「栄養失調だね」
「……え?」
清潔感のある白い空間。保健室で椅子にちょこんと腰掛けたリカバリーガールは「栄養失調だよこれは」と再度言い放った。その向かい側に座っている名前と、彼女の傍に立っている鉄哲はいまだ頭上に疑問符を浮かべている。
「ちゃんと食べてるのかい?ヒーロー目指すなら自己管理しっかりしないとやってけないよ」
「いや待ってくれリカバリーガール!苗字は個性使った日めちゃくちゃ食べるんスよ!それなのに栄養失調って信じられねえっていうか……!」
「おやそうなのかい。でもたとえちゃんと食べてようが偏った食べ方をしてると栄養不足になってしまうことはあるよ」
名前の代わりに口を開いた鉄哲はまだ納得していない様子でリカバリーガールに食い下がる。
「弁当五人前くらい食べたあと休み時間になる度おにぎり食べるんスよ!?それでも栄養不足って言えますか!?」
鉄哲の言葉に名前は恥ずかしさのあまり穴があったら入りたい……と顔を伏せた。彼はただ善意で、あまり多弁ではない自分の代わりに事実を述べているだけだと理解はしていたので顔を赤くして羞恥に耐える。
「それに私の母は昔から健康面にうるさくて……私を生んだ後管理栄養士の資格をわざわざ取ったくらいなので、……栄養失調なんてことは有り得ないと思うのですが……」
「ふむ……それは妙だね。まあ兎に角そこのベッドに横になりなさいな。点滴を打ったげるからね」
「治癒の個性つかわないんスか?」
「私の個性は治癒能力を活性化させるだけだよ。栄養不足を補えるものじゃあないのさ」
「なるほど……?」
このキョトン顔は絶対分かってないな……と思いながら名前はベッドへ移動するのを鉄哲に手伝ってもらった。リカバリーガールは手際良く点滴の準備を進め名前に処置を施すと「頑張ったね、さあラムネをお食べ」と市販のシリンカムイお菓子のケースを振る。名前の手のひらにポロっとかわいらしいラムネが躍り出た。「はい、そっちの子もよくこの子をここまで運んできてくれたね。ラムネをあげよう」「あ、どもっス!」という二人のやり取りを聞きながら口にラムネを放り込む。口の中いっぱいに甘酸っぱい優しい味が広がった。
「これで少しは良くなるといいけどねえ」
「栄養失調でここまで動けなくなるもんなんっスか?」
「いや、やはり少し異常だね。大方個性が原因だろう。さっき『個性を使った日はよく食べる』と言っていたね?他にも今まで身体が休息を求めてるといった感じになったり……そうさね、具体的に言えば眠くなったりすることはなかったかい?」
リカバリーガールは穏やかな声色でそう問いただす。名前はベッドに横になったまま「はい、ありました」と頷いた。「やはりね」リカバリーガールが目を細める。
「おそらく君の『命を与える個性』は無限ではないのさ。正しく言えば『生命力を分け与えている』んだろうね。使えば使うほど君自身の生命力が磨り減っていくんだよ」
鉄哲が静かに息を呑んだのが分かった。名前は「ああ、一年生に関わる全ての職員に私の個性が伝えられている、と校長先生が話していたのは本当だったんだな」と実感しぼんやり白い天井を見つめた。命を与える。それが名前の「個性」だ。しかし先程リカバリーガールが指摘したようにこの個性はそう表現するには言葉足らずであり、その足りない部分が名前を苦しめていた。
「命を与えるって、それってつまり、えっと、どういうことなんだ?」
「おや、個性のこと話してなかったのかい?そりゃ悪いことをしたね。確かに内密にするよう取り決められていたけれど、君はこの子に気を許しているようだし話をしているものだと思っていたよ」
「え!聞いたらマズイことだったんスか!スマン苗字!」
名前に謝る二人に対し名前は慌てて首を横に振った。
「いいんです。鉄哲……それともう一人の友達には個性のこと、話そうと思っていたから。ただ、改めて話すのもおかしい気がしてなかなか言い出せなくてずるずる先延ばしにしてしまって……。これがいい機会なのかもしれません」
