雲をつかむような
「はー……」
机に突っ伏した俺の口から大きな溜め息がひとりでに転がり出た。こんなにクヨクヨするのは漢らしくないし情けねえ、そう分かってはいるけどこればっかりはどうしようもない。漢らしくありたいという矜恃と恋煩う心が俺の中で反発しあってその間で板挟みになって頭を抱える。正直キツい。そんな俺の向かい側で上鳴がズズッとストローを鳴らした。
「なんだよ切島。確かに期末の結果はアレだったけど俺たちも林間行けるんだぜ。溜め息なんてらしくねえな。あ、あれか?補習が憂鬱?」
「林間じゃねえんだ……最近苗字が……」
「あ〜名前ちゃんか〜。そうだよな〜切島をそんなふうにできるのは名前ちゃんくらいだよな〜、うんうん。しっかし切島の一目惚れした女の子ってのがあの苗字名前だったとはな〜」
上鳴は大袈裟に頷きながらジュースを置くと今度はポテトに手を伸ばした。そして核心を突いてきた。
「何?まだ気にしてんの?勉強会断られたこと」
そう、上鳴と苗字が知り合いだったことが判明した数日後。上鳴の後押しを受け玉砕覚悟で「一緒に勉強しないか」と苗字を誘ったのだ。そして本当に玉砕した。覚悟してたはずなのに今思い出しても泣けてくる。「ごめんね」と眉を下げる苗字の顔は脳裏に刻みついていて思い出すたびに苦いモヤモヤが胸いっぱいに広がった。
「都合が合わなかっただけなんだろ?しょうがねーよ、学校違うんだし」
「それはそうなんだけどよ、その後が問題なんだ。実は俺最近苗字から避けられちまってて。なんかしたかな俺、やっぱ勉強誘ったりしてがっついちまったから引かれたのか……?」
頭を抱える俺に上鳴は「あ〜前言ってたやつね、自意識過剰なんじゃねえのそれ」と言ってあくびをした。おい頼むから話を聞くなら真面目に聞いてくれよ。
「いや、それじゃねえ。前のは妙に距離を置かれてる気がする程度の話だったんだけど今は完全に避けられてんだよ……もう二週間近く会ってねえ。一週目はお互い期末テストがあってた週だからしょうがねえなって思ってたんだけどテスト終わってからも朝のいつもの時間に苗字が来ねえんだよ」
「は!?まじで!?それを早く言えよ!……あー、なるほどな、だから切島ここ数日うわの空だったのか」
上鳴は腕を組んでうーんと考える素振りを見せたあと「連絡は?」と聞いてきた。
「一回だけメッセージ送ったらすぐ既読ついて返信もきたぜ」
「え?そうなん?なんて言ってた?」
「『最近寝坊続きなんだ、ごめんね』って」
「そりゃ嘘だな」
「え!?マジで!?なんで?」
「嘘だろ絶対、名前ちゃんの個性を考えると遅い時間に登校してるってのはありねえだろ。切島が素直すぎんだよ」
そうなのか?真偽はともかく俺は嘘つかれてまで苗字から避けられてるかもしれねえってことか……?うわ、すげえヘコむ……というか苗字の個性、俺は詳しくは知らねえけど上鳴は昔馴染みらしいしやっぱ知ってんだな。
「っていうかさっきから気になってたんだけどお前苗字のこと名前で呼ぶんだな」
「俺にとって苗字っつったら弟の方だからな。姉の方は名前で……ってそんなことはどうでもいいんだよ!とにかく、なんでそこまでして名前ちゃんが切島を避けてんのか俺にもよく分からねえな。この前見た感じだとお前らけっこうイイ感じに見えたし」
「慰めはいらねえよ」
「いやマジだって!とにかくあれだ。切島!俺がお前のために一肌脱いでやる!」
「上鳴……!ありがとな!俺もへこんでねえで頑張るぜ!」
夕方のファストフード店で場違いな熱い握手を交わす。持つべきものは友だな。上鳴はまた腕を組んで考える素振りを見せると俺に向き直った。
「切島、お前の言ってた大和撫子ちゃんが苗字名前だって判明した時から思ってたんだ。お前、名前ちゃんの個性のこと把握してねえんだよな?」
「?詳しいことは知らねえけど……、それがどうした?」
「率直に言う。それはマズい、今すぐ知るべきだ。いいか、あいつの個性は、」
「ま、待て!苗字は個性のこと知られたくなくて俺に隠してたっぽいんだよ!それなら俺は聞きたくねえ。聞かねえぞ!」
咄嗟に耳を塞いでそう言った。苗字の個性、すごく気になる事ではある。でも俺は苗字の意思を踏みにじるようなことはしたくないし尊重したい。だから聞かない。上鳴は「俺、切島のそういう律儀なとこ好きだけどほんとこれはマジでそれを抜きに話を聞いてほしい!お前のためだから!」と必死に訴えてくる。しかしその直後ハッと何かに気がついたように固まった。
