時は刻々と流れあっという間に雄英体育祭、その日がやって来た。決戦の朝、名前はというと驚きの余り箸で掴んだミニトマトをぼとっと落としたところだ。みずみずしいレタス、細く刻まれた人参や玉ねぎ、そしてそこに再び戻ってきた赤いミニトマトを見つめながら驚きの原因となった母の言葉を頭の中で反芻する。「今日はお母さん、会場に応援に行っちゃうからね!」母は確かに今そう言った。普通の親子ならそこに不思議がる要素なんてないやり取り。しかしこの家庭においては……。名前はいつもの無表情のまま顔を上げた。正面に座る母は頬杖をついたままニコニコと名前を見ている。
「……本当に?どうして?大丈夫なの?」
名前の疑問は最もだった。何故ならこの母親は一度も娘の授業参観に参加したことがないからだ。いや、授業参観だけではない。そもそも学校などの公の場に姿を見せることをしない。幼稚園の頃、名前の送り迎えをするのは当時家に働きに来ていたお手伝いさんの役目だった。さらに小学生にもなると運動会、発表会、授業参観、そういった行事に保護者が参加するということはなくなった。親馬鹿気味な母にとっても断腸の思いだったらしい。寂しいと思うことはあったが子供らしくない名前は仕方のないことだと理解していた。テレビ局で働く父は普通のサラリーマンより忙しく家をあけることも多い。そして一世を風靡した元芸能人である上に人を惹きつける特異体質の母は公の場に出ると混乱を招きかけない。仕方ない。それに親が行事に来れなくとも楽しいことはあった。運動会では年毎に緑谷か爆豪の一家がご近所のよしみで面倒を見てくれたのだ。彼らといっしょにお弁当を食べる、ただそれだけのことがとても楽しかった。まあ高学年になるとませた爆豪が口をきいてくれなくなり二年連続で緑谷家に世話になる、なんてこともあったのだが。
ともあれそういう理由で名前は驚いているのだ。普通の市立小・中学校でさえ姿を現せなかった母がましてや雄英体育祭なんて。雄英体育祭はかつてのオリンピックを凌ぐ人気だと言われている。日本中から人が押し寄せる雄英体育祭に母が顔を出して本当に大丈夫なのか?名前は再度「どういうつもりなの?」と母に尋ねた。
「どうもこうも名前の成長を見に行きたいだけに決まってるじゃない」
「そうじゃなくて」
「人前に顔を出していいのかってことでしょう?大丈夫よ。逆に考えるのよ。雄英体育祭ほどの一大イベントにもなると大衆に顔の知れた人間が現れてもなんら不思議じゃないわ」
「それは……そうなのかもしれないけど」
名前は箸を止めたまま納得しきれない目を母に向ける。
「体質のこともあるって言いたいのね。それも大丈夫よ。名前にあげた個性を封じるグローブ、元々は私の物なんだから。そういうサポートアイテムは他にも持っているわ。変装を兼ねて帽子とサングラスとマスクをして行くつもりだし。ね?完璧でしょう?」
そんな格好をして行ったらかえって目立つのでは……と思ったが名前は何も言わず食事を再開した。どうやら母には引く気がないらしいと判断したからだ。それにしても突然体育祭を見に来たいなんて言い出した動機は分からないままだ。数日前「雄英体育祭の日はインコさんといっしょにテレビ中継を見る約束をしたの!楽しみだわ〜!」と言っていた気がするがその約束はどうなったのか。母のただの気まぐれか、それとも。
「(昨日の、お父さんとのやり取りと何か関係があるのかな)」
咀嚼しながら瞼に思い浮かべるのは父の姿。昨晩は珍しく早めに帰宅した父を含めた三人で食卓を囲んだ。そこで父は名前にこう言ったのだ。
「明日は体育祭だろう。…名前、父さんと入学前に約束したこと、覚えてるか?」
その問いに名前はこくりと頷いた。『生命』という個性をできるだけ隠すこと、命を与える方のみを使い奪う方は使わないこと。この二つだ。名前がそう告げると父はその通り、と満足そうに頷いた。しかしその直後カッと目を見開き「だがしかし!」と大声をあげる。
