雨の気配が消えた日に


梅雨があけた。青をまぶした空のあちこちを白い雲が我が物顔で浮遊している。本格的な夏が来たという感じ。すぐ隣からガラガラと椅子を引く音が聞こえる。その音はぼーっと放心していた私を現実に引き戻した。

「まーたあんたは考え事してたでしょ」
「イテッ」

友人の容赦ないデコピンが私の額を襲った。振り向いた瞬間を狙うのは卑怯ではないだろうか。額をさすりながら友人を睨みつけるが彼女は私のメンチ切りなど意に介さず乾いた音を鳴らしてパンの袋を開けた。あ、私もお弁当食べよ。

「昼休みになったこと気づいてなかったでしょ」
「いやあ……ちょっとぼーっとしてて」
「ぼーっとしすぎ。2限の体育も名前のくせに覇気がなかったし。あんたの大好きなドッジボールだったのにね」
「えードッジはいつも通りだったよ」
「嘘つけ。うちの主力の名前が本領発揮しないせいで今日負け続きだったじゃん」

あははと笑って卵焼きを口に含んだ。ちなみに私は特別運動神経が良い訳ではない。でも球技、特にドッジボールは得意だ。何故ならゴリラだから。というのは冗談で本当のところは小学生の時、毎日のように昼休みは外でドッジボールをしていたから自然と得意になったのだ。あの頃はまだ外で遊ぶのが好きだった。中学で読書にはまって今ではすっかりインドアになってしまったけど。

「恋?」
「は?」

友人は私の思考をたった一つの単語でぶった斬ってきた。いやいや、ちょっと何を言ってるのか分からないな。その言葉で一週間くらい前の、切島くんと乗った満員電車の記憶がフラッシュバックしてるなんて、そんなはずは。

「へー、なるほどねえ」
「待って私まだ何も言ってないのに何を納得してるの」
「だって名前が漫画みたいに分かりやすい反応するから」

ニヤニヤと含み笑いを浮かべる友人に嫌な予感を覚え顔を両手で覆った。私たぶん、赤くなってるんだ。すぐに顔が赤くなってしまうこの悪癖は本当になんとかしたいのだけれど隠しようがないからどうにもならない。

「違うから!」
「はいはい、顔を赤くしながら言われても説得力がないけど」
「そ、そういえば他の二人はどうしたの」
「分かりやすく話題逸らしたな。あの二人なら購買に昼ご飯買いに行ってるよ」

いつものメンバーが二人足りないことに気付いて話題を逸らそうとしたけど私の目論みはあっさりバレた。ググッと眉間に皺を寄せる。ねえ、余計なことあの二人に言わないでよね。

「で、どこの誰なの?ウチらみたいな環境だと自分から動かない限りそうそう出会いはないはずだけど?」
「いや〜なんのことだか」

明後日の方向を見て白を切る。友人のジト目がきつい。だらだら冷や汗を流しながらひたすら白米を口に掻き込んでいると「おーい、苗字名前いるかー?」と教室中に響き渡る声量で私を呼ぶ声があった。こんなデカイ声、あの人しかいない。教室の出入り口を見ればそこには予想通り、同じクラスになったことはないものの主に体育の授業で絆を育んだ隣のクラスの体育会系女子がいた。助かった、絶好の助け舟だ。彼女に向かって手を振ると彼女は「お、いたいた」と言ってずかずかこちらへ歩いてくる。

「頼む!英和辞典貸して!忘れたんだよ〜、うちのクラスの英語教師、紙辞書指定でさ。でも他のクラスは皆電子辞書使ってて借りれなくて、紙辞書使ってるようなアナログ人間苗字くらいしかいないだろ」
「いいけどなんで紙辞書忘れたの。普通あんな重いもの持って帰らないでしょ」
「ダンベル代わりに持ち運んでたら忘れたんだよ」
「脳筋すぎる」

けらけら笑って箸を置き、辞書を取りにロッカーへ向かった。そこそこ整頓されている自分のロッカーからお目当ての英和辞典を取り出し席へ戻る。「今日英語ないから返すのは明日でいいよ」と言って手渡すと「恩に着る」と拝まれた。悪い気はしない。

「なんだ、苗字今日の体育すごい大人しかったから心配してたけど元気じゃん」
「えーいつも通りだったよ」
「はは、冗談きついな。いつもは地獄の業火を背に鬼のような形相で笑いながら『皆殺しだ〜!』って言ってる感じじゃん」
「待って私のイメージそんなんなの?」

やばい、さっきと同じような話の流れになってる気がする。というかドッジボールしてるときの私のイメージやばくない?この子の声が大きすぎるせいでクラス中の女子生徒がケラケラ笑ったり頷いたりしてるし。否定してくれる子誰もいないんですか、悲しい。私は皆のために頑張ってたのに!すると辞書を借りに来た友人は「あっ、あれだろ!」となにか思い出したように声を上げた。何だよまだ何かあるのか。

