ベッドルーム・ノイズ




いつから自分がここにいるのか、もう思い出せなくなってしまった。覚えているのは自分の名前……いや、これも彼に与えられたものだったっけ。窓のないこの部屋には、華やかな装飾が施されたクイーンサイズのベッドと、彼の着せ替え人形にさせられている時や行為をする時に使うミラーだけが置かれている。時計もないから今が昼なのか夜なのか分からない。だが、躾られた身体はいつも決まった時間に目覚める。彼が帰ってくる少し前だ。
いつも深紅のランジェリーだけを身につけているので、これといって準備することも無い。布団を整えて彼に頂いた香水を身に纏うくらいだ。ローズのそれに包まれてベッドに飛び込むと、まるで薔薇の咲く花畑にいるような気分になる。薔薇の花冠を頭にのせた私が夕日を浴びながら微笑んでいるところを想像する。これが私の少ない楽しみだった。だが、ドアの開く音でその夢は崩れ落ちる。

「帰ったぞ、鴇子。いい子にしていたか?」
「……はい」

天蓋は私を閉じ込める檻のようだった。私の主人はそれを開けて私に触れる。レースカーテンに遮られ二人きりの世界が創られた。彼はベッドに横になり、繋いだままの私の手を自分の隣へと引き寄せた。誘われるがままに彼の腕の中に捕らえられてしまった。私のと同じローズの香水のはずなのに、彼が付けるだけで一気に印象が変わる。

「……少し面倒事が起きてた。明日は仕事だ。その代わり、今日は思う存分お前を楽しもう」

バーガンディーの唇が首元に触れた。これだけで頬を染めていた頃が懐かしい。自分より十五、六年上の大人に囲われて愛されるということが怖くて、今すぐにでも解放されたかった。でも殺されるのも怖くて、抵抗なんかできるはずもなくって、震えているところに思春期特有の好奇心が湧いてくるのだ。何が何だか自分でもよく分からなかった。周りの子に比べて性的経験が少なかった自分にとって、口内に快楽を与えてくれる接吻がどれだけ魅力的だっただろうか。だんだんと絆されていくのを感じていた。

「ご主人様、ご主人様っ……!」
「何を悲しむことがある?お前はこの俺の元で、無知なまま愛されていればいいんだ」
「どうしよう、私このままじゃおかしくなってしまいます。今までは接吻でさえ恥ずかしくてどうにかなりそうだったのに今になっては物足りないと感じてしまうのです。ご主人様、私を嫌わないで。私が快楽を我慢できない淫乱になっても私を捨てないで……!」

そう言って泣きつくと、彼は心底くだらないとでも言うかのように鼻で笑った。日も浴びずに閉じ込められているせいで気が滅入っていたのだろう。誘拐犯に嫌わないで欲しいなどと言って甘えるなど、ここに来たばかりの私が聞いたら衝撃のあまり泣き出してもおかしくない。情けなく泣きじゃくる私を抱きながら頭を撫でた。やっとのことで落ち着いた私に口付けると、彼は誰かに作らせたのか、ナッツのカッサータを持ってきてくれた。

「んぐ、んぐ、ひっく」
「少し落ち着け。そんなに好きなのか?」
「お母さん、お父さん、お姉ちゃん……」

しまった。そう思った頃にはもう遅かった。彼の表情が固くなるのが目に見えて分かった。今日みたいに泣いた日に、故郷の母が作ってくれたのもナッツのカッサータだった。今とは異なる名前で呼ばれてキッチンへ向かう。母と父と姉の四人でテーブルを囲んで食べたそれはもっと甘かったが、故郷のことが思い出されてしまって我慢ならなかった。彼は膝を抱えて再び泣き出した私から皿を取り上げて、枕の方へ私を放り投げた。

「あ、あっ、ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
「俺といる時に他の人間のことを考えるなと、何度言ったら分かるんだ?ガキのくせして俺に酔っているお前が主人に逆らえると思うのか?俺の命令に背いたらどうなるのか……身をもって分からせてやる」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「恐怖で支配されるのか、快楽で支配されるのか……お前が選べ」

恐怖というのは暴力のことだろうが、快楽だって恐怖であることに違いは無い。私の手首を締め付けるように強く握っている手に口元を寄せた。

「私は貴方のものです。主人の命令を守れない馬鹿な私を罰してください。貴方の思うように私を壊して……」

少しでも楽になりたいという思いからか、彼の所有物であるという自意識からか、気づくと私はそんな言葉を口にしていた。それを聞いた彼は玩具を見つけた子供のように口角を上げたが、その後は名の通り悪魔のようだった。どこからか持ち出した鞭のせいで私の肌は赤く腫れ上がり、肩や腕には噛み跡だらけ。白濁の伝う私の脚は未だに震えている。情けを与えられたそこは彼が恋しいのか何かを探すように蠢いている。最後の方の記憶はぼやけて闇の中に消えた。
隣に熱を残したまま彼は消えてしまっていた。私はその熱にしがみつき、薔薇の香りを追いながら惨めに自分を慰めた。このベッドで彼に愛されることが、私の運命なのだと確信している。運命から逃れることはできない。羽根の折れた鳥が籠の中で朽ちていくように、私も彼に飼い殺されてしまうのだろう。そう思う頃には、もう悲しいと嘆く気力もなかった。






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