一度きりの夏の日に
最近苗字がよそよそしい気がする。最近、というのを具体的に言えば一週間ほど前から。そう、間違いなく苗字が泣いていたあの日以降。よそよそしいといっても目を合わせてくれないとかその程度だがそんな態度が毎日続けば日に日に俺の不安は膨れ上がっていった。揺れる車内、窓の外は鬱陶しいほどの青空で眩しい朝陽に目を細めた。
「(……今日も髪結んでんだな)」
俺の向かい側に立ち、少し俯きがちに電車に揺られている苗字はいつもならおろしている髪を後ろで一つに結えていた。所謂ポニーテールというやつで、いつもは隠れている首周りが露わになっている。昨日突然この髪型で現れた苗字に俺が目を奪われたのは言うまでもない。苗字が電車に乗り込む時に一瞬だけ横から見えた白くさらりとしたうなじを今日含め二日連続でガン見してしまったことも許されたい。苗字が言うには昨日は学校で体育があったらしく、体育の時間はいつも髪を結んでいるが昨日は暑いのもあって朝から結んできたらしい。その話を聞いた時、つい苗字の体操服姿を想像してしまったがこれも許されたい。好きな子の体操服姿とか多感な年頃の男子高校生には刺激が強すぎるだろ、少なくとも俺はそうだ。ん?俺が考えてることなんかキモい?いやでもいかがわしいことなんて考えてねえからな!?
「切島くん?」
俺を呼ぶ声にハッとした。見れば苗字が不思議そうに俺の顔を覗き込んでいる。しかしひとたび目が合うとその目はすっと離れていってしまった。まただ。あからさまに俺から目を逸らした苗字の態度に内心へこんだ。やっぱ先週のあれがダメだったんだろう。苗字を守るためとはいえあんな至近距離で密着して、まあ普通は嫌だろう。それこそ好きな人が相手でもない限り。
俺はあの時、目の前のこの少女が自分の恋人だったらどんなにいいだろうと思った。でも苗字は恋人じゃない。俺の彼女じゃない。触れたくても触れられない。あの時、どんなに近くとも俺たちの間には見えない壁が確かにあった。「友達」という関係にある以上、超えてはいけない壁だった。たぶん、苗字にとって俺はただの「いい人」だ。少なくとも悪い印象ではないはずのそれを守っていきたかったけれど、それじゃあ俺は苗字にとっての「いい人」以上にはなれやしない。それどころかここ一週間の苗字の態度を見るに俺はその「いい人」の称号さえ失ってしまったのかもしれない。それなら俺はどうすればよかったんだろう。これからどうすればいいんだろう。あの時、苗字を抱きとめた時に、ふわりと香った苗字の匂いや触れてしまった柔らかな肌の感触が、鼻に、手のひらにこびり付いてどうも残念ながら俺を諦めさせてはくれねえんだ。目を合わせてくれなくなった苗字がこのまま俺から離れていってしまっても、俺は未練たらしく苗字への想いを募らせていくことになるだろう。それくらい好きだ。名も知らない少女を車両の隅から見ているだけで満足だった想いはもう一度触れたいと渇望する欲深い感情へ変わり果ててしまった。知り合ってしまったからだ。苗字を知れば知るほど俺は欲深くなっていった。この感情はあくまで一方的で苗字にも俺のことを好きになって欲しいとまでは思ってねえけど、もし想いが通じ合ったならどんなに幸せだろうか。
「(まあ有り得ないけどな、そんなこと)」
事実、俺は今苗字から若干距離を置かれているのだから。目も合わせてくれない始末。行き場もない、消化しきれないこの感情はどうしたらいいんだ。ほんと分かんねえ。
「切島くん?大丈夫?」
気付けば再び苗字が俺を覗き込んでいた。しかしまた目が合った瞬間それはすっと逸らされる。苗字は窓の外に視線を移しながら「切島くん、さっきから心ここに在らずって感じだから」と言った。驚いた。俺から目を逸らしてるはずの苗字が俺の異変に気付いるとは思わなかったからだ。
「悪ぃ。そう見えたか?いつも通りのはずなんだけどな」
「でも浮かない顔してたよ。……何か悩み事?」
「いや、たいしたことじゃねえし苗字が気にすることねえよ。ゴメンな」
