いかないで


頬を伝ってぽたぽたと落ちていく雫がスカートに染みこんでいく。濃く色が変わりじわりとその範囲を広げる涙の斑点をぼんやり見つめていた。はは、こんな日に限ってハンカチ持ってきてないや。今日このスカート洗濯してもらおう。泣いているくせに頭の中ではそんな見当違いなことを考えていた。いつもの車両がやってくる位置ではなく、駅のホームのいちばん端。そこにあるベンチに私は座っている。幸い早朝であるため周りに人はほとんどいない。こうして俯いていれば泣いていることも誤魔化せるだろう。

「(またやらかしちゃったなあ……)」

何故こんな状況になっているのか。ずばり言おう。また勝手に個性が発動してしまった。しかも赤の他人の持ち物に対して。時は十数分前に遡る。

「あの、すみません」

駅についた時だった。階段を登ろうとすると不意にすぐ後ろから声がして、自分が呼ばれたのかはわからなかったがほぼ反射的に振り返った。そして息を呑んだ。まるで絵画の世界から生まれ落ちたかのような美しい少女が真っ直ぐ私を見ていたのだ。あまりに眩くて声を出すことも出来ずゆっくり瞬きを繰り返すことしかできない私をよそに彼女は「これ、落としましたよ」と私の名前が刻まれた定期券を差し出してきたのだ。その手にはもう夏だと言うのに分厚い革製のグローブがはめられている。「あ、ありがとうございます!」と慌ててそれを受け取ろうとした。そのとき私の手が彼女の手、つまりグローブにほんの少しだけ触れた。それだけで個性が発動してしまった。彼女の記憶を見た。ずいぶん古い記憶だった。気付けば目からは涙が溢れ出していた。突然泣き始めた私、驚く彼女。流石にまずいと思って自分の個性について説明した。そして謝罪した。私が見てしまった彼女の記憶はあまりにも悲しくて、残酷で、彼女にとっての触れてほしくないデリケートな話に違いなかったからだ。

「(不思議な子だったな……)」

世の中には実に色々な人がいるものだ、と改めて考えさせられた。ベンチに座ったまま、彼女の代わりに泣き続ける。彼女は他言無用でお願いします、とだけ言って柔らかく微笑み私を許してくれた。むしろ何故か彼女の方が「不快な気持ちにさせてごめんなさい」と謝ってきて更には私が泣き止むまでそばにいる、とまで申し出てきた。今日初めて会った人にそこまでされたら申し訳なさと罪悪感で私が死にそうだったのでホームまで一緒に来てもらってあとは先に行ってもらったけれど。彼女は雄英の制服を来ていた。切島くんと同じ、ヒーロー科だったりして、なんて。

「(ああ、そうだ、切島くん)」

今日はもう無理かもしれない。もう次にはいつもの電車がやってきてしまう。涙で濡れてぐしゃぐしゃのこんな顔、切島くんに見せられないよ。それでも往生際の悪い私は電車がやってくるギリギリまで涙が止まることに期待して、ベンチに座り続けた。しかし無情にも涙は止まることなく、電車はやってきてしまう。あー、駄目だった。私を置いていって進む電車。よかった、今日は本を持ってきてる、一人でも大丈夫。……嘘、本当はいかないでほしい。俯いて、スカートにできた涙の染みを眺めながら離れていく電車の音を聴いていた。やがて電車の音が遠くなると鞄から携帯を取り出してトークアプリを開く。最近けっこう頻繁にこれで切島くんと連絡を取るようになっていた。他愛ない話ばかりだけどそれがなかなか楽しくて彼からメッセージが届くたびに胸を躍らせる自分がいた。でも今は違う。ぼやける視界で文字を打つ。


