甘くて苦い


「はあ……」
「うわ、怖っ。姉ちゃんが溜め息ついてる。明日雪降るわ」

向かい側に座り、信じられないものを見たとでもいうような表情の弟を私はキッと睨みつける。そしてテーブルの下で足を伸ばしその椅子を蹴った。

「うるさい。私だって溜め息くらいつきます。それより手止めないで勉強しろ受験生、ヒーロー科受けるんでしょ」
「うわあ!危な、後ろに倒れるところだったじゃん!このゴリラ!」
「誰がゴリラだ!可憐な女子高生だっての!」
「こらこら、二人とも止めなさい。それから机の上片付けて。ご飯できたから」

母親が呆れ顔で仲裁に入る。私と弟は年子の姉弟で、歳が近いこともあって普段から小さな喧嘩が絶えない。晩の食卓でこうしていがみ合うのもいつもの光景だ。私はフンと鼻を鳴らすといただきます、と箸を取った。

「いいよね、アンタは父さんの個性だけで」
「こら名前、そういう言い方はよしなさい。母さんに失礼だろ」

弟へ向けたその言葉は父親から咎められる。確かにその通りなのだが、その母から受け継いだ個性のせいで絶賛悩み中の私は唇を尖らせそっぽを向くことしかできなかった。

「姉ちゃん何か変な感情でも貰ってきたんじゃねえの?図太い性格してるからいつもは個性の影響受けた後も少し経てば元通りでケロッとしてるのに、今日はやけにずっとカリカリしてるし」

弟はたまに鋭いことを言う。まさに図星でギョッとした私は返事をせずに白米を喉にかきこんだ。「そうなの?」と心配そうに顔を覗き込んでくる母に「何言ってるの?超いつも通りじゃん!」と答える。

「そう?本当に大丈夫?お母さんも若い頃、この個性で色々悩んだから……何かあったら言うのよ?」

母は自分も個性で悩んだ経験があるからこそ私を心配しているようだった。私は「大丈夫だって!」と強引に話を終わらせて、残りのご飯を光の速さで胃に流し込むと「ごちそうさま」と手を合わせ逃げるように二階の自室に駆け上がった。バタン!と勢いよく閉まった扉の音が耳に残る。

「あ〜〜〜〜〜、もう!」

私はベッドにダイブすると顔を枕に押し当てて喚いた。そのまま手や足をジタバタさせる。心の中のモヤモヤを外に押し出すようにしばらくそうしていると少し気分が落ち着いてきた。そこで、体を起こしベッドの上で体操座りをする。先程弟から似合わないと笑われた溜め息をもう一度ゆっくり吐き出した。私が今、こんなにも悩んでいる原因は今日出会った男の子にある。

「……切島くん」

誰もいない部屋でポツリと彼の名前を呟いた。今日、私が腕時計を届けた彼は結論から言うとめちゃくちゃいい人だった。いや、本当に。しつこいようだが本当にいい人だった。明るく元気で爽やか、そして情に厚い。絶対友達多い。男の子との接し方がいまいちよく分からない私でもすごく話しやすいと感じたくらいだ。私は度重なる失態のあと猫をかぶるのに疲れてきて途中からほとんど素で接していたが、彼は素の私に引かず気さくに接してくれた。そして最後に、人混みが苦手だという私の事情を知ると「それなら今度また電車で会ったらその時は俺と話そう」なんて言ってきたのだ。いや、いい人過ぎない?今日初めて会った他人のためにそこまでできるっていうその原理はなんだかヒーローみたいだ。

「はあ……」

それなのに何をこんなに悩んでいるのかというと、おかしいのだ。切島くんと一緒にいると妙にドキドキする時があった。そして時折それはギュッと心臓を掴まれたような痛みにも似た感覚となって私を襲った。そう、まるで恋のような。でも腑に落ちなかった。だって相手は初めて会った人だ。いくら女子校に通っているからって男兄弟だっているし、友人の手伝いでナンパ男の相手をすることもある。接し方が分からないだけで全く男慣れしてない訳ではないのだ。ちょっと優しくされただけで恋をしてしまうほど軽率じゃない。

つまり私はこの感情が本当に自分のものかどうかを疑い、悩んでいた。

なにしろエンパスなんていう個性を持っているのだ。この個性は私の場合、サイコメトリーと併発した時は残留思念に宿ったありのままの感情を、エンパスのみの時は主に周囲の人間の負の感情を吸収する。そして例外もあって、負の感情以外でも、より強い感情であればあるほど私の個性はそれを感じ取り同調するのだ。まあそれに値するほどの強い感情なんて日常生活の中にそうそうないので例外、というわけだ。つまり切島くんと一緒にいるときのドキドキが私の感情ではないとしたら、これらから導き出される仮説は、

そこまで考えて「いやいやいやいや」と首を降る。もうずっとこれを繰り返していた。だってそれこそ有り得ない。切島くんが私のことを好きだなんて、それも私に感情が伝染ってしまうほど熱烈に。仮説だとしても彼に失礼すぎる。謝れ名前。すみませんでした。しかしそれを否定するならあの感情はどこから来たというのだろう。やっぱり私のものなのだろうか?私は切島くんのことが好き?気になっている?分からない。全然分からない。こうして答えを出せずに思考回路はまた始めに戻ってぐるぐると同じ道を辿り続ける。普段あまりにも能天気な私がこんなに悩み、考えることは珍しかった。