「明日は特例だ!個性を隠すことは気にするな!大盤振る舞いで戦ってこい!父さんは明日マスコミ関係者席から見守ってるからな!」
あ、でも奪う方は使っちゃダメっていうのはいつも通りだよ、と付け足した父は何事もなかったように食事を続けた。名前の父は基本的に温厚で穏やかな人柄なのだが少し天然ボケが入っているというか、たまにこういうおかしなテンションを見せることがある。きょとんとする名前の代わりに母が「ちょっと待って」と口を挟んだ。
「あなた雄英体育祭のテレビ中継担当だったの!?明日は会場へ行くの!?」
「(つっこむところそこなんだ)」
「あれ?言ってなかったか?」
「聞いてないわよ!だってあなたここのところずっとテレビ局に缶詰めだったじゃない!」
「しょうがないだろう。他の番組も同時進行で企画を進めてて準備に追われてたんだから。まあお前の分まで名前の勇姿を目と映像に焼き付けてくるから」
「そんなのずるいわ!……ずるいわ!」
「そんなこと言ったってお前が人前に出る訳には行かないだろう」
そんな夫婦の痴話喧嘩を聞き流しながら名前は肉じゃがを黙々と口に運んでいた。どうやら父は母を論破したらしく母は落ち込んでいる様子だった。じゃがいもを箸の先でつつきながら父を見ると目が合う。
「個性、思い切り使っていいの?全国放送されるのに隠さなくていいの?」
名前が父にそう切り出す。父はふっと優しく微笑んだ後、ただ一言「いいよ」と言った。
「(お母さん、諦めたと思ったのにな)」
諦めてなかったんだな、そう思いながら先ほど落としてしまったミニトマトをもう一度つまみ上げた。父は名前よりひと足早く、早朝に会場へ向かった。仕事とはいえ初めて親が体育祭に来てくれる。昨晩父から話を聞かされた後、名前は密かにそわそわしていた。嬉しいような少し恥ずかしいようなむず痒い感情があった。しかし母が来るとなると少し不安もある。なにか騒動を起こさなければいいが……。名前もその風貌から人の好奇を引き付けやすいが母は更にそれを凌ぐ。個性による母のそれはもはや催眠とか洗脳といったレベルだ。
「ほら、名前たくさん食べなさい。今日はいくら個性を使っても大丈夫なように食べておかないと。また倒れたりでもしたらと思うと心配で心配で母さんまで倒れそうになってしまうわ……」
しかし本人はこの通り何処吹く風で娘の心配ばかりしている。見に来てくれるのは嬉しいけれど本当に大丈夫かな。そう思いながら名前は小さく頷いたのだった。
*
体操服に着替え終えた名前は1-Bの控え室で髪を結っていた。いつもはおろしている後ろ髪を後ろで一つにまとめる。その手にはいつものようにグローブがはめられていた。体育祭ではヒーローコスチュームの着用が禁止されているが特殊なサポートアイテムは事前に申請しておけば使用を許可される場合がある。名前のグローブもその一つだ。
控え室を見渡す。B組の生徒達は皆落ち着いて見えるもののどこか緊張の色を隠しきれてない、そんな様子だ。
「皆、ちょっといいかな」
張り詰めた空気を揺らす余裕綽々とした声が響いた。物間だ。全員がなんだなんだと控え室の中心に立つ彼を見る。名前もそれに倣って彼へ視線を移した。物間はぐるりと控え室を見回すとこう続ける。
「いよいよ体育祭本番だね。調子づいてるA組に吠え面をかかせ僕らB組の存在を世間に知らしめようじゃないか。そこで僕から提案なんだけど」
予選の内容は毎年違うが大人数をふるいにかけるためかレースのような形態を取ることがほとんどらしい。そこで物間はこう提案した。予選では敢えて個性の使用を最小限に抑えること。そうして予選落ちしない程度に後方からA組の様子を伺い彼らの個性を把握すること。逆に自分達の手のうちは見せない。そうすることで本戦を有利に進めることができる。狡猾だが合理的な作戦だ。
「もちろん全員に無理強いはしないよ。ただこれがB組のためだってことは理解してほしいかな」
