髪を靡かせやってきた少女は開け放たれた教室の扉に手をついて中の様子を伺う。そこに生徒の姿はほとんどなかった。以前HRを覗いた時に確認した幼馴染み達の席、一番奥の列の真ん中辺りに目を向けるがそこに爆豪の姿も緑谷の姿もない。間に合わなかったか、そう思った時だった。
「あれ?名前ちゃん!」
名前の視界に笑顔の麗日がひょっこり顔を出した。後方の扉のそばの席で座って何か作業をしていた彼女に爆豪を探すことで必死だった名前は気付かなかったらしい。机に目を移せば学級日誌が広げられていた。麗日は暖かな陽だまりのような笑顔で「なになに?A組に用かな?あ!もしかしてデクくん!?」と名前に尋ねる。
「ううん、今日は出久じゃないの。お茶子ちゃんは日直?」
「え!違うんだね。私は日直だよ〜これ書き終わるまで帰られへんの〜。ご覧の通りデクくんだけじゃなくて皆もう帰っちゃったよ」
机にうつ伏せながらそう言った麗日に頷いて名前は再び教室をぐるりと見渡した。麗日の他に教室にいるのは黒板を掃除している少年と後方の席で本を読んでいる少年だけだ。名前は黒板を掃除している少年の後ろ姿をまじまじと見つめた。彼の腰あたりから動物の尻尾のようなものが肩に向かって伸びていたからだ。おそらく彼の個性だろう。そうしていると少年が黒板消しを置き振り返った。目と目が合う。驚いたのか肩を揺らした彼に軽く会釈して名前は麗日に向き直った。
「HRっていつ終わった?」
「え?うーん、15分くらい前かなあ」
15分。走って追いかけても恐らく追いつかないであろうその時間に名前は肩を落とした。そんな名前を見て麗日が首を傾げる。
「名前ちゃん、デクくんじゃないなら誰に用があったん?」
「今日はかっちゃんに会いたくて」
「え!爆豪くん!?」
麗日はまん丸な瞳を更に丸くして驚いた。その表情がとてもかわいらしく思えて名前はくすりと笑みをこぼしながら頷く。
「ば、爆豪くんなら走って追いかければ間に合うかも!」
「え?」
「今日のヒーロー基礎学で爆豪くん怪我したみたいなんだけどずっとそれを隠してたんよ。でもさっきのHRで相澤先生にそれを見抜かれて男子三人くらいで爆豪くんを保健室に連行していったから……」
麗日はそこで一旦言葉を切ると両手でぐっと握りこぶしを作り神妙な面持ちで「頑張ってね……!」と言った。そんな麗日に名前はまた小さく笑った。窓から滲み出た茜色が少女の微笑みをなぞる。
「ありがとう。じゃあまたね」
「うん!ご武運をー!」
A組の教室を後にした名前の背中に麗日が大きく手を振る。そのとき、それまで一度も本から顔を上げなかった少年が教室の隅で僅かに顔を上げた。左右で色の違う前髪から覗くオッドアイが名前の後ろ姿を追う。すぐにその後ろ姿が見えなくなるとまるで興味がないといった様子で再び手元の本に目を落とした。
「麗日さん、こっちは終わったよ。日誌はどう?」
「え?うわああ!名前ちゃんと喋ってたから日誌進んでない!ごめん尾白くん!すぐ終わらせるから!」
「焦らないでゆっくりでいいよ」と尾白は困ったように笑い、麗日は「ありがとう〜〜」と眉を下げた。そうして再び日誌に取り掛かろうとした麗日は何かを思い出したように「あっ」と声を上げ教室の隅を振り返った。
「私が日誌書き終わったら戸締りするけどそれでも大丈夫?轟くん」
轟と呼ばれた少年はやはり顔は上げずに「ああ」とだけ返事をする。活字を追う端正なその横顔にはどこか影があった。
*
校舎を出た名前は人目も憚らず走った。先ほど立ち寄った保健室でリカバリーガールから言われた「さっき帰ったよ」という言葉が頭の中をぐるぐる回っている。校門もとい雄英バリアをくぐり曲がったところではるか前方に爆豪の後ろ姿を見つけた。爆豪の他に三人の男子生徒が彼を取り囲み歩いており、なるほど彼らが麗日の言っていた人たちだろうと思い当たる。恐らく彼らが爆豪に構ってくれているおかげで本来ならさっさと帰ってしまいそうな爆豪が足止めされ追いつくことが出来た。しかしそれと同時にああも囲まれていては彼らの時間を邪魔するようで爆豪に話しかけるのは憚れる。小走りで彼らとの距離を詰めながらどうしたものかと名前は思案した。
「(あ……私かっちゃんと帰る方向同じなんだからかっちゃんが一人になってから話しかければいいんだ)」
いつの日かの帰り道を思い出しながらそう思い至った名前は彼らから少し離れたところで足の速度を緩めた。一定の距離を保ちながら後ろから様子を伺う。よく見ると爆豪の隣を歩いているのは先日A組の教室にお邪魔した時に話しかけてきた金髪の少年だ。名前を庇ってくれた赤髪の少年もいる。
「(……メッシュの人だ。名前、なんて言ってたっけ)」
拳藤からも指摘されたことだが名前は人の名前を覚えることがあまり得意ではなかった。中学時代人と交流することがなかったために生まれた弊害の一つだ。なにせ当時は人の名前を覚える必要性がなかったのだ。しかし今となってはそうも言ってられない。
「(そもそも人の名前を覚えないって、相手に対して失礼だ……)」