『もしいつもの電車に乗ってたらごめんね。今日は間に合わなかったからまた明日』


送信を押してすぐに携帯を閉じた。ポケットにそれを押し込めながら目元を擦る。なんだかもう泣き疲れてきた。それに、不安だ。このまま電車に乗るのが遅くなればなるほど人が増える。なんだかんだあの日から毎日切島くんと登校していたから個性の件に関しては平気だった。だからこそそれに慣れてしまった今、一人で満員電車に乗れる自信がない。満員電車だと本を読む余裕もないし。そもそもこうなったのも全部私の個性のせいだ。益々自分の個性が嫌いになりそう。父と弟は個性を完全に使いこなせるのになんで私はいつも勝手に発動しちゃうんだろう。さっきエンパスで同調してしまった幼き日の少女の絶望と私の自己嫌悪が混ざりあって心はどんどん後ろ向きになっていく。

「……帰ろ」

しばらくぼんやりとベンチに座っていたけれど向かい側の線路に電車がやってきたところで我に返ってそう呟いた。もう今日は学校休む。かなり投げやりになっちゃってる自覚はあるけど完全に気が滅入ってしまっていた。重い腰を上げて鞄を肩にかける。顔を俯せ気味にそのままゆるゆると階段に向かって歩く。ガタンガタンと電車の機械音が遠ざかっていった。

「苗字!」

突然私の背中を耳馴染みのある声が呼び止めた。どうして。なんで。頭の中が疑問符でいっぱいになる。振り返ると線路を挟んで向かい側のホームに切島くんが立っていた。私の涙で濡れた酷い顔は少し距離があるから向こうからは分からないって信じたい。切島くんは私が何か言うよりも早く口を開く。

「待て!そこから動くな!今そっち行くから!」

そう大声で言い残して走って階段の方へ消えていった。え?何?今から切島くんがこっちに来る?呆然とその場に立ち尽くす。そもそもなんで切島くんがここにいるんだ。向かい側のホームにいたってことはもしかして引き返して来てくれた?あれ?私、連絡したよね。混乱しているとホームにいる人の視線を集めていることに気付いて一気に顔に熱が集まってきた。微笑ましいものを見るような目で見るのやめてほしい、恥ずかしい。なんてことしてくれたんだ切島くん。ぽろっと目から雫が落ちてきて慌てて俯いた。まだ涙は止まらない。

「苗字!」

切羽詰まった表情で切島くんがホームに駆け込んできた。かわいくない私は恥ずかしさのあまりそっぽを向いてしまった。足音が近づいてくる。「苗字、」と声をかけられたところで私は勢いよく顔を上げた。

「切島くんのばかー!」
「うおっなんだ!?スマン……!」
「周りの目気にしてよ……!めっちゃ、めっちゃ見られてるよ……」
「あ……悪ぃ。なんつーか、必死で、つい……」

そう言って私の顔を見た切島くんはみるみるうちにその表情をこわばらせた。あー……やっぱり酷い泣き顔してるんだろうな、私。見られたくなくて顔を逸らした。

「苗字……なんかあったか?」
「……」

返事を出来ずに黙り込んでしまう。切島くんには個性のこと、隠してるから言えない。顔を逸らしていても切島くんが心配そうにこっちを見ているのはなんとなくわかった。なんでそんなにいい人なの。余計に自分が嫌な奴に思えてきてしまう。

「俺には話せないことか?」

その言葉に少し迷って、ゆっくり頷いた。なんだか彼の優しさを裏切っているような気がしてならなかった。

「とりあえず座って落ち着こうぜ」

少し顔を上げて切島くんを見ると困ったように笑って私がさっきまで座っていたホームの端のベンチを指さしていた。私みたいな奴に構わなくていいのに。そんな気持ちからか「切島くん、先に学校行ってていいよ」とまたかわいくないことを言ってしまう。「あのなあ」と少し怒りを含んだ声が降ってきた。

「泣いてる苗字ほったらかして先に行けるわけねえだろ。そんなの漢がすることじゃねえ」

切島くんでもこうして怒ることがあるんだなと少し驚いた。ベンチの方へ向かって歩き始めた彼の背中に大人しくついていく。二人並んでそこに腰掛けた。どうして切島くんが私のところに来てくれたのか聞くか迷ってもじもじしているとそれを察したのか切島くんはポツポツ話し始めた。