名前はそう言って掛ふとんを口元まで引き上げた。急に不安になってきたのだ。しかし名前の緊張をほぐすかのように「そうかい」と優しい声が降ってきた。
「秘密を知る者は少なければ少ないほど良い。けれどね、信頼のおける者がいるならば秘密を共有するのもいいだろう。きっとその人は君の精神的支柱になってくれる。いざという時にそういう人がいるかいないかで随分心持ちが変わるものさ」
ベッドの中、「はい……」と消え入りそうな声で名前は頷いた。それから鉄哲を見上げると同じく名前を見ていた彼と視線がぶつかった。
「鉄哲、私の話聞いてくれる……?」
「おう、もちろんだぜ」
「……ありがとう」
今日一番、いや今までの表情の中で最も柔らかい笑みを見せた名前に鉄哲の心臓は音を立てた。視線を宙に泳がせながらいやいや、そんなんじゃねえぞ、これは。と彼は自分に言い聞かせる。
「でも詳しい話は後でいいかな……なんだか急に、とても眠くなってきて……。昼休み、一佳を連れてまたここに来てくれると嬉しい……」
「分かった、今はゆっくり休むべきだぜ」
「うん……じゃあおやすみなさい」
名前はもう一度ふわりと微笑むと瞼を降ろしてしまった。年相応の少女特有のあどけなさが残る笑顔はまたしても鉄哲に衝撃をもたらした。だってあの苗字のこんな顔知らねえもん、俺。いや誰も知らないんじゃねえか?そんなことを考えながら彼はわたわたとリカバリーガールに向き直ると「じゃ、苗字を頼みます!俺はそういうことなんでまた後で来ます!」と言い残し返事も待たず一目散に保健室を出ていってしまった。静寂が訪れた白い部屋でリカバリーガールはたった今鉄哲が出ていった扉を見つめる。まるで微笑ましいものを見るような眼差しで。
「若いねえ……いい友人を持ったじゃないか、苗字名前」
*
懐かしい夢を見ていた。これは呪いだ、長年名前を苦しめ続けた記憶だ。感情のない人形のように固まりきった表情で自身の手のひらを見つめる幼き日の自分が目の前にいる。決別しよう、そして目一杯抱きしめて受け入れよう。その先に希望はある。
思えばずっと、出口の見えない暗いトンネルを歩いてきたような、そんな人生だった。一寸先さえ見えない暗闇が怖くて、手元にある幼馴染みという名の暖かい光を繋ぎとめることに必死だった、そんな十数年だった。しかし突然出口は現れたのだ。眩い光に包まれたそこへ引っ張り出してくれた、手を差し伸べてくれた人がいた。その手に救われた。そこへ来てみると手元の光の輝きにも気づくことができた。ああ、私は人に恵まれている。遠くで愛おしい人の声が聴こえる気がする。もっと近くで聴きたいな。ゆっくり瞼を持ち上げた。
*
見慣れない白い天井が目に映った。すぐそばで声が聞こえる。「どうする?わざわざ起こすのも名前に悪いよなあ」「でも起きるの待ってたら昼休み終わっちまうかもしれねーしよォ」ああそうだ、私が二人を呼んだんだった、そう思った名前は口を開いた。
「おはよう」
思ったよりよく響いた声に名前本人が驚いた。少しの休息で身体は随分回復したらしい。視界の隅で橙色のサイドテールが揺れた。
「名前!倒れたって聞いてめちゃくちゃ心配したんだぞ!?だからあれ程無理するなって言ったのに……」
「ご、ごめんなさい」
「さっきよりだいぶ顔色いいみてーだしもう大丈夫なのか?」
「うん、そうみたい。ありがとう鉄哲」
ベッドの脇まで駆け寄ってきた二人に名前は笑顔を見せた。
「リカバリーガールは?」
「お昼食べに行くってさ。多分私達に気を遣ってくれたんだと思うよ」
「そっか」
名前は上体を起こした。身体を自分で動かせることに安堵する。そこではたと自分がヒーローコスチュームを着たまま寝ていたことに気付いた。自分の格好を見て固まる名前に気付いたのか拳藤が「名前の着替えとあとお弁当、持ってきてるよ。今着替える?」と口を開いた。
「着替えたいけど点滴まだ続いてるし着替えにくいかも」
「じゃあリカバリーガールが帰ってきてからだな」