「苗字彼氏できたんだろ!ウチのクラスで噂になってるぜ」

ピシッとクラスの空気が凍った。一斉に複数の目がこちらを見る。私は絶句した。今、なんて。いや、こればかりは本当に意味が分からない。なんでそんな話になってるんだ。そしてなんで君はそんなに声が大きいんだ。私は勢いよく立ち上がった。

「いやいない!彼氏なんていないって!何!?どこから出てきたのその話!?ガセです!いません!えっ皆何その目!」

必死に弁明してるのにクラスメイトたちはさっきの友人のようなジト目をお見舞いしてくる。その友人はと言うと私を無視して「その話、詳しく」と辞書を借りに来た友人に詰め寄っていた。やめて、なんか怖い。嫌な予感しかしない。

「いないのか?でもウチのクラスの奴が見たって言ってたんだよ。苗字が朝、他校の男子生徒と登校してたって」

き、切島くんだー!私は思わず頭を抱えた。彼氏はいない、でも心当たりはめちゃくちゃある。多分一週間前のあれだ。私が個性のせいで泣いてしまった日の満員電車。あの日は時間がいつもみたいに早くなかったから誰かに目撃される可能性は十分にあると私も思っていた。しかもあの日、切島くんは雄英の最寄り駅を通り過ぎてわざわざ私の学校の最寄り駅まで送り届けてくれたのだ。彼曰く「苗字を満員電車で一人にする訳にはいかねえだろ」だそう。そこまでしてもらって正直頭が上がらなかった。切島くんは本当にいい人だ。

「どうなの名前?」

友人が片眉を上げ問いただしてくる。私はゆっくり息を吐いた。

「その人は、ただの友達だよ」
「ん〜?とても友達同士には見えなかったって言ってたけどなあ。だって電車内でキスしてたんだろ?公共の場ではやめた方がいいと思うぜ」
「キ、……!?」

してない!してない、けど。途端あの日の記憶が蘇った。電車が揺れて、気付けば目と鼻の先に切島くんの顔があった。鼻と鼻が触れそうだった。嫌な気はしなくてただただドキドキした。ここ一週間の私はふとした瞬間にこの記憶を思い出しては赤面して一人で悶えていた。そしてあれ以来まともに切島くんの目を見れなくなった。いつも通りに振舞っているつもりだけれどどうも上手くいかなくて、切島くんと別れた後自己嫌悪に陥る。そんな感じでここ数日ぼーっとしてることが多かったのだ。

「名前!?どうなの名前!」

きっとまた真っ赤になっているだろう私の肩を友人が必死に揺する。ああもう、私のことなんてどうでもいいでしょ。なんでそんなに食いついてくるの。ほっといてよ。切島くんは友達だって言ってるじゃん。友達の、はずなんだよ。

「付き合ってない!彼氏もいない!キ、キスもしてない!切島くんはただの友達!」

半ば自暴自棄になってそう叫んだ。友人をビシッと指差して「いい?君のクラスの間違った噂、訂正しといてよね」と言い捨てる。言ってやった。妙にすっきりした気持ちで席に座り食事を再開しようとした、けれど。

「切島?ってもしかして、雄英の切島鋭児郎?」
「え、」

何で知ってるの。驚きのあまり箸で掴んだミニトマトをぼとっと落としてしまった。友人も友人で相当驚いているらしく「まじで?切島なの?」とまた私の肩を揺すっている。教室のあちこちからも「切島ってあの?」なんて声が聞こえてくる。もしかして切島くんって有名人なんだろうか。

「あのねえ、あんた分かってないみたいだけど雄英体育祭だよ。テレビでも放送されるし普通見るでしょ。私らせっかく雄英に近いんだから狙いたいじゃん。となると、どんな生徒いるか見たいじゃん」
「女子校の生徒はキャーキャー言いたい生き物でもあるしな。ウチはあんまそういうの興味ないけど雄英体育祭は競技として面白いから毎年見てるぞ」

開いた口が塞がらないとはこのことだろう。そういえば前に切島くん本人からも体育祭で俺のこと知ったのかなって思ってた、みたいなこと言われたな。

「体育祭……見てない……」
「そんなことだろうと思った。ちなみに切島は予選突破して本戦に進んでたよ確か。ヒーロー科の中でも優秀な方なんじゃない?あんたすごいの捕まえたね」
「ええ……」

もしかして切島くんって私なんかが肩を並べて歩くのもおこがましいくらいすごい人なのかもしれない。そう思うと火照っていたはずの頬が一気に冷めていった、そんな気がした。





