糸雨ゆらめく


「結局来ちまった……」

まだまばらにしか人がいない駅のホームで独り言をこぼす。霧のような雨がホームを包み辺りは霞みがかっていた。昨日の奇跡のような出来事から一夜明けた朝。たぶんまだそわそわしていたんだろう、目覚まし時計も使わず目が覚めた。俺、朝は弱い方なんだけどな。「また電車で会ったら俺と話そう」と昨日勇気を振り絞ってそう言った。そうは言ったが昨日の今日で早速会ってしまうのはまずいだろうか、そんな不安が俺の中にあった。もうちょっと、なんか、駆け引きじゃねえけど押してばかりじゃなくて一歩引いてみることも必要な気がする。例えば数日置いてから会うとか。だってそうしないと俺の好意バレバレじゃんか。

そう思いながらも結局、いつもの時間の駅に来ていた。あ〜クソ、くよくよ悩んでダメだな俺。ここに来て尚迷っている。でも駆け引きなんてできるほど器用じゃねえしだったら男らしく正面からぶつかるしかなくねえか?苗字は気付いてねえみたいだけど、もともと毎日同じ電車の同じ車両に乗ってたんだ。いつも通りだ。昨日までと違うことはもう見てるだけじゃなくて話しかけることができるってこと。うわ、改めて考えたらこれすごくね?昨日の俺よく頑張ったな。

腹を括った俺は深く息を吸って吐いた。遠くから電車の音が近づいてくる。よし、大丈夫。今日は時間に余裕があったからいつもより念入りに髪をセットしたし、昨日苗字と話してみて思ってたよりずっと話しやすい奴だってことも分かった。まあ本人を前にすると心臓がのたうち回ってそれを隠すのに必死になるけどそれはそれだ。決意を固め電車に乗り込むと車両内は外より蒸し暑くてこれ通勤ラッシュの時間帯だとやばいだろうなって思う。扉のそばに立ち景色が流れていくのを眺めているとあっという間に苗字の最寄り駅についた。徐々に速度を落とし停車する電車の窓越しに見慣れたセーラー服が目に入る。

「苗字、おはよう!」

俺達の間を隔てていた扉が開くと同時に挨拶を投げかける。向こう側にいた苗字はそれに驚いたらしく目を丸くした。それからすぐに「おはよう、切島くん」と言って笑顔を見せる。そんな笑顔にさえいちいち心臓が跳ねるからそれを顔に出さないよう必死に歯を食いしばる。電車に乗り込んだ苗字は壁に背を預け、俺は向かい側で吊り革掴まった。そういえば昨日はほとんど横に並んで話してたからこうやって正面から向かい合うことはあまりなかった。向かい合うだけで苗字の顔がだいぶ近くにあるように感じてもうやばい。俺より少し低い位置にあるその顔を見下ろすと苗字も俺を見上げていて視線がぶつかる。思わず顔を逸らしてしまった。いや、無理だこれ。最後まで心臓が耐えられる気がしない。今日の苗字はこの霧のような雨のせいかしっとりと肌や髪が濡れていてどことなく色っぽい雰囲気を纏っていた。本人を目の前にこんなこと考えてるとか万が一知られたらマジで引かれるだろうだけど、白い肌に張り付く湿気を帯びた黒髪がなんかもう、すげえエロい。気を紛らすように「今日蒸し暑いよな」と言うと苗字は「雨だもんね」と窓の外に目をやった。そして彼女は「そういえば、」と続ける。

「切島くんはなんでこんな早い時間の電車に乗ってるの?」

今日だけでなく今までのことも含めてそう聞いたのだろう。正直に答えると苗字に会うためだけどそんなの口が裂けても言えねえ。咄嗟に自主練してる、と答えた。実際学校に着いたらいつもそうして過ごしてるから何も嘘はついてない。

「自主練?部活とか?」
「いや、筋トレしたり個性使ったり」

俺の返答に首を傾げた苗字に俺も疑問を覚えた。なんか会話が噛み合ってない気がする。もしかして、と思い「苗字、もしかして知らない?」と聞くと彼女は「何を?」と言い、本当に何を聞かれているのか分かっていない様子だ。そこで俺が雄英のヒーロー科だということを告げると彼女は俺を見上げたまま数秒固まり、驚きの声を上げた。俺だって驚いた、俺の名前を知ってた時点でてっきり俺がヒーロー科だということも知ってるものだと思っていたから。電車で大声を上げてしまった彼女はバツが悪そうに肩をすくめた。そんなに驚かせてしまうとは思わなくて、なんか悪いことしたなって気分になる。でもしゅんとする苗字もかわいいとか思っちまうから俺って酷い奴かな。

「切島くんならきっと立派なヒーローになるんだろうなあ」

苗字は「雄英のヒーロー科!すごい!すごい!」と目を輝かせた後、へらっと表情を崩してそう言った。なんでそう思うのか聞けば彼女はまた目を輝かせ俺を見上げる。

「いい人だから!私が個性で困ってるの知って、話し相手になってくれてる。出会ったばかりの、ほぼ赤の他人の人間にここまで親切にできるってすごいと思う」

普通ならそう言われて悪い気はしないだろう。でも相手が苗字だから、俺は困ったように笑うことしかできなかった。まず俺はいい奴なんかじゃない。完全に下心があって苗字に近づいているし、さっきだって濡れた肌がなんとなくエロいとか、健全な男子高校生の目で苗字を見ていた。