「いつもの電車に苗字来なかったからさ。まあこういう日もあるかって最初は思ったんだ」
「……うん」
「でも電車が動き出したらこのベンチに座る苗字が見えて、まあ一瞬で分かりづらかったけど何故かあれは苗字だって確信したんだ俺。根拠はねえけどな」
「……」
「で、どうしたのか聞いてみようとスマホ開いたら苗字から連絡来てさ。しかも『間に合わなかった』とか書いてあるし。嘘だろ、間に合ってたじゃんって。これは何かあるなって心配になって引き返して来たんだよ」
「……そう、なんだ」

目がじわりと熱を持つ。それから切島くんは私に泣いている理由を聞こうとすることはなくただ黙ってそばにいてくれた。しばらく私はしとしとと泣き続けた。泣いてしまう恥ずかしさでいたたまれなかったけど同時にどこか安心していた。切島くんの隣は安心する、すごく。それをそのまま言葉にした。

「切島くんが来てくれてよかった」
「お、そうか。それなら俺もよかった!まあ何にもしてやれてないけどな」
「ううん、いてくれただけで充分。あ、でもあんまりこっちは見ないでほしい」
「なんで?」
「泣くと鼻赤くなるしすごいブスだから……」
「……いや、そんなことねえと思うけど」

切島くんから出た否定の言葉に驚いて、こっちを見るなと自分から言っておきながら彼の方へ顔を向けた。切島くんは私から思い切り顔を逸らしていて表情は伺えない。それから消え入りそうな声で「苗字はかわいいと思う」と言われた。表情は分からないけれど赤い髪からのぞく耳が髪と同じくらい真っ赤だ。たぶん私も同じくらい赤くなった。咄嗟に「あ、ありがとう!?」と答えてその直後に「ありがとうってなんだよ」と心の中で自分にツッコミを入れる。ここは「あはは切島くん何言ってるの〜励ましてくれてるの〜?」とか言わないと後々気まずくなるやつなのに……!不意に切島くんが振り返った。わっやめて見ないで!と心の中で叫び焦る私をよそに切島くんは何事もなかったかのように笑った。

「お!苗字泣き止んだな!」
「えっ、あ、うん。あれ?ほんとだ……」

いつの間にか涙は引っ込んでいた。それにしてもさっきのはなんだったんだろう……切島くんはあまりにも普段通りで、いや顔は少し赤いけど、やはり何事もなかったかのように「よかったな〜」とか言ってる。これは、深く考えない方がいいのかもしれない。切島くんにとってさっきの「かわいい」発言は大した意味のあるものじゃなくて、本当に褒めて励まそうとしてくれていただけ、とかそういうのかも。それに対して私が過剰に反応してしまったのだとしたら恥ずかしすぎる。忘れよう。第一私はかわいくない、それこそさっきの超絶美少女に比べたら私なんて塵も同然である。

「付き合わせてごめんね」
「俺が勝手にしたことだからいいっていいって」
「切島くん学校何時から?」
「8時25分からSHR。苗字は?」
「私は8時40分から授業だ。よかった、間に合いそうだね」

時計を見ると短針は7、長針は9を指していた。切島くんが来てくれる前は完全に帰るつもりでいたのに何故か今はその気持ちも薄れていた。まあ泣き腫らしたこの顔で学校に行けば友人たちからは笑われそうだけどあの子らは私の個性を知ってるからそれだけで済むだろう。「じゃあ行くか」と切島くんが立ち上がる。私もそれに続いたけどホームの人の多さに目眩がしそうだった。こんなに人、増えてたんだ。端っこにいたから気付かなかった。さらにやってきた電車を見て悪寒を感じた。嘘でしょ。この時間ってこんなに人、多かったっけ。青ざめる私に気付いたのか切島くんが声をかけてきた。

「苗字、これ大丈夫か?」
「あんまり……大丈夫じゃ……ないかも」
「おお……切実だな」
「でもこれ以上遅くなるともっと大変になるだろうから頑張るよ」
「無理しないでやばそうになったら言えよ?」
「うん、ありがとう」

さっきも思ったことだけど、やはり切島くんが隣にいるだけでなんだか心強い。「やっぱり切島くんはヒーローなんだね」と言えば彼はただ困ったように眉を下げて笑った。