「あ〜……ないなあ」

カーテンの隙間から滲み出た橙色が仄かにリビングを照らしている。まだ誰も帰って来ていない我が家で一人、私はテレビに向かい合っていた。リモコンを操作しながら液晶画面を食い入るように見つめる。録画された番組の一覧が表示されたそこには私が探しているものは見当たらなかった。

「流石に消したかなあいつ……五月だったししょうがないか」
「何がないって?」
「え?うわっ!」

不意に背後から声がした。驚いて振り返ると制服姿の弟が残念なものを見るような目で私を見下ろしている。こいつ、実の姉に向かってなんて目をしやがるんだ。

「ちょっと!びっくりしたじゃん。ただいまくらい言えよ」
「姉ちゃんこそ電気くらいつけろよ」

弟は呆れたようにそう言うとリビングの電灯をつけた。途端、部屋中が人工的な光で満たされる。ああそれね、いいんだよ、姉ちゃんもう自分の部屋に行くから。

「で、俺が何を消したって?あいつって俺のことでしょ、口ぶり的に」
「ギョ」
「姉ちゃんが録画したものを消した覚えはないけど」
「いや〜別に、なんでもないっす……じゃあ私は部屋行くんで」

部屋に向かおうとテレビの電源を落とすと、弟は無言で私からリモコンを奪い取った。そして数秒目を瞑ると次の瞬間、核心に迫る単語を口にした。

「雄英体育祭?」

ギャーッと汚い声が出た。こいつ!サイコメトリー使いやがったな!私より精度が良いし使いたい時に使えるからって卑怯だ!私の記憶を勝手に見るな!

「ちょ、うるさいんだけど!叫ぶなよ。ていうかなんで今さら雄英体育祭探してたわけ?あのときは興味なさそうにしてたじゃん」
「別になんでもいいでしょ。それで消したの、消してないの!?」
「もうとっくに消したよ」

バレたからには仕方ないと開き直ったけれどもう録画は残っていないらしい。肩を落としてリビングを出ようとすれば「まあ見る方法はあるよ」という衝撃的な言葉が私を引き止めた。ゆっくり弟を振り返る。

「今なんて……?」
「見る方法はあるって。動画サイトで検索かければいくらでも出てくるよ、雄英体育祭。まあせっかくスマホ買ったのにトークアプリしか使いこなせてないアナログ人間な姉ちゃんにはそんな発想なかったんだろうけど」

動画サイト、なるほど。そんな手があったのか。皮肉部分は聞き流して礼を言うと急いで自室に駆け込んだ。ベッドの上で胡座をかいてポケットから携帯を取り出す。なんだか皆私のことを機械音痴みたいに言うけど流石に動画の見方くらい分かるからね。馬鹿にすんなよ。赤基調の某動画サイトのアプリを立ち上げて検索窓をタップした。ええと、何て検索すればいいんだろ。

「雄英体育祭……っと。うーん、切島くんの名前も入れた方がいいのかな」

切島鋭児郎、と文字を打って突然冷静になってきた。なんだかいけないことをしてる気がしてきたというか。私、すごく恥ずかしいことをしてるんじゃないかな。だってもし私が切島くんの立場だったらこれは軽く引く。……じゃあやめる?自分自身へのそんな問いかけが浮かぶ。それを掻き消すように、枕に顔を押しつけてひとしきり唸った。
私は、悔しかったんだ。だってクラスメイトの大半が切島くんのことを知っていた。私の知らない切島くんの一面を知っていた。私は彼に出会ってもうすぐ一ヶ月経つのに知らなかった。それなら私は切島くんの何を知っているんだろう。

「(いい人で……優しくて……。笑顔が爽やか、右目の瞼に小さな傷がある、別れ際はいつも手を振ってくれる、電車がすいてる時は両手でそれぞれ吊り革を掴む癖がある……)」

あれ?

「(男らしさにこだわってる、朝早くに登校して自主練してる、筋肉すごい。髪は毎朝セットしている、お父さんから貰った腕時計を大切にしている。たまにパァァってお花を飛ばしてるようなかわいい笑い方をする、私の残念な言動にも付き合ってくれる、私の言葉を真剣に受け止めてくれる。電車が、人混みが苦手な私を、守ってくれる……)」

ぽつりぽつりと心の中で呟いた言葉たちは私の中を宛てなく彷徨い消えていった。なんだ、私知ってるじゃん。切島くんの優しくてかっこいいところ、この一ヶ月だけでたくさん見てきたじゃん。それなのにもっと知りたいって思うのはなんでだろう。これってすごく欲張りで我儘なことなのかな。

「ヒーローを目指す切島くんの姿を見てみたい……」

私の父と同じ、ヒーロー。人々を救け導く存在。
はあぁぁ……、と長い溜め息をついて覚悟を決めると、私は検索ボタンをおそるおそる押した。ああ、押しちゃった。顔が熱い。きっとまた私の頬は林檎のように赤く赤く火照っている。