「嬉しいけど、俺は多分苗字が思ってるほどいい奴じゃねえよ。それに俺、」

それともう一つ、苗字が言った「ほぼ赤の他人」という言葉が引っかかっていた。確かに昨日初めて接点が生まれたばかりだし苗字にとって俺はまだそれくらいの位置付けなのかもしれない。二ヶ月の間名前も知らない女子に片想いしていた俺からするとそれは距離感を感じる苦い言葉だった。今はまだ電車で会ったら話すってだけの関係だけど、それでも苗字にとっては他人なんだろうか。俺はまだ苗字にとっての知り合い程度にもなれてないんだろうか。

「それに俺、苗字のこと赤の他人だなんて思ってない」

そんな気持ちからか気付けばそんな言葉が口をついていた。言った直後にその言葉の恥ずかしさに気付き、瞬く間に熱が体を駆け巡る。馬鹿、何言ってんだ俺。もうこれ半分「苗字に好意を寄せてます」って言ってるようなものだ。顔が熱い。何か弁明しようと焦るが、上手い言い訳が出てこない。もうダメだこれ、詰んだ……。苗字は俺の言葉を少しずつ理解したのか、徐々に頬を色付かせた。そして赤く瑞々しい唇をギュッと引き結び足元に視線を落とす。まさかの反応、その表情に心臓がより一層うるさくなった。なあ、なんで、苗字がそんな顔すんの。

「……」
「……」

お互い顔を赤くしたまま沈黙。何か言わなきゃとは思うけど苗字の表情に釘付けになってそれどころじゃない。「……それって、」と鈴のような声が鳴る。先に沈黙を破ったのは苗字だった。

「それって、私、もう切島くんの友達くらいにはなれたってこと?」

上目遣いでそう問う苗字にグラッときた。それ無意識にやってるんなら相当ズルい。

「そ、そうそう!俺らもう友達だろ。少なくとも俺はそう思ってたから、他人なんて言い方水臭くね?って言いたかったんだよ」
「そっか、よそよそしくてごめんね」

なんとか上手く言い逃れることができたと安堵する俺に対し苗字は申し訳なさそうに眉を下げる。でもその声色はどことなく明るかった。

「そっかあ、友達か。私、男の子の友達って切島くんが初めてだ」

嬉しそうに眩しく笑う苗字。その笑顔に改めて好きだと思い知らされた。





「はあ!?それマジで!?」

放課後、上鳴に誘われてやってきた学校近くのファストフード店で苗字とのことを話すと上鳴は身を乗り出して声を荒らげた。

「なんで!?なんでそんなことになったわけ!?」
「いや、ここ二日だけで色々ありすぎてどこから説明したらいいか……」

そう言いながらも昨日からの出来事を掻い摘んで話すと上鳴はジュースのカップを握りつぶしながら「前世でどんな徳を積めばそんなラブコメ展開的な奇跡が起きるんだよ……!」と歯ぎしりした。ごめん半分くらい何言ってんのか分かんねえわ。

「で、どうなん?」
「どうって、何が?」
「彼氏だよ!まずはその子に男がいるか確認しなきゃだろ!」

上鳴の言葉に俺は飲んでたコーラを吹き出しそうになった。

「ばっ、お前!そんなんいきなり聞けるわけねえだろ!」
「いやでも聞かねえとその子に男いたらどうすんだよ。あのなあ、切島。女子校のカワイイ子は大抵他校に男がいるもんなんだよ」

何故か悟りを開いた表情でしみじみとそう言う上鳴。お前今までに何があったんだよ。いやでも確かに、苗字みたいなかわいい子を世の男がほっとくとは思えねえ。苗字に彼氏か。想像したくない。ああなんか急に不安になってきた。

「男の気配はない……気がするけど」
「気がするだけかもだろ」
「男友達は俺が初めてって言ってたし」
「チェリーボーイは『初めて』って言葉に弱いんだよな〜、やるなあ、その子。切島弄ばれてんなあ」
「うるせーな!余計な世話だっつの!」

上鳴はポテトをつまみながら「わりーわりー」と笑った。一ミリも悪いなんて思ってねえだろ。

「お前その様子だと連絡先も聞いてないだろ」
「連絡先……!?」

は?待って、連絡先って。それは無理だろ。だって昨日初めて話したんだし。流石に出会って二日目で連絡先とか彼氏の有無を聞くのはがっつきすぎじゃねえか?いやそれともそれくらい普通で俺がチキンなのか?ああもうこれ、わっかんねえ。苗字と話せるようになっただけで浮かれてた俺が馬鹿みてえだ。

「他校だからいつも一緒にいられる訳じゃねえし連絡先くらい知っとかねえとアプローチできねえだろ」
「……そうだな」
「次その子に会うときの課題だな」

上鳴の言葉にぐうの音も出ない。確かに、その通りだと思った。くそ、聞けるかな、俺。でももし連絡先を聞くことができたらいつでも苗字と話せるんだよな。それはすごい魅力的かも。

「まあ俺は応援してるから。頑張れよ!」
「おう、ありがとな」

ニヤニヤ笑って俺を激励した上鳴に礼を言ってコーラを喉に流し込んだ。