そうして考え疲れた私は思考の海に意識を沈め、眠りに落ちていった。





「また雨かあ」

静かな朝。窓の外、しとしとと空から落ちてくる光の雫を見上げそう呟く。昨日は晴れていたのにな。制服に袖を通した後、鞄に荷物を詰めていると途中で手が止まった。読みかけの文庫本。やだな、何を期待しているんだろう。それを掴み一瞬止まった手を鞄の中にねじ込む。彼は「また会ったら話そう」と言ったのだ。イフだよイフ。会わなかったら話せないじゃん。やっぱり気を紛らすための本は持っていないとダメなのに、手を止めてしまったのは少しでも彼に会えるという期待があったのかも。

またぐるぐると考え込みそうになった私は「いや、難しいことを考えるのはよそう」と開き直った。まだ誰も起きていない家を出て駅に向かう。雨はあまり好きじゃないけど傘に落ちる雨音を聴くのは好きだ。でも残念なことに今日の雨は粒が小さい霧のような雨でその音さえ聴こえない。ああもう、やだな、じめじめしたこの湿気。額に張り付く前髪を払いのけ手櫛で髪を整えながら駅のホームでいつもの電車が来るのを待った。遠くから電車特有の機械音が一定のリズムを刻みながら近づいてくる。ゆっくり停車した目の前の車両の中でよく目立つ赤がチラついた。

「苗字、おはよう!」

扉が開くと待ってましたと言わんばかりに爽やかな笑顔が私を出迎える。びっくりした。彼はまるで私に会えることが分かっていたようだったから。

「おはよう、切島くん」

私も笑顔を返す。扉の側の壁に背中を預けると切島くんはその向かい側に立ち、吊り革に掴まった。なんかこう、正面に立たれると背高いなあ、男の子だなあって改めて気付かされる。そうやって切島くんを見上げているとバチッと目が合い彼は気まずそうに目を逸らした。私も慌てて足元の、ローファーのつま先辺りに目をやる。ドキドキ。心臓が煩く動き始めた。あ、これだ、始まった。

「今日、蒸し暑いよな」
「雨だもんね」
「まだ人少ない時間だからいいけどな」

切島くんの言葉に私は「そういえば、」と口を開く。

「切島くんはなんでこんな早い時間の電車に乗ってるの?」
「え、俺?」

昨日彼は以前にも何度か電車で私を見たことがあったと言っていた。それなら割りと日常的にこの時間の電車に乗っていたはずなのだ。私の問いかけに切島くんは「あー……」と唸って視線を宙に漂わせた。

「あー、その、なんだ。早く学校行って自主練してんだよ」
「自主練?部活とか?」
「いや、筋トレしたり個性使ったり」
「個性?」

どうして個性を使うことが自主練になるんだろう。というか個性の使用って大体どの学校も禁止してるような。どうも会話が噛み合っていない気がして首を傾げると、彼も眉を寄せて少し首を傾げた。

「苗字、もしかして知らない?」
「えっ、何を?」
「俺、ヒーロー科なんだよ。雄英の」

ヒーロー科。雄英の。その言葉を脳内で反芻した。雄英のヒーロー科、雄英の……

「ええーーーー!?!?」

そこが電車の中だということも忘れて私は声のトーンを上げてしまった。慌ててハッと両手で口を塞ぐと周囲を見渡し軽く頭を下げる。うるさくしてすみませんでした。やばい、今の。口を塞ぐ所まで含めて完全にリアクション芸だったし女子校のテンションだった。気持ちを切り替えるために短く息をついて切島くんを見上げると彼は苦笑いを浮かべていた。だめだ、流石に引かれてる……

「ご、ごめん」
「いや、俺もそんなに驚かれるとは思わなくて。苗字知ってるかと思ってたし」
「知らないよ……!めちゃくちゃすごいじゃん雄英のヒーロー科!というか逆になんで知ってると思ったの?」
「だって苗字、俺の名前知ってただろ。だからてっきり雄英体育祭見てたんだろうなって思ってた」
「あ〜、なるほど、雄英体育祭か。そういえば今年は見てないなあ」

弟は知り合いが出てるとか何とかでずいぶん熱心に見ていた気がする。そうか、ヒーローか。切島くんの行動原理をヒーローみたいだと思っていたけどまさしくそのヒーローを志している人だったとは。なんだかとても納得した。

「切島くんならきっと立派なヒーローになるんだろうなあ」
「……なんでそう思う?」
「いい人だから!私が個性で困ってるの知って、話し相手になってくれてるでしょ。出会ったばかりの、ほぼ赤の他人の人間にここまで親切にできるってすごいと思う」

私は本心からそう言ったのだけれどそれを聞いた切島くんは眉を下げて困ったように笑った。

「嬉しいけど、俺は多分苗字が思ってるほどいい奴じゃねえよ」
「いやいや、そんな謙遜しなくても、」

謙遜しなくてもいいのに、と言おうとした。でも切島くんが真剣な眼差しで私を見つめるから途中から言葉が出てこなくなった。「それに俺、」と切島くんが続ける。何、どうしたの。何を言われるんだろう。急にまた煩くなった心臓の音が全身を駆け巡る。

「それに俺、苗字のこと赤の他人だなんて思ってない」

ねえ切島くん。これはどっちの感情なのかな。私のものなのかな。それとも耳まで赤く上気させて私を見つめる君の感情なのかな。やっぱり分からない。分かることは心臓が煩いこと、私の顔にも熱が集まってきていること。そして心臓じゃない、胸のもっと奥の方。そこにある心がギュッと締め付けられたこと。