嘘だ。たいしたことあるし苗字が原因でこうなってる。でもそれを本人に言う訳にもいかなくて曖昧な嘘をついてしまった。苗字は俺の言葉を聞くと目に見えて残念そうな表情をした後「そっか」とだけ呟いて口を噤んでしまった。何を思って苗字がそんな顔をしたのか、さっぱり分からねえ。たいしたことないと言うとガッカリしたということは俺にたいしたことがあってほしかったんだろうか。いや、人の不幸を喜ぶような、苗字はそんな奴じゃないよな。俺が混乱しているのを察したのか苗字は言いづらそうに口を開いた。
「……私も切島くんの力になりたかったから」
「え?」
「いつも私ばっかり切島くんに救けてもらって、でも私は何も切島くんに返せてなくて。私に出来ること何かないかなって考えてたんだ。だから何か悩んでることがあるなら話してほしかった。話を聞くくらいなら、それなら力になれるかもって。」
苗字はそこで言葉を区切るといつものようにへらっと笑った。
「でもよく考えたら私特別聞き上手ってわけでもないしどうにもならなかったかな。あはは、なんかごめんね、余計なお世話だよね」
「そんなこと、」
そんなことねえって言いかけて言葉が詰まった。いつも通りだと思っていた苗字の笑顔にどこか影があったからだ。まるで寂しさとか悲しさを笑顔の陰に隠そうとしてるようだった。俺が話さなかったから苗字にこんな顔させちまったのか。やめてくれ、俺のためにそんな顔するのは。
「俺は見返りを求めて苗字を救けてるわけじゃねえんだ。それにそもそも救けてやってるだなんて思ってねえよ、当たり前のことをしてるだけだ。毎朝一緒に登校してるのも、この前苗字が泣いてた時引き返してきたのも苗字は救けてくれてるって思ったのかもしんねえけど全部俺がそうしたかったからそうしてんだ。だから苗字が負い目に感じる必要はねえ」
むしろ俺は苗字がそばにいるだけで毎日救われてるから、そう出てきそうになった言葉は喉の奥で留めて飲み込んだ。窓の外を見ていた黒目がちな瞳が控えめに揺れる。
「……ほんとに?」
「苗字が色々考えてくれてたことはすげえ嬉しいよ、ありがとな」
そう言うと苗字は小さく笑った。少し恥ずかしそうに。彼女を縛っていたものをこれで解くことができただろうか。分かんねえ。自信がねえ。はじめは苗字といるだけで幸せで満ち足りていたのに最近はいつもこうだ。いちいち考えを巡らせて、後になって自分の答えは、選択は、果たして正しかったかと自問自答する。そうやってがんじがらめになって身動きができなくなる。正直苦しい。夏の空へ救けを求めるように俺も窓の外へ目をやった。そこにはどこまでも開放的な青が広がっていた。
*
期末試験がすぐそこに迫っていた。なんとあと一週間しかない。そう釘を刺した相澤先生により今日の教室は期末試験の話題で持ちきりだった。中間試験の後は体育祭に職場体験と行事が目白押しだったから正直勉強にまで手が回ってない。俺は苗字のこともあるから余計にそうだ。いや、恋愛にうつつを抜かして学生の本分が疎かになるなんてあっちゃいけねえことだと分かってる。それなのにこいつは、
「例の大和撫子ちゃんを勉強に誘えばいいじゃん。どの学校もこんくらいの時期だろ、期末。テスト勉強にかこつけて図書館デートとかどうよ?名案じゃね!?」
とか言いやがるんだ、この上鳴電気という男は。
「いや、無理だ」
「んでだよ!?男らしくねえぞ切島!」
「お前こそ筆記試験やばいのによくそんな呑気なこと言ってられるよな」
「お前だって筆記やばいのは同じだろ」
「俺は爆豪が教え殺してくれるらしいから大丈夫だ」
駅に向かって歩きながら、それ大丈夫とは言わねーだろと上鳴はゲラゲラ笑った。苗字とテスト勉強、か。上鳴の提案には確かに心惹かれるものはあったが正直全く想像できなかった。だって俺と苗字は電車や駅以外の場所で会ったことがねえんだから。
「で、ホントに誘わねーの?」
「無理だって。第一、最近妙に距離置かれてるし俺……」