いたたまれない気持ちになりながら少年達の後ろ姿を見つめる。そうしているとある違和感に気づいて名前は足を止めた。思わず「あれ……?」という言葉が口をついて出る。目の前では幼馴染みがクラスメイトと肩を並べて歩いている。頭の中では中学時代の記憶がフラッシュバックしていた。
中学時代、爆豪の周りにはいつも取り巻きの男子生徒がいた。あくまで彼らはただの取り巻きであり爆豪にとって友人と呼べる存在ではないのではないか、疎遠になってしまった幼馴染みの後ろ姿をこっそり目で追いながら名前はいつもそんなふうに感じていた。
それが今、目の前を歩く彼はどうだろう。何を話しているのかは分からないし、たまに見える横顔は相変わらずヴィラン顔負けの凶悪さで何かに怒っているようだけれど、名前の目には以前よりよっぽど友人らしい付き合いをしているように映った。恐らくその関係が対等に見えたのだ。以前の爆豪の人付き合いを悪く言う訳ではないがこの方がずっといいと名前は思った。
それからしばらく距離を置いて彼らの後ろを歩きながらそのやり取りをぼんやり眺めていた。メッシュの少年が何かを言うと爆豪が目を釣り上げて何か言い返す。それを赤髪の少年と背の高い黒髪の少年がまあまあといった様子で間を取り持つ。一方的な圧で支配するのではない、対等なそれに名前は目を細めた。自分を取り巻く環境が変わったのと同じように爆豪もまた新たな環境で新たな人間関係を築き始めたのだ。それに気付けたことが何故か嬉しくてたまらなかった。
もう少しで駅に着く。話しかけるのは電車を降りてからになるかな、そう考えていた名前の思惑はこの直後あっけなく打ち砕かれた。なんの前触れもなくメッシュの少年、上鳴電気が後ろを振り返ったからだ。表情にこそ出ないが名前の心臓は飛び跳ねた。反射的に足を止めたが、ただでさえ目立つ名前が十数メートルの距離で気付かれない方がおかしい。案の定上鳴は「おー!名前ちゃんじゃん!」と名前に手を振った。他の三人もつられて名前を振り返る。爆豪は目を見開いた。ギロリと自分に向けられた夕陽よりも深い赤に名前の背筋が伸びる。とりあえず四人に軽く会釈すると切島が「あの子って確か爆豪の、」と言い瀬呂が「幼馴染みだよな、しかも学校中で噂になってる子」と続けた。二人の言葉に爆豪は舌打ちする。かたや立ち止まったままの名前を不思議に思ったのか「名前ちゃんも今帰り?」と上鳴が名前に近付いてきた。
「いやーなんかさっきからやけに通行人から視線感じる気がすんなーって思って振り返ったら俺らじゃなくて名前ちゃん見てたんだな。振り向いてビンゴだったわ!」
「えっと……」
「あ、今帰りなんだよな?この後ヒマ?よかったら俺と、」
「おいアホ面。そいつを相手にすんな」
いつの間にか名前と上鳴のすぐそばまで来ていた爆豪は冷たくそう言い放つと踵を返して歩いて行く。「おいおいそりゃねーだろ!幼馴染み相手に冷たすぎねえ!?」と喚く上鳴を切島が「いやお前は馴れ馴れしすぎんだろ。苗字、だっけ?見るからに困ってたぞ」と宥めた。名前はそんな二人を尻目に爆豪の遠のく背中を追いかけ手を伸ばす。「待って」という言葉と共に伸ばされたその手は彼の制服の袖を掴んでいた。そう、まるでいつかの秋の帰り道のように。
「あ〜……これは俺たちお邪魔なヤツだな」
瀬呂が薄く含み笑いを浮かべながらそう言った。彼はぽかんと呆けている切島と上鳴の肩に手を置くと名前を振り返って固まっている爆豪へ更に言葉を投げかける。
「じゃ、俺たち別ルートで帰るから苗字さんをしっかり送ってやれよ爆豪」
「……ア!?待てコラてめぇら!付いてくんなっつってもしつこく付いてきやがったくせにいきなり意味分かんねー理由で逃げんじゃねえ!」
「逃げるんじゃなくて気を遣ってんの」
「え〜俺名前ちゃんと放課後デートしてえんだけど」
「はいはい上鳴は黙ろうな」
瀬呂は上鳴と切島を連れて踵を返した。どうやら元来た道を戻るつもりらしい。方向転換するその一瞬、目が合った瀬呂に名前は頭を下げた。「頑張れよ」と目で合図を送ってくれたような気がしたからだ。三人に向かって怒鳴り声を上げている爆豪の隣で名前も彼らの後ろ姿を見つめる。
「(私がかっちゃんと話したがってるってあれだけの仕草で見抜いてくれたのかな……すごいな)」
名前の脳内の「いい人」というカテゴリーに瀬呂の顔が記憶された。次に会ったときには名前を聞こうと心に決めていると荒々しい怒声が名前の鼓膜を貫いた。
「てめぇいい加減離しやがれ!だいたい何の真似だこれはァ!?」
彼らしいと言えば彼らしいのだが爆豪の言動の荒々しさはあまりに容赦ない。「耳元で大きな声を出さないで……」と名前は顔を顰めた。それでも制服の袖を離しはしなかった。名前の反応に爆豪は蟀谷をひくつかせる。
「てめぇが手ぇ離しゃそれで済む話だろうが……」
「……」
まるで噴火前の火山のような静けさでそう言った爆豪を名前は黙ってじっと見つめる。本当に嫌なら手を振りほどけばいい。爆豪は平気でそれができる人間のはずだ。それをしないという事は聞く耳を持ってくれるかもしれないと赤い瞳を覗き込みながら考えた。
「オイ何か言いやがれコミュ障」
「……かっちゃん」
名前は手を離すと爆豪に向かって頭を深々と下げた。夕陽に映える髪が一筋、はらりと肩から落ちた。
「私の話を聞いてください」