今日何度目かの終業のチャイムが鳴り名前は目を覚ました。起き上がって辺りを見渡す。窓から射し込む光は僅かに赤みがかっているようだった。午後も随分と眠ってしまったらしい。いつの間にか腕に繋がれていた点滴の管もなくなっている。寝ている間にリカバリーガールが処置してくれたのだろうと思い至った名前は昼休みに拳藤が持ってきてくれた着替えに袖を通した後、おそるおそるベッドから足を降ろした。上履きを履き、ゆっくりと踵に重心を移して立ち上がる。何の問題もなくスっと自分の力だけで立ち上がれたことに安堵して胸を撫で下ろした。カーテンを開け顔を出すと「おや、起きていたのかい」とリカバリーガールが名前を振り返った。
「はい、あの、今何時ですか」
「ええと、16時20分。ホームルームの最中だろうね」
「そうですか。それではお世話になりました」
深々と頭を下げた後スタスタと扉へ向かっていく名前をリカバリーガールは慌てて引き止めた。
「待て待て。一人で大丈夫かい?途中でまた倒れられちゃ困るよ」
「平気です」
「そうかい、分かったよ。気をつけてね。ああそれと、これからは倒れる前に定期的にここへ点滴を受けに来なさい。とりあえず解決策を見つけるまで対症療法で対策するしかないからね。それと今回の件について早めに病院へ行くこと。分かったね?」
杖の先を名前の方に向け念を押すようにそう言ったリカバリーガールに名前は再び「はい、お世話になります」と頭を下げた。保健室をあとにした名前は「なんだか大変なことになってしまった」と溜め息をつきながらゆっくりと静かな廊下を歩いていく。やがてヒーロー科一年生の教室に続く階段に差し掛かると静かだったはずの辺り一帯が急に騒がしくなった。どうやら一年生の廊下が騒ぎになっているようだ。何かあったのだろうか、と名前は首を傾げる。階段を登りきり廊下を覗き込むと思わず「わ、」と声を漏らしてしまった。何事かと目を見張る。A組の教室の前に人だかりができていたのだ。それも廊下を埋め尽くすほどのかなりの人数だ。これではこの先にあるB組の教室へ行くことができない。その場に立ち尽くし頭を悩ませる。幸い廊下にいる誰もがA組の教室へ意識を向けており名前に気付いた者はいないようだ。学校内で悪目立ちしてしまっている自分がここに飛び込んでしまえば二次災害を呼んでしまうかもしれない。というか人に触れられない私はこの人の塊を避けるしかない。そう考えた名前は遠回りになるが下の階から回り込んでB組に向かおうと踵を返した。しかしその時聞き覚えのある一際大きな声が廊下に響いたのだ。
「オウオウ隣のB組のモンだけどよォ!敵と戦ったっつーから話聞こうと思ったんだけどよォ!えらく調子づいちゃってんなァ!オイ!」
名前は思わず足を止めて振り返る。そして「鉄哲?」と呟いた。目を凝らしてみると人だかりの中に見覚えのある銀髪を確かに見つけた。何に怒っているのかは分からないがものすごい剣幕だ。口ぶりからして相手はA組の生徒である。状況を把握しきれていないがとりあえず揉め事は良くないし友人が幼馴染みの在籍するクラスに向かって怒鳴り声を上げている状況を見て見ぬ振りもできない。そう考えながら名前の体は既に人だかりに向かって駆け出していた。「すみません、通してください」と自分に出せる精一杯の声を上げる。それでも決して大きな声ではなかったが振り向いた生徒はみんな驚き、飛び退くようにして道を開けてくれた。あっという間に人の波が割けて目の前に道が開けていく。名前は会釈をしながら鉄哲の元へ駆け寄った。突然人だかりを割って現れた名前に鉄哲もA組の面々も驚いてぽかんと口を開けているが「鉄哲を止めなきゃ」という使命感に駆られている名前はそれに気づかないまま彼に向き合う。
「鉄哲何してるの、揉め事はだめだよ」
「何ってそれはオメー……先に煽ること言ったのは向こうなんだからよォ!」
「向こう?」
目を釣り上げてそう言う鉄哲が指した方を見ればこれまたよく見知った顔がそこにあった。その相手も眉間に深い皺を寄せ怪訝な顔つきでこちらを見ている。目が合った瞬間、名前は揉め事の原因を大方察した。そして鉄哲を振り返り彼の腕を引っ張る。
「とりあえずB組に戻ろう」
「なんでだよ!俺はまだ納得してねーぞ!」
「でもここにいたらA組の人はきっと迷惑だよ」
名前は教室の中へ顔を向けると「ごめんなさい、この人は私が連れて帰るので」と鉄哲の腕を更に引っ張った。そのときすぐそこに緑谷と麗日がいることに気付いた名前は二人に微笑みかけたが緑谷はまるで信じられない物を見ているかのような目で顔を青くし、麗日も「あわわわ……」と声を漏らしおろおろしている。名前は二人の反応に微かに首を傾げながらもB組の教室へ向かって足を踏み出した。口ではああ言っていたものの鉄哲は抵抗する様子もなく名前についてくる。
