩やかに目を細めた。

「えっと、じゃあそこに座ってて」

名前は塩崎に彼女の席へ座るよう促すと、スケッチブックと鉛筆を取りに小走りで自分の席へ戻る。少し慌てた様子でガサガサと大量の鉛筆の中から数本を選んでいる名前の背中を塩崎は優しく見守っていた。程なくして名前は塩崎の元へ戻ると「私のことは気にしないで好きなことしてて」と言い、塩崎の髪を観察し始めた。

「……やっぱり塩崎さんのツルは薔薇にいちばん近いのかな……つる植物は棘をつけるものも多いから……その場合の棘の役割は周囲の物に棘を引っ掛けて生長するためだから……うん、敵を捕縛するために使うとして理にかなってる……」

何やらブツブツ呟きながら名前はスケッチブックに鉛筆を走らせている。正直無理がある、と塩崎は思った。いつも朝そうしているように授業の予習をしようと教科書を取り出してはみたが、なにせすぐ近くに名前の顔があるのだ。ただでさえ存在感の強い彼女を気にするなというのは難しい。とてもではないが予習に集中できそうになかった。

「あの……苗字さん」
「あ、ごめんなさい。うるさかった?」
「いえ……せっかくなので少しお話しませんか?スケッチは続けてもらって構わないので」

塩崎は教科書を閉じると真っ直ぐ前を見てそう言った。彼女の背後で立膝をついて髪を観察していた名前はその申し出に数回瞬きをした後彼女の横顔に目を移した。

「うん。お話しよう」
「ではお聞きしたいのですが、苗字さんはいつ頃から絵を描き始めたのですか?」
「……物心ついた時から、かな」

鉛筆を動かす手を止めることなく名前は答えた。鉛筆の芯が摩耗する小気味良い音が清閑な空気の満ちた教室に響く。

「まあ。それはお上手なはずですね。それからずっと続けてきたのですか?」
「うん。小学生のときは休み時間になるといつも一人で絵を描いていたし、中学でも美術部だったよ。毎日放課後は一人で絵を描いてた」
「他に部員はいなかったのですか?」
「いたけど幽霊部員。ほとんど顔は出さなかった」

今思うとあれは多分私を避けていたんだろうな、と名前は心の中で呟いた。そんな名前の胸中を見透かしたかのように塩崎は静かに「寂しくはなかったのですか?」と言った。名前の口から「え……」と声が漏れる。塩崎の表情は後ろから伺えない。

「私は……絵なんてどうせ一人で描くものだから、それでもいいと思っていたけど、でも」

そこで言葉を切る。鉛筆を走らせる手を止めて塩崎を見上げた。相変わらず顔は見えないが塩崎は静かに名前の言葉を待っているようだった。

「こうやって誰かと話しながら描くのも、楽しいね」

その言葉を聞いた塩崎はゆっくり名前を振り返ると柔らかく笑ってみせた。

「それなら明日からもこうしてまた私とお話してください」

名前が孤独に慣れてしまっただけの普通の少女だということに、塩崎はおそらく今までの会話で気付いていたのだ。名前は瞬きを繰り返してそれから「うん」と頷いた。仄かに頬を色付かせ年相応の少女らしい笑みを浮かべながら。

「君たち……何してるの?」

好きなもの、習慣、学校について、二人は静かに語り続けた。そんな少女たちの穏やかな朝のひとときに気怠げな声が投げ込まれた。声の方を見れば物間が訝しげな表情で教室の出入り口に立っている。彼の表情も最もだ。クラスメイトがクラスメイトの髪を観察しスケッチしているという怪しげな光景が教室に入って真っ先に目に飛び込んできたら誰だって不審に思うだろう。

「物間さん、おはようございます」
「物間くんおはよう」
「え……あ、うん、おはよ」

何を不審がられているのか分からないといった様子で挨拶をした二人に物間は口角を引き攣らせた。

「苗字はともかく優等生の塩崎まで何してんの……」
「私は苗字さんのお手伝いをしています」
「物間くんが来たってことは、もうこんな時間か」

呆れたとでも言うようにわざとらしく溜め息をつく物間をよそに名前は教室の時計を見上げた。それから軽くスカートをはたきながら腰を上げ「今日はありがとう」と塩崎に頭を下げる。

