その頬紅を点す
泣いている理由を話そうとしない苗字。そんな苗字を見て思ってしまった、俺はそこまで苗字から信頼されてないのかもしれない、と。それでも泣いている苗字を放っておくことなんて出来なくてただただ泣いている彼女の隣に座り続けた。苗字からすれば泣いているところを見られるのは嫌だっただろう。「切島くんが来てくれてよかった」と言われはしたけれど俺の不安は拭いきれなかった。しかしそんな不安が今だけは吹き飛んでしまうほど俺は狼狽していた。
「(ち、ちけえ……!)」
満員電車。蒸し暑い車内。ほんの数センチ先に苗字の顔がある。少し距離を詰めるだけで触れてしまえそうな近さだ。苗字は狭いスペースで体を捩ると俺を見上げ「そこ狭いよね、ごめん」と眉を下げた。状況のせいかいつも以上に苗字の声が甘ったるく聴こえる。いつも以上に苗字が可愛く見えてたまらない。やばい。持ってくれ、俺の理性。
「こっちこそ、なんかごめんな」
良かれと思ってしたことだった。
苗字が前に言っていた、彼女が人の負の感情に影響されやすくなる要因は他人の「表情や声」を取り込んでしまうこと。それなら見なければいい、聞かなければいい。人の山から苗字を切り離してシャットアウトすればいい。そう思って自分が壁になることにした。まず俺はやって来た満員電車に少し強引に乗り込んで扉近くのスペースを確保した。その次に座席の端と壁で角になったスペースへ苗字を引っ張って来て立たせる。そして自分はその正面、壁に背中を預けて立っている苗字に覆いかぶさるようにして立った。いや、苗字の正面に立っているだけで覆いかぶさるっいう表現は語弊があるかもしれないけど、俺と苗字の身長差や電車の揺れのせいでしばしばそんな体勢になってしまう。所謂壁ドンに近いやつだ。
言い訳を重ねるが本当にこんなつもりじゃなかった。俺はただ苗字を人混みから守りたかっただけだ。この体勢もそのために良かれと思ってしたことだった。まあこれを思いついて実行に移す時、やましい気持ちが一ミリもなかったと言えば嘘になるけど。それでもここまでだとは思わなかったのだ。ここまで、
「(視界が苗字でいっぱいになるなんて思わなかったんだよ……!)」
逆を言えば苗字の視界にはほとんど俺しか映っていないはずだ。流石にこんな状況だからか苗字も気まずそうに縮こまっている。正義感に駆られてとった行動が裏目に出た。我ながら随分大胆な行動に出てしまったものだ。恥ずかしさで死ねる。揺れる車内で苗字に触れないよう必死に踏ん張る。少しでも触れてしまったら理性の糸が切れてしまいそうだから。あ、やべ汗垂れてきた。てか俺、汗臭くねえか、大丈夫か……!?
「ほんとスマン、なんつーか……嫌だったら言ってくれ」
小声で苗字にそう伝えた。どうせ次の駅に着いたら降りる人を通すために一回電車を降りないといけねえし、そうなるとこのやばい体勢は変えることができる。いろんな意味でドキドキしながら苗字の返答を待った。「嫌だ」と言われたらそれなりにショックだけど付き合ってる訳でもない女子にこんなことしてる時点で気性が荒い子ならひっぱたかれててもおかしくない。相手が苗字だからそれはなかったけど心の中では嫌がってるかもしれねえし。うわ、なんか自分で言ってて悲しくなってきた……
「い、嫌じゃないよ」
控えめな声が返ってきた。その答えに思わず泳がせていた視線を目の前の苗字に向け、そして釘付けになる。苗字は頬を紅潮させ、赤く瑞々しい唇をギュッと引き結んでいた。そしてわたわたと瞳を右に左に動かした後、俺の視線から逃れるように足元へ目を落とした。なんだ、今の。心臓を鷲掴みにされたかのような感覚が俺を襲う。苗字は本当にずるい。いつだって俺は苗字の一挙一動に振り回されて、常に主導権を握られている。
嫌じゃない、と言った苗字は足元に目を落としたまま続けた。
「むしろありがとう、私のために。切島くんこそ嫌なら無理しなくていいから、その、」