鉄哲がなんとも言えない気まずそうな表情をしていることに気付いた拳藤はニヤニヤしながら肘で彼を小突いた。「どうかしたの?」と首を傾げる名前に「なんでもないよ」と答える。
「それより名前、話って何?」
さすが一佳はずばっと切り込んでくるなあと名前は拳藤を見つめそして鉄哲に視線を移した。
「鉄哲、何も話してないの?」
「おう、一応苗字の口から伝えた方がいいだろうって思ってな」
「そっか、ありがとう」
名前は一度目を閉じた。瞼の裏に映る暗闇に先程の夢を思い出した。あの時、幼き日の自分からこう語りかけられた気がする。「受け入れてもらえるって本当に思ってる?」
「大丈夫だよ」
声には出さず口の中でそう呟いた。そして名前はゆっくり目を開いて静かに語り始めた。名前の真剣な眼差しに応えるように、拳藤と鉄哲も固唾を呑んで耳を傾ける。
「鉄哲にはさっき少しだけ話したけど、二人には私の個性のことを伝えておきたいんだ。こんなものを手につけているから何か訳ありなのかなっていうのは感じていたと思うけど……」
名前は右手で左手のグローブを撫でた。そしてこう続けた。
「先に言っておくと私は個性が発現したその日から父親に口止めされていたんだ。絶対に自分の個性を人に話さないようにって。その理由は分からないけれど私だって人に話したい個性ではなかったからずっとそれを守ってきた。でも雄英への入学が決まったとき父はこうも言ったんだ、『信頼できる友ができたなら個性のことを隠さず話しなさい。きっとこれからは名前の個性を知って尚支えてくれる仲間が必要だから』」
それから名前は雄英に入ってから校長先生と話した内容も二人に伝えた。個性の一部使用禁止を命じられたこと、名前の個性は一年生に関わる全教職員に伝えられ監視されていること、だからリカバリーガールもそれを知っていたこと。本題に入る前に名前は弱々しく微笑むと「重そうな話だなって、引いちゃった?」と二人に問うた。けれど名前を見つめる春の海のように穏やかなエメラルドブルーは「いいよ。続けて」と答えるのだ。名前はなんだか泣きそうになった。ぐっと熱くなる目頭を抑えた後、「私の個性は、」と精一杯声帯を震わせる。もう迷いはなかった。
「私の個性は『生命』、触れた物体に命を与え、命あるものからは命を奪う。リカバリーガールの言葉を借りるなら、自身を媒体に生命力の受け渡しができる個性。……雄英なら珍しくもないけれど、13号先生が言っていたように簡単に人を殺せてしまう力なんだ」
拳藤も鉄哲も思わず絶句した。名前が個性無効化グローブを日常生活で外せない理由、人から触れられることを恐れる理由、全てに合点がいったのだ。
「雄英から課せられた個性の一部使用禁止処置に相当するのは『奪う』方のことだよ。でも私は入学する前から『奪う』力を使うつもりはなかったし雄英の判断は正しいと思ってる。だって命を奪うなんてそんな力を使ったら私はヒーローどころか敵になってしまう。……人から触れられることを拒絶する理由もそういうわけなんだけど、こんなこと聞いたら一佳と鉄哲の方が私より怖くなるよね。生物に触れるだけで命を奪えてしまう人間がこんなに近くにいるなんて、」
「もういいぜ、苗字。無理すんな」
鉄哲の声が降ってきた。普段は少々荒々しい言動の目立つ少年のできる限りの優しい声色だった。だんだん俯き気味になっていた名前はその声が引き金になったのか一筋の涙を流す。そのとき、白い掛け布団と自分の腕しか見えていなかった視界に別の腕が伸びてきた。
「話してくれてありがとう、名前」
ひどく柔らかい声が少女の耳元でゆっくり鼓膜を揺らす。驚きのあまり名前は身体をこわばらせたが拳藤はそれに構わず名前の背中に腕を回して力いっぱい彼女を抱きしめた。火照った顔で「わ、……わ、」と口をパクパクさせ声にならない声を上げる名前。それを見た鉄哲が「お、おい拳藤!苗字めちゃくちゃ混乱してるぞ!」とオロオロしているが拳藤は腕の力を緩めない。激しく脈打つ心音が彼女に伝わってしまいそうだ。そもそもこのドキドキはなんなんだろう。怖いからだろうか、嬉しいからだろうか。分からないけれど名前は今この瞬間をとても愛おしいと感じていた。