「いや、待てよ……俺も詳しくは説明できねえかも、複雑な個性だし。それなら、そうだな」
上鳴はスマホに目を移し時間を確認すると再度俺に目を向けた。な、なんだよ。苗字の個性の話なら聞かねえからな。そう身構えたのだが上鳴の口から出た言葉は全く違うものだった。
「切島、名前ちゃんから避けられてる現状をなんとかしたいよな」
「?おう、当たり前だ。……このまま夏休みに入るのはまずいと思う」
あと一週間もすれば夏休みに入ってしまう。そうなると一ヶ月以上苗字に会えなくなってしまうのだ。このままの状態でそうなってしまうのはまずい、と俺は焦っていた。避けられている状況が続いたまま夏休みに入ってしまえば一ヶ月はおろかもうこのまま苗字に会うこともなくなってしまう気さえしていた。いっしょに登校するだけの関係さえ自然消滅してしまったら俺はもうどうすればいいか分からない。苗字への想いを簡単に断ち切れるはずもない。俺に向けられる柔らかな笑顔を知ってしまったから。
「こうなったら最終手段だ」
上鳴はニヤリと笑うとスマホを操作しどこかへ電話をかけ始めた。何度目かのコール音の後相手が電話に出たらしく上鳴はすこぶる機嫌の良さそうな声を上げる。
「もしもし?今ヒマ?……あーそうだよな暇なわけねえか悪ぃ悪ぃ。でも少ーーしでいいから時間作って俺んとこ来てくんね?雄英近くでハンバーガー食ってるから。すぐ来れんだろ?……え、嫌?そこを頼むよマジで!」
相手の声は聞こえないが上鳴の口ぶりからすると誰かをここに呼ぼうとして押し問答しているようだ。苦戦しているようだが上鳴の声色は一貫して楽しげで一体誰と話してんだとストローに口をつけながら首を傾げる。しばらくした後、上鳴は「来てくれるよな!じゃ、よろしくな!」と言って電話を切った。一方的に会話をぶった斬ったように見えたけど大丈夫なのか?
「誰を呼んだんだ?」
「さっきも言っただろ。最終手段だ。俺とっておきの隠し球」
そう言って胸を張る上鳴だが何となく信用ならない。
「まさか苗字じゃ……」
「名前ちゃんじゃねえぞ!何故なら俺は名前ちゃんから着拒されている!」
「いや、それ胸を張って言うことじゃねえだろ!この前のお前に対する苗字の態度を見た時にも思ったけどお前苗字に何したんだよ」
「え〜俺何もしてねえよ?」
上鳴はあっけらかんとそう言って「でもな〜んか昔から名前ちゃんに嫌われてんだよなあ、俺」と肩をすくめた。さして気にもとめてないようなその様子に「上鳴が気付いてないだけで苗字を怒らせるようなことをしたんだろうな」と直感する。俺、こいつを頼っていいんだろうか、ちょっと不安になってきた。
それからだらだらと駄弁り続け時計の針が一周まわった頃だった。上鳴のスマホが小さく鳴った。画面を覗き込んだ上鳴が「おっ」と声を上げる。
「着いたってさ!」
「2階に来い……っと」そう呟きながら上鳴はスマホに文字を打ち込んでいる。相手に連絡を入れているのだろう。結局誰を呼んだのか聞かされていない俺は「そうか」と適当な相槌を打つことくらいしかできない。上鳴はスマホから顔を上げた。
「んな緊張すんなよ!切島なら初対面の奴にいきなり会わせても平気だろ」
「いや別に緊張はしてねえよ。ただ何の説明もないままだからお前の意図が読めねえっていうか」
「それは会えばすぐに分かるぜ。まあちょーっと取っ付きにくい奴ではあるけど根は良い奴だからよろしくな!」
会えばすぐに分かる?どういう事だとまた尋ねようと口を開きかけたが頭上から降ってきた不機嫌そうな声にそれを阻まれた。
「取っ付きにくい奴で悪かったですね」
顔を上げると俺たちのテーブルの側にシンプルな学生服を着た少年が立っていた。オニキスのような黒髪に黒い瞳、凛々しく精悍な顔立ち。思わず息が漏れる。これは間違いなく学校で女子にキャーキャー言われているタイプの人種だ。少年は目鼻立ちの整った端正なその顔を不機嫌そうに歪ませて上鳴を睨みつけている。俺はついその横顔をまじまじと見つめてしまった。何故だか目が離せなくなってしまうその感覚は苗字を初めて見たときのそれに少し似ていた。
「うわ!いきなり現れんなよ。いやそうじゃなくて、悪ぃ悪ぃ。来てくれてありがとな!いや〜それにしても久しぶりだなー!」