「かっちゃんもごめんね」
名前が声をかけた相手は恐らく鉄哲と揉めていた相手である爆豪だ。返事の代わりに不機嫌そうな舌打ちが返ってくる。その態度はいつもの事だとさして気にも止めず名前はそのまま彼のそばを通り過ぎた。だから名前は気付くことができなかった。すれ違い際、彼女の後ろで爆豪と鉄哲が物凄い剣幕で睨み合っていたことに。
*
名前と鉄哲が立ち去ったあと、A組の教室及び目の前の廊下には妙な静けさが漂っていた。誰かがポツリと呟く。「モーセだ……」と。海を割って道を作ったという聖書のえらい人の名前だ。名前が人の海を瞬く間に切り拓いたことを例えたいらしい。本人がこの場にいたならそれは不遜なのでは?と首を傾げていたことだろう。一方、A組の教室ではいまだ扉の前に立ち尽くしたままの緑谷が顎に手を当てブツブツとなにやら独り言を漏らしていた。
「あの名前ちゃんが不敵な人と親しげにしていた……!?しかも彼に触れていたし、あの、人に触れられないはずの名前ちゃんが!一体どんな関係なんだ?友達ができたって言っていたし彼がそうなのか……?そういえば前に名前ちゃんを食堂で見かけた時も彼と一緒にいたような……?」
「ちょ、デクくん落ち着いて!」
緑谷のブツブツモードを止めに入った麗日も落ち着いているとは言い難い様子だ。
「いやあ、うん。でも驚くのも無理はないね。名前ちゃんの交友関係、謎や……。それにしても名前ちゃん私に気付いて笑いかけてくれたのにびっくりしすぎて反応できへんかった……今度会った時謝らんと」
麗日はそう言って肩を落とした。緑谷もハッとして「僕もだ……!」と顔を青くする。そんな様子を見ていた飯田が腕をぐるぐる回しながらこう言った。
「すごいな彼女は!人だかりに道を作ったのもそうだがとにかく人の心に強烈な印象を植え付けていく。もしかしてそういう個性なんだろうか!?」
「いや、どっちかというと名前ちゃんのお母さんがそういう個性で……」
そう言いかけて緑谷は言葉を詰まらせた。名前自身の個性を緑谷は知らない。それはしょうがないのだ、名前が隠してきた上に雄英に入ってからもクラスが別れてしまったのだから。しかしそれもこれまでの話で、もしかしたら体育祭で彼女の個性を知ることになるかもしれない。緑谷はそれでも構わない。むしろ研究熱心な緑谷は幼い頃から続けてきたヒーロー分析ノートにクラスメイトの記録もまとめ始めたくらいだ。謎に包まれていた幼馴染みの個性に興味がわかない方がおかしい。
「(でも、名前ちゃんはそれでいいのかな……?)」
そんな懸念が頭をよぎり緑谷は再び顎に手を当てて唸ることになるのだった。
*
同時刻、放課後のB組の教室に鉄哲の咆哮が響いた。
「A組の奴ら完全に調子づいてたぜ!体育祭も自分たちの独壇場になるって思ってやがる!敵と戦ったからっていい気になりやがってよォ!」
「マジかよ、俺たちなんて眼中にないってか!」
「メディアにも持ち上げられてるから調子に乗ってんだろうな」
鉄哲に続き円場と泡瀬がそう言った。放課後にも関わらず教室には大半の生徒が残っておりA組の様子を見てきた鉄哲の話を聞こうと彼の周りに集まっている。
「だからそれはかっちゃんが……A組の人みんながそうってわけじゃないはずだよ」
名前はそうA組を擁護しようとしたがスッと生徒の輪の中から一歩前へ歩み出た人物にそれを阻まれた。
「あれえ?誰かと思えばヒーロー基礎学で倒れたはずの苗字じゃないか。放課後になってやっと帰ってきたかと思えば調子づいてるA組の片棒を担ぐんだね?君、B組への所属意識薄いんじゃない?クラスメイトとして悲しいなあ」
「おいおい、そんな言い方ないだろ物間。名前は一生懸命頑張っただけだ。ただ自己管理が上手くできなくて今回は倒れるまで無理しちゃったんだよ。次から気を付けるさ。それにA組を庇ってるのだって無用な争いを避けたいだけだろ」
「拳藤がそうやって苗字を甘やかすから苗字がますます拳藤にべったりになるんだよ」
肩をすくめやれやれといった表情でそう言う物間に拳藤はムッと顔をしかめる。
「とにかく、だ。A組がどうこう関係なく私らは私らの最善を尽くさないと。体育祭は雄英で学んでることを発揮するための場だろ。それを他クラスへの当てつけに利用するのは違うんじゃないか?」