「いや!俺はいいんだ!嫌じゃねえし無理だってしてねえ、あ……いや、無理はしてるか……」
「無理してるの……!?」
苗字はバッと顔を上げると問いただすような気迫を込めた目で俺を見上げてくる。急接近した距離に心臓が止まりそうだった。なんで馬鹿正直に「無理してる」なんて答えちまったんだろう。「あー、そのな、」と適当に場を繋ぎながら言い訳を探したけれど上手く言葉が出てこない。結局、短く溜め息をついてこれまた馬鹿正直に答えることにした。
「無理してるっていうか、近すぎてやばいっていうか……」
「えっ」
小さく驚きの声をあげると苗字はさっきと全く同じように目を左右に揺らしやがて顔を伏せた。そこで黙られたら気まずくなってしまう、なんでもいいからリアクションがほしいと内心焦りながらも苗字睫毛長いな、なんて場違いなことを考えていた。目を縁どる艶やかな黒が一本一本際立って見える。物理的に距離が近いから余計そういうところに目がつくんだ、これは不可抗力だ。そんな言い訳を自分に言い聞かせていると「なんで、」と苗字の囁きが鼓膜を揺らした。
「え?何?」
「……なんで、近いとやばいの?」
はあ!?えっ……それ聞くか……!?苗字は相変わらず目を伏せがちに頬を赤らめている。突然投げかけられた爆弾と苗字の表情に頭の中が真っ白になった。考えがまとまらないまま取り繕う。
「そりゃ女子とこんだけ密着してる状況ってやばいっていうか、まずいだろ」
「相手が女の子だったら誰でもやばいの?」
「はあ!?そんなこと言ってねえだろ!いや、まあ……ちょっとやばいかもしんねえけど」
「……誰でもいいんだ」
苗字はそう呟いて少し拗ねたように唇を尖らせた。めちゃくちゃかわいい。めちゃくちゃかわいいけどそんな顔しても無駄だぞ、苗字。なんでそんなこと聞いてくるんだよ。どうしたんだよ、なんか今日変だぞお前。そもそも誰でもいいわけがない。俺は相手が苗字だからこんなに必死になってるし触れたい気持ちだって理性で押さえつけてるのに。そんな言い方されると黙ってられない。ちょうど車両が揺れたことをいいことに壁に手を付くと正面から苗字の顔を覗き込んだ。驚きで丸くなった双眸と目が合う。
「俺は、苗字だから……!」
そこまで言って我に返った。何を言おうとしているんだ、俺は。誰でもいいわけじゃなくて苗字だからやばいんだって、それを本人に伝えてどうするんだ。ただのセクハラじゃねえか。でももう言いかけてしまった。というか今のは苗字を怖がらせてしまったかもしれない。どうするんだ、これ。とにかく何か弁解しようと苗字を見て、固まった。「え……」と声が漏れてしまうくらいには驚いた。苗字は耳まで真っ赤にして更には潤んだ瞳で俺を見上げていたからだ。
「あの、苗字」
「……」
「……」
「切島くん、ごめん」
声をかけても返事をしないかと思えば短い沈黙を破って苗字は突然謝ってきた。
「近いのは、やばいね。私も今のやばかった」
「!スマン……今のは忘れてほしいっていうか、」
「え〜どうだろ、忘れられないかも。やだな、顔熱い。今、私絶対顔赤いよね。あはは、恥ずかしいなあ」
あ、ダメだこれ。苗字完全にテンパってる。斯く言う俺も割りとテンパってて気の利いた言葉の一つも言えやしない。苗字は色づいた頬を両手で覆いながらいつものようにへらっと笑った。顔ならさっきからずっと赤かったけど、っていうのは言わない方がいいんだろうな。
「あとね、切島くんがあまりにも真面目に答えてくれるから面白くてちょっとからかい過ぎた。ごめん」
「な、あの変な質問、俺をからかってたのか……!?」
「うん。切島くん、人が良いにも程があるよ」