そう言って上鳴は少年に笑顔を向けた。しかし少年は相変わらず不機嫌そうな顔つきで眉間に皺を寄せている。
「いきなりなんなんすか。俺受験生だし暇じゃないんすけど」
「お前にしか頼めないことがあってな。とりあえず座れよ」
「出来れば今すぐ帰りたいし手短に済ませてもらいたいんすけど」
「んなつれねえこと言うなよ〜〜大先輩の頼みを聞いてくれよ〜〜新作のハンバーガー奢るから!」
上鳴は立ち上がって少年と肩を組むと「なっ?なっ?」と更に彼に迫る。少年はというと本気で嫌そうな顔をして「うわっやめろよ」と言い上鳴を払いのけようと身を捩らせた。敬語抜けちまってるよ、見たところ上鳴の後輩らしいけど。なんというか、良くも悪くも裏表のなさそうな奴だという印象を受ける。それにしても上鳴、まじで人望ねえんだな。しかし押し問答を繰り返しもめている二人の様子は茶番じみていてじゃれあっているようにさえ見える。何だかんだ仲は良いんだろうな、とぼんやり二人を見ていると視線を感じたのか少年がふとこちらへ顔を向けた。うわ、正面から見るとまじで綺麗な顔してるな。
「(ん……?)」
そう思った直後小さな違和感を覚えた。既視感っていうんだっけ?会ったことはないはずなのに何故だろう……顔立ち、特に目……黒目がちな瞳……何かを思い出そうとして自分の脳内を駆けずり回る。その刹那、少年は俺と目が合うや否や気怠げだった目を見開いた。
「切島さん……!?」
「えっ」
さっきまでのクールな雰囲気はどこへ行ったのか目を輝かせて身を乗り出してくる少年。突然のことに呆気に取られてしまい俺はポカンと口を開けていた。
「切島鋭児郎さんですよね?雄英体育祭見ました!男らしい戦いっぷりすげえかっこよかったです!俺あれ以来もうすっかり切島さんのファンで……これからも応援してます!……えってかなんで切島さんがこんな所に?」
そうまくし立てた後彼はこてんと首を傾げた。クールな印象が強かったけど笑うと年相応のあどけなさがあるんだな、そう思った次の瞬間、目の前の少年の表情と苗字の表情が脳裏で重なった。「あっ!」と声を上げる。少年は更に首を傾げ、そんな彼の横で上鳴がニヤリと笑った。
「気付いたか切島。すげえ似てんよな。男版の苗字名前だよこいつは」
「は?なんの話すか」
「お前俺と切島に対する態度違いすぎない?」
上鳴が口を開いた途端少年はまた眉間に皺を寄せた。上鳴への当たりの強さまで似ている。それがなんだかおかしくてひとしきり笑った後、とりあえず、と俺は口を開いた。
「あー、体育祭見てくれてありがとな。そう言って貰えて嬉しいぜ。苗字の弟、でいいんだよな?」
*
口に含んだジュースの味はだいぶ薄くなっていた。それを飲み干すと正面に座っている苗字の弟に改めて向き合う。……本当によく似てんなあ。弟の方が苗字に比べ顔つきが凛々しいからか最初は気付かなかったが顔のパーツ、特に黒目がちな瞳なんかは苗字そのものだ。事の成り行きを上鳴から聞かされた苗字の弟は信じられないと言いたげに眉をひそめた。
「あの切島さんがうちの姉と知り合いってことも俄に信じ難いのに更には一目惚れの相手だなんて、冗談っすよね」
「ところがホントなんだな〜これが。な、切島」
「おう……」
「まじすか……」と苗字の弟は目を丸くした。情けないことに顔に熱が集まってくるのが分かる。なんで俺は好きな子の弟に初対面でこんな自白をさせられているんだろう。いや、でも上鳴が苗字の弟をここに呼んじまった以上なりふり構ってられねえよな。腹を括った俺に苗字の弟は「あの……」と眉を寄せた。
「切島さんの気持ちは変わってないんですか?姉と知り合った後で幻滅しませんでしたか」
「どういう意味だ?」
「……うちの姉、見た目と中身のギャップが凄まじいですから。一目惚れっていうくらいだから初めは外見だけで恋愛感情を抱いたってことですよね。その後あれの残念さを知ってしまうと普通幻滅すると思うんですが」
「んー……たしかに話してみると想像してたよりすげえ賑やかな奴で驚きはしたけどそれだけだな。むしろ俺は苗字のそういうところも好きっていうか……。昨日はあんな事があってこういうところがすごく面白かったんだよ、とかそういうの、一生懸命話してくれる苗字がめちゃくちゃかわいくて。俺の一挙一動にいちいち反応くれんのもかわいいしすぐ赤くなんのもほんとかわいいし……ってなんだよお前ら、その目は」