物間は肩をすくめてそう言った。控え室がざわつく。「どうする?」「物間の言う通りにしてみようかな」そんなクラスメイトたちの言葉を聞きながら名前は目を伏せた。私は、私はどうしよう。名前はまだ迷っていたのだ。父は人の目を気にせず個性を使っていいと言ってくれた。しかしそれならば入学前に父と約束した「個性の詳細を隠せ」という規制は何だったのだろう。あれには理由があったのではないのだろうか。父の考えがまるで読めず迷っていた矢先の物間からの提案。正直名前には好都合だった。彼の作戦に乗ってしまえばこれ以上迷わずに済むのだから。
「うかねー顔してんな」
不意に頭上から降ってきた声。自分に向けられたらしいその声に顔をあげると釣り気味の三白眼が名前を見下ろしていた。鉄哲だ。
「……そんなふうに見えた?」
「おう」
「私、表情が変わらないってよく言われるけど」
「あー……そうだな。表情は変わらねえけど、なんだ。フンイキだよ、フンイキ。うかねーフンイキしてたんだよ」
なにそれ、と言ってくすりと名前は小さく笑った。彼なりに心配して声をかけてくれたんだろうなと思うと嬉しかったのだ。そんな名前を見て鉄哲はぶっきらぼうに自分の頭をかく。そして口を尖らせて「なんだよ、心配したのによ」とぼやいた。
「ありがとう鉄哲」
笑顔を見せたのこそ一瞬だったが、依然どこか柔らかい表情のまま名前は礼を言った。そして気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「鉄哲はどうするの?物間くんが言ってたこと」
「俺か?んなの男らしく正々堂々勝負するに決まってんだろ!」
物間の作戦には乗らない、ということだろうか。あまりにもまっすぐ言い切った鉄哲を名前は羨ましく思った。頭に血が上りやすいところもあるが暑苦しいほど実直で物事へ真摯に向き合える、鉄哲のそういった性質を名前は理解しつつあった。そして彼のそんな一面を心から尊敬出来ると考えていた。きっとそれはヒーローに必要な資質だ。
「もしかしてさっきの物間のあれで悩んでんのか?」
「……」
名前が返事の代わりにこくりと頷くと鉄哲はこう続けた。
「苗字がしたいようにすればいいだろ。物間だって強制はしねえって言ってんだしよォ」
「自分がどうしたいか分からないの」
「……オメーって奴はほんと、」
何かを言いかけた鉄哲だが途中で口を噤むと「ウーン」と唸り考えるそぶりを見せた。そしてすぐに「よし!」と声を上げ名前に向き直る。
「どうしたいか分かんねーなら俺の背中を追え苗字!」
「え?」
どういうことか、と名前は首を傾げる。
「だっ……だから、俺を追うんだよ。恥ずいから何度も言わせんじゃねえ!ほら、明確な目標が前にいた方がタイムが上がりやすいって言うだろ。レースみてえな種目だと」
しばらくポカンとしていた名前だが鉄哲の言葉を理解するとなるほど、と頷いた。そしてまた小さく笑う。
「鉄哲の方が私より早いこと前提なんだ」
「そりゃ俺は誰にも負けるつもりはねえからな!」
「それじゃあ私は物間くんの作戦じゃなくて鉄哲の提案に乗ろうかな」
「おう。言っとくが待ってやったりしねえからな」
「もちろん。私は私で鉄哲を追い抜くつもりで走る」
「お!?言ったな!やれるもんならやってみろ!」
言葉とは裏腹に嬉しそうな鉄哲。やはり競走となると心が踊るのか、そういうところはやっぱり男の子だなあと思いながら名前は表情を和らげた。鉄哲を追いかける上で個性が必要なら使えばいい。使わなくて済むならそれでいい。そう考えることにした。
「じゃあお互い頑張ろうな」
そう言って差し出された目の前の握り拳に名前はゆっくり瞬きをした。これは、知っている。映画などでよく見るものだ。グーに握ったお互いの拳を合わせる、仲間意識を持った相手と交わす特別な挨拶のようなもの、そう認識している。名前はグローブをはめたままの手をぎゅっと握った。そしてそれを鉄哲の拳へ向かって控えめに持ち上げる。こつんと二つの拳がぶつかった。
「みんな〜準備できてる?もうすぐ入場だよ」
おもむろに控え室の扉が開いて学級委員である拳藤が顔を覗かせた。とうとう始まる雄英体育祭。幕はきって落とされる。