我が哀をくらえ





高校一年の時、私には付き合っていた彼がいた。思春期というのは大人が異常なほど魅力的に思えてしまう時期である。いざ成人してみれば大人は腹黒くてつまらない生き物でしかない。夢と希望に満ち溢れていたあの頃に戻りたいと思う時もある。そんなことは夢物語でもない限り有り得ない話であるが、当時の彼との交際はまさに夢物語のように儚い、人生の大事な一欠片であった。大切なものや見られたくないものに鍵をかけるのと同じように、私はその頃の思い出を心から大事にする反面、それについて誰かに話したことはなかった。

杜王駅の北口は東京から進出してきた洒落た喫茶店やレストラン、昔から営業している老舗の蕎麦屋や和菓子屋などが並ぶ非常に賑わっているエリアだ。私が初めてのバイトで選んだのは新しく開店したばかりの花屋さんだった。バイトを始めて最初の土曜日、北口の鳥の銅像の前に立ってチラシ配りをしていると、少し派手な色のスーツの男の人が私が配ったチラシを手に立ち止まった。

「あの、何か……?」
「いやあ、こんな寒いのに大変だろうと思ってね。当たった