そう言って今度はくすくす笑う苗字。これ、俺完全に掌の上で転がされてたんじゃねえの。あーでも苗字を赤面させることができたから知らず知らずのうちに反撃はできてたのか?まあ楽しそうに笑ってる苗字を見ているとそういうのがどうでもよくなってくるから俺は多分重症だ。駅で苗字が泣いていたときはどうしようかと思ったけどやっぱり苗字は笑っている方がいい。そう自己完結して苗字の笑顔を至近距離で堪能していると突然車両がガコンと大きく揺れた。
「わっ!」
一気に人の波が背中を襲ってきた。咄嗟に苗字の顔の横から壁に腕をついて、背中にのしかかってくる重みにはなんとか耐えた。が、それどころではない。苗字との距離は更に縮まり数センチ単位で互いの目を覗き込む体勢になってしまっていた。多分角度によってはキスしてるようにさえ見えてしまうだろう。突然起こってしまったあまりにもベタな展開に、驚きとか焦りとかそんな感情はむしろ置いてけぼりになってしまって「やべ、ぶつかるかと思った」なんて考えてるやけに冷静な自分がいる。というかこれ俺が体鍛えてるから良かっただけで俺じゃなかったらマジで苗字押しつぶされてたぞ。
「き、切島くん大丈夫……っわ!?」
俺を心配したのか苗字が口を開いた次の瞬間、車両がさっきとは反対方向に大きく傾いた。背中にのしかかっていた重みが一気に消え、揺れと共に体が後ろへ傾く。咄嗟にバランスをとって踏ん張ったけど苗字は揺れに対応できなかったらしい。瞬きをする間もないくらい、一瞬の出来事だったはずだ。でも俺はその一瞬のうちに色んな思考を脳内で巡らせた。その間、苗字がこちらへ倒れ込んでくるのがスローモーションで見える気さえした。どうする?受け止めるしかないか?受け止めていいのか?……でも他にどうするっていうんだ。漢ならここで腹を括るしかねえだろ!
「大丈夫か苗字?」
平静を装ってそう声をかけたけど心臓の音はバクバク煩い。抱きとめた苗字の肌の感触とか匂いとか、苗字の全てが俺を刺激しているから。もう俺この世に未練はないかも。ていうか女子ってこんな柔らかいんだな、話には聞いてたけど。あと、めっちゃいい匂いするんだけどなんで夏でもこんないい匂いするんだ苗字。
「ごめん切島くん私どんくさくて!」
苗字はそう言うと飛び退くように俺から離れた。それから壁にピタリとくっついてこちらの様子を伺っている。……嫌がられた?ピシッと自分の心にヒビが入る音が聞こえた気がした。好きな子からこんな拒絶ともとれる反応されたんだ、今日の苗字の様子から脈アリなんじゃと淡い期待を抱いていた分、余計にショックだ。でも苗字が俺のこと何とも思ってないならこの反応も当然だろうし触られて嫌だったのかもしれない。それならすごく悪いことをしたと思う。
「こっちこそごめんな」
「なんで謝るの?切島くんは謝るようなことしてない」
「あー……ほんとだ、なんか今日謝ってばっかだな、俺」
俺がそう言うと苗字は瞳に影を落として「悪いのは私なのに」と呟いた。苗字の意味ありげな言葉と雰囲気が引っかかって「……どうした?」と尋ねると控えめな眼差しで見上げられる。
「ううん、なんでもない。ありがとう切島くん、今日はお世話になりっぱなしだなあ」
「そんな大したことはしてねえけどな」
「……あと7駅あるけどお願いしていい?その……近くてやばいけど、この体勢すごく助かるから」
……そんな頼みをそんな表情でしてくるのはずるいだろ。やっぱり俺は常に主導権を握られている。さっきまで落ち込んでいたことが嘘のように「苗字がいいなら」と頷いていた。
「さっきみたいなこと起きないようにできるだけ気をつけるからな」
「あれは電車のせいだし仕方ないよ。それにまた起きても私は……大丈夫だよ」
やっぱこれ夢か何かなんじゃねえかな。煽るようなことを言ってる自覚が苗字にないのなら相当ずるいし俺は振り回されてばかりだ。駄目だ、浮かれるな、と必死に自分へ言い聞かせる。変な感じだ。一刻も早くこの時間が終わってほしいけれどずっとこの時間が続いて欲しくもある。苗字は……この時間をどう思ってるんだろうな。