「お前って意外とヒクツだよな〜。気のせいなんじゃねえの?それ」
「気のせいじゃねえよ。流石にこう毎日目逸らされてると分かるって。これ以上がっついたらマジで嫌われるかもしんねえ」
「ふーん、目を逸らされるねえ……」
上鳴はあまり納得していない様子で口を尖らせ頭の後ろで腕を組んだ。
「まあいいや。ンなことより切島、今日お前ん家行っていい?」
「ウチに来んのはいいけど何すんだよ?」
「テストベンキョーに決まってんだろ!俺、一人じゃすぐ投げ出しちまうんだよ〜。なあ頼む!一緒に勉強して!」
「おう、いいぜ!」
「やった!サンキュー切島!」
上鳴と勉強してもグダグダになるのは目に見えてる。けどまあいいだろ、こいつの心意気を買おう。だらだら話しながら歩いていると駅が見えてきた。俺と上鳴は反対方向から学校に通ってきているため路線も上りと下りで反対だ。だからいつもは改札をくぐった後別れているが今日は改札を通った後も同じ方向に進む。ホームで待つこと数分、やって来た電車はゆっくり風を切って速度を落としやがて俺たちの前で完全に停止した。
「帰りにこっち方面の電車乗るの新鮮だな〜」
上鳴は扉近くの吊り革を掴むとそう言った。俺だって帰りの電車はいつも一人だからお前と電車乗るの新鮮だよ、そう言おうとしたが声帯を震わせることはなく固まってしまった。動き始めた電車の中、見覚えのある黒髪がはらりと揺れた。
苗字だ。苗字がいた。俺から見て上鳴の向こう側、上鳴が掴んでいる吊り革の一つ隣のそれを握りもう片方の手では文庫本を開いている。本に集中しているのだろう、俺に気付いた様子はなく手元の活字を目で追っている。その横顔につい見惚れてしまった。久しぶりに見た読書モードの苗字には普段の慌しさからかけ離れた落ち着きがあり、俺が一目惚れしたあの時のようにどこか憂鬱そうな顔つきでページを捲っている。ページを捲ったその手首には髪ゴムがぶら下がっていてそこで初めて朝は髪を結んでいたのに今はいつも通り髪を下ろしていることに気付いた。黒髪から覗く横顔は本当に綺麗で、最近は苗字のことかわいいとばっかり思ってたけど、そうだよな。俺が好きになった苗字はこんなにも綺麗で撫子の花のように可憐な少女だった。
「おい切島?どうした?」
ぬっと上鳴の腑抜けた顔が俺の視界に現れた。いやいや映像の切り替わりが酷すぎるだろ、そんな呑気なことを考えた次の瞬間「あっやべえ」と心の中で呟いた。切島、と言った上鳴の声に反応したのか苗字がパッと顔を上げたのが視界の隅に写ったのだ。おそるおそる視線を上鳴から外し苗字の方へ動かせばバチッと目が合った。その目は逸らされることなく、みるみるうちに驚きで丸くなっていく。そりゃ驚くよな、俺も驚いた。同じ方向から来ているのだから同じ方向へ帰るのは当然だけどなんだかんだ今まで一度も帰りの電車で苗字に会ったことはなかったのだ。とりあえず苗字に向かって軽く片手をあげると苗字は表情を崩してふにゃりと笑った。やべえなんだこれ、かわいすぎるだろ。
「えっ何、誰に挨拶したん」
完全に置いてけぼりにしてしまっていた上鳴が状況を飲み込めず後ろを、苗字がいる方を振り返る。「あっやべえ」とまた心の中で呟いた。頼む上鳴、何の説明もしてないけどこの子が俺の言っていた子だって察してくれ。そして余計なことは言わないでくれ。そう祈るような気持ちで上鳴の言動を見守ろうとした、のだが。
「あ!」
「えっ」
顔を合わせた二人が同時に驚きの声を上げた。苗字はさっき俺に気付いた時よりも更に目を見開いてまるで信じられないものを見たとでも言うような表情で固まっている。上鳴の表情はこちらからは見えない。何が起きているのか全く分からず今度は俺が置いてけぼりになる番だった。
「お前苗字?苗字だろ!?うわすっげえ久しぶり!」
「か、上鳴電気……!」
嬉々とした声色の上鳴。それとは対称的に嫌悪感を隠そうともせず忌々しげに上鳴の名を吐いた苗字。
一体何が起きているんだ。