気づけば苗字の弟も上鳴も俺にジト目を向けていた。机に頬杖をついた上鳴が気の抜けた声を上げる。
「切島ぁ、お前さあ、早く告っちまえよ。そんでさっさと付き合っちゃえば、名前ちゃんと」
「いやお前俺の現状知っててそれ言うか?無理だろ!」
「つか誰の話してんですか……それ本当にうちの姉ですか……あれ中身はオヤジですよ。フィルターかかってるんじゃないですか」
「正真正銘お前の姉の話だから!」
苗字の弟は短く溜め息ついた。そして「今日俺を呼んだのは協力を求めてきたってことっすよね」と苗字と同じ瞳を真っ直ぐこちらへ向ける。話が早くて助かるな。俺は首を縦に振った。まあ勝手に上鳴がしたことなんだけど。
「そういうわけで聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「はあ、まあ俺が分かる範囲でなら」
「恩に着るぜ……!」
「じゃあさっそくだけど質問な。最近名前ちゃん朝どうしてる?いつもの時間に家出てる?さっきも話したけど切島ここ二週間くらい急に訳もわからず名前ちゃんから避けられ始めてお手上げ状態だからさ」
上鳴はいきなり核心をつくところから切り出した。思わずゴクリと唾を飲む。
「朝?いつも通りすね。あの人いつも俺が起きる頃には家を出てるんすけどそれは変わりないです。まあ俺が起きる頃には、の話なんであてにはならないんすけど」
「だってさ切島、寝坊ってのは嘘だな」
「まじか……」
これはかなりヘコむ。嘘をつかれてまで避けられてることが確定してしまったのだから。それにしてもそれなら苗字はどうやって登校してんだろ?別の車両に乗ってるのか電車を数本ずらしてるのか……。苗字の弟の隣で「謎が深まったな……」と上鳴も腕を組んで唸っている。
「他に最近名前ちゃんに変わった様子あったりしねえ?」
「あー……ありますね、ここ二週間くらい妙におとなしいんすよ、姉」
「!その話詳しく聞かせてくれ」
「はあ。うちの姉、家ではいつも以上にマイペースで傍若無人で残念っぷりにも拍車がかかるんすけど最近は妙におとなしくて。話しかけてやってもうわの空だし、目に見えて何か落ち込んでるんすけど何かあったのかって親が聞いても何も答えやがらねえので原因は分からないです。姉が姉じゃないみたいで気持ち悪いし最初はまたどこかで他人の感情貰ってきたのかと思ったんすけど姉の場合、個性による感情の同調は一過性のものだしこんなに長続きする訳ねえなって」
苗字の弟はそう言って肩をすくめた。少しでも現状打破の糸口になりそうな情報がもたらされたことに心が軽くなった気がしたがそれ以上に引っかかる言葉があった。
「個性による感情の同調……?」
首を傾げる俺に上鳴が「あ〜そうだった。そのへんの説明俺には難しいからお前を呼んだんだったわ」と相槌を打った。
「は……?もしかして切島さん、姉の個性知らないんですか」
「ああ、知らねえけど……」
俺の返答を聞くや否や苗字の弟は「あー……まずい。それはまずい……」と視線を宙に泳がせた。
「俺てっきり切島さんは姉の個性を知ってる上で姉に接していたもんだと思ってました。そうか、それは……それはまずいな……」
「だよなあ、まずいよなあ。それなのに切島、頑なに話聞いてくれなくてさ。まあ名前ちゃんの意思を尊重したいって切島の主張も正論なんだけどな」
「な、なんだよ。そう言われたって俺は聞かねえからな!」
そう言いはしたものの俺の中には疑念が生まれつつあった。何せ少しだけだが聞いてしまったのだ。個性による感情の同調、その言葉に確信めいた仮説が浮かび上がる。いや、まさかな、そんなはずはねえよな。そう自分に言い聞かせる。向かい側で小さく息を吐く音が聞こえた。
「じゃあ、何がまずいのか、だけ聞いてください。率直に言います。切島さんの、うちの姉に対する感情はそのままあの人に伝わってる可能性があります。そういう個性なんで。まあ本来可能性は高くはないはずなんすけどここ最近の姉の態度との辻褄は合ってしまいますね」
俺のためを思った優しさ故の苦い言葉だった。そんな現実を案外すんなり受け入れた自分がいた。心のどこかで覚悟していたからだ。だからといって平然としていられるわけでもない。またしても顔が熱くなると同時に胸の奥がキリキリと痛んだ。