「いえ、それではまた明日」
「うん」

柔らかくくだけた雰囲気の二人に物間は首を傾げた。昨日まで、この二人はこんなに仲が良かっただろうか。特に苗字名前は拳藤と鉄哲以外との交流がほとんどないはずだ。彼の頭はそう記憶している。

「ふーん……」

物間は意味ありげに目を細めると、いつもより少しだけ浮き足立った名前を一瞥して自分の席へ向かって行った。





B組の学級委員長が拳藤一佳に決まった。
ホームルームにて、教卓に立ちB組生徒全員の前で挨拶をする拳藤を名前は自分の席から見つめている。明るく快活にハキハキ話すその姿は既に学級委員長という役職が板についているように名前の目には映った。

「おい、……おい、苗字」

こそこそと小声で名前を呼ぶ声がある。ゆっくり隣を振り返ると声量につられたのか身を小さくしている鉄哲がいた。名前は黙ったままじっと彼を見つめ次の言葉を促す。

「オメェ拳藤に入れただろ、票」

鉄哲は内緒話をするように口元に手を添えそう言った。少しだけ目を見開いた名前は「うん」と答えた後「どうして分かったの」と問う。

「苗字には一票も入ってないからな」
「どういうこと?」
「大抵の奴は自分で自分に票入れてんだよ。だからほとんどの奴が一票入ってるだろ。つまり一票も入ってない奴は必ず他の誰かに入れてることになるんだよ」
「そうなんだ」

名前は驚いた。そもそも学級委員長なんて普通の学校では皆が皆やりたがらない。まして自分で自分に票入れるなんて有り得ない。改めて自分が入学した学校、この雄英高校は普通ではないのだと実感した。

「でもなんで一佳に入れたって分かったの」
「そりゃオメーが拳藤にべったりだからだよ」
「べったりって……私そんな風に見えてるの」
「まあな」

確かに自分には人に依存するきらいがあるかもしれないと名前は思った。なにせ緑谷に幼少期から今までおんぶにだっこだったのだ。母親からは散々出久くん離れしなさいと言われてきた。疎遠になり恐らく嫌われている爆豪に対してさえ諦めきれない思いがあるのも一種の依存なのかもしれない。そんなことを考えながら無表情のまま固まってしまった名前に鉄哲は「お、おい。大丈夫か苗字?なんか難しく考えてねえか?」と声をかける。

「大丈夫」
「ホントか?なんか変なこと言っちまって悪かったな」
「ううん。多分本当のことだし。でも、」

名前は鉄哲の三白眼を覗き込んだ。話をする時相手の目をじっと見つめる、彼女の癖だ。その癖にももう幾分慣れてきたはずなのに鉄哲はたじろいだ。鋭い鉄哲の瞳が丸くなる。

「誰に入れるか、迷ったんだよ。鉄哲も候補だった。あと物間くん」
「お、おう?マジか!?」
「まじ」
「なんか嬉しいな!てか物間も?苗字アイツのこと苦手なんじゃなかったのかよ」

鉄哲のストレートな物言いに名前は少し間を置いて「知ってたの?」と返す。物間に苦手意識を抱いているのは確かだがもしかして態度に出ていたのだろうかと首を傾げた。

「俺でも見りゃわかるくらい態度に出てたぞ、昨日の演習訓練で」
「……気を付ける」

あの演習訓練は仕方がないと名前は困ったように眉を下げた。そのとき「おい、そこの二人!私語厳禁!黙らないと他の委員に指名するぞ!」と声が投げかけられる。名前はビクッと肩を揺らして口を噤み、鉄哲はヤベッと言ってピンと背筋を伸ばした。声の主である拳藤はそんな二人の反応を見て「それでよし」と笑うと委員決めを進行していった。

「(他の委員決めもするなんて。早くしないとA組のホームルームが終わってしまう)」

名前の胸に小さな焦りが生まれた。委員決めの内容は全く頭に入ってくることなく一刻も早くA組に向かいたい気持ちで一杯になる。一佳には悪いけど早く終わらないかな。そう思いながら目を瞑った。名前の願いが届いたのか案外スムーズに委員決めは進んでいった。

「鉄哲、先に帰るって一佳に言っておいて」
「おう、いいぜ。じゃあな」
「また明日」

解散の挨拶と同時に名前は鉄哲に言伝を頼んで教室を飛び出した。

「(かっちゃん、もう帰ったかな)」

膨らむ不安と緊張を振り切るように少女は髪を靡かせ隣の教室、A組に急いだ。