拳藤の正論に誰もがぐうの音も出なかった。頭に血が上っていた鉄哲も正気に戻ったのか「……確かにな」と呟く。拳藤の言う通りだ、と冷静さを取り戻してきた教室内の雰囲気に名前は呆気に取られた。やっぱり一佳はすごい、と目を細める。鉄哲も物間も、他のクラスメイトたちも名前では説得することができなかった。それを拳藤は簡単にやってのけてしまったのだ。すっかり落ち着きを取り戻した空気の中、物間一人が「当てつけだなんて人聞きが悪いなあ!」と反論の声を上げた。
「僕はA組に一泡吹かせてやりたいだけさ!ヒーロー科一年は君たちだけじゃないんだぞってね。だってそうだろう?注目されるのはA組ばかり。事実、A組の教室の前にはあれだけ敵情視察の人が押し寄せてるのに僕らの教室の前には人っ子一人いやしない!」
今度は物間の言葉にB組一同、特に男子生徒達の熱が煽られる番だった。「言われてみれば……確かに。俺たちだってヒーロー科なのになんで誰も視察に来ねーんだ!?」「俺たちとA組、何が違うってんだ!?敵と戦っただけだろ!?」そんな声が上がる。再び熱を取り戻したA組ヘイトに拳藤は大きなため息をついた。
「もう知らん。勝手にしろ。煽るのも程々にな」
拳藤はそう言うと名前の手を引いて生徒の輪から外れた。そのまま自分たちの席がある教室後方へ歩を進める。剣呑とした雰囲気に名前は不安で瞳を揺らしたが振り向いた拳藤はニッと白い歯を見せて笑った。
「名前よく頑張ったな〜!鉄哲をA組から連れて帰ってきただけでも驚いたのに大勢のクラスメイトの前で発言するなんて!」
「でも説得できなかった」
シュンとこうべを垂れる名前に「最初はそんなもんさ。コミュニケーションを図っただけで十分な進歩だよ」と拳藤は言う。その時パタパタと二人のもとへ複数の足音が駆け寄ってきた。名前が顔を上げるとB組女子が揃い踏みで拳藤と名前を取り囲んでいる。驚く名前に構わず『トカゲのしっぽ切り』という少し変わった個性を持つ取陰切奈が口を開いた。
「男子ってアホだよねー!しょうもないことですぐ熱くなっちゃってさ。あんなの気にしなくていいよ、苗字さん」
「ん」
「よく反論した。えらい、えらい」
取陰に続いて頷いたのは黒髪ショートボブの小大唯、独特のペースで口を開いたのは柳レイ子だ。驚きでぱちぱちと瞬きを繰り返す名前の顔を角取ポニーが大きな目でのぞき込む。
「ンー?ちょっとビックリィさせたミタイ?私たちミンナ心配しテマシタ苗字サン!」
「……心配?」
「もうお体の方は大丈夫ですか?ヒーロー基礎学で倒れられたと聞いたので……私たち一同心配しておりました」
「名前が放課後になっても帰ってこなかったらみんなで保健室にお見舞いに行くか、って話も出てたんだよ。だから全員教室に残ってたわけ。まあ廊下がああやって騒ぎになってそれどころじゃなくなってたんだけどな」
やっと一言、言葉を絞り出せた名前に深々と頷いた塩崎は本当に心の底から名前を心配していたようだった。けれど名前には理解できなかった。拳藤と塩崎はともかく他の女子生徒とはまともな会話もしたことがない。きっと彼女達の目に自分は無愛想に映っていたことだろう。そこまで心配してもらえる義理がないのだ。名前は顔を伏せ気味にゆっくり口を開く。
「どうして、私を気にかけてくれるの?」
「クラスメイトが倒れたとキイテ心配スルノは当たり前デス!」
あっけらかんとそう答えた角取に名前はふるふると首を横に振る。
「でも私、みんなとまともに話せたことがなかったし、きっと愛想のない人間に見えていた。それなのに」
「……確かに。最初は怖い人かと思った。いつも無表情だし。とても話しかける気にはなれなかった。でもそれは話しかける前から苗字さんの内面を決めつけて遠ざけてたこちらの問題」
「ん……」
柳の言葉に小大が申し訳なさそうに頷く。次に取陰が照れくさそうに頬を掻きながら口を開いた。
「一佳から聞いてはいたんだ。『名前は案外普通の女の子だよ』って。でもやっぱ見た目に及び腰になってさ……ごめんね。それで最近急にさ、一佳や鉄哲といる時の苗字さん、よく笑うようになったから。それ見て一佳が言ってたことは本当だったんだって思ったんだよね」
名前を取り囲む面々はみんなその言葉に頷いた。名前は気恥ずかしさからぽっと頬を上気させる。なんと言えばいいか分からず口をもごもごさせていると見かねた拳藤が「つまりさ、」と助け舟を出してくれた。
「みんな名前ともっと仲良くなりたいんだってさ」
その言葉に名前はいよいよ顔を赤く染め上げ完全に俯いてしまう。しかしそれと同時に発せられた「ありがとう」という消え入りそうな声はそれぞれの耳にしっかり届いていた。夕暮れ時、初めて言葉を交わした少女達の顔に眩い花が咲いていく。