「超常社会なんだ。文字通り『個性的』で色んな奴がいるさ。だからそんなに、自分で自分を腫れ物のように扱わないでくれ。私が悲しくなっちゃうよ」
そう言うと拳藤はやっと腕の力を抜き名前の肩に手を置いた。正面から真っ直ぐ見つめられる。目の前のエメラルドブルーをとても綺麗だと思った。
「決めた!ヒーローになる他にもう一つ目標ができた!私は名前に名前のこともっと好きになってほしい。もっと広い世界を知ろう。色んなものを見て色んな人に出会って交流して、そして自分のことを好きになろう」
白い歯を見せて快活に笑う拳藤に名前はまた泣きそうになった。涙を押しとどめて「ありがとう」と呟くことで精一杯だ。ぐすんと鼻を啜る音が聞こえる。二人が顔を上げると何故か鉄哲まで涙ぐんでいたので「なんでお前が泣いてんのさ」と拳藤は笑った。「だってよォ〜俺こういうの弱いんだよォ〜」と涙声で答える鉄哲に名前も小さく笑う。そのとき三人の背後から「もう話は済んだかい?」と声がかかった。
「リカバリーガール!いつからそこに?」
「さっきだよ。苗字さんや、君はいい友人を持ったね」
「はい、本当に」
リカバリーガールはうんうんと頷くとベッドの脇にある丸椅子にひょいと腰掛けた。そして「それじゃあ私の話も聞いてもらえるかな」と切り出す。
「話……?」
「君の身体のことだよ。直球に聞くけれど、君はあのまま『生命』の個性を使い続けたらどうなったと思う?」
「……?」
首を傾げる名前だが拳藤は何かに気付いたようでハッと息を呑んだ。
「もしかして……」
「おや、そっちの子は気付いたみたいだね。ちょいとばかし耳の痛い話になるけれどどうか覚悟して聞いて欲しい。憶測でしかないがあのまま無理を続けていたらおそらく死んでいたよ、苗字さん」
「死……!?」
名前本人よりも鉄哲が慌てふためく。一方名前は先程首を傾げていたが、どこか薄々勘づいていたのか慌てる様子はなく静かにリカバリーガールを見つめていた。その眼差しを、続きを促しているのだろうと受け取ったリカバリーガールは更に口を開く。
「生命力を分け与えているんだ。彼女の生命力が尽きれば当然死に至るさ。本来なら奪って与えることで成り立っている個性だからね。奪う方は使わずに与えてばかりいるとそういう状態に陥ってしまう。奪えない分の生命力の補給は彼女の身体が本能的に食事や睡眠で補っていたんだろうね。今回倒れたのは一定ラインの限界が来たと見ていい。君には辛い話だろうが私から言えることは、無理はするな。自分の限界を知って可能な範囲で自分のできることを探しなさい。これだけだよ」
拳藤と鉄哲は恐る恐る名前の様子を伺う。しかし名前は穏やかな表情で「そうですか、ありがとうございます」と言うだけだった。拍子抜けではあったが、強がりでも空元気でもなくただ現実を受け入れているのだろうと拳藤は直感する。それだけ「生と死」という概念は名前にとっていつも身近にあるものだったのかもしれないと思うと拳藤の心は微かな痛みを覚え、もう一度この少女を抱きしめてやりたいという衝動に駆られた。腕を伸ばして名前を自分の方へ引き寄せその艶やかな髪をわしゃわしゃと撫で回す。
「名前〜!」
「わ、どうしたの一佳」
「これから一緒に頑張ろうな!」
「う、うん。……でも、あの、一佳……」
「何?」
「これすごくドキドキするからやめてほしいっていうか……」
「!……このこの〜!かわいい奴め!」
「やめてってば」と言いながらも名前は小さく笑う。
「あ、名前。鉄哲が羨ましそうにこっちを見てるぞ」
「え?」
「け、拳藤!オメーまた適当なこといいやがって!そんなんじゃねえぞ!」
「素直になりなよ〜羨ましいんだろ?」
わいわいと盛り上がる三人を見守っていたリカバリーガールはそっと椅子から降りると「さて、ブラドキングに報告を入れておかないとね」と保健室を後にした。穏やかな昼下がり。閉まる扉の向こうでは未来ある若者たちが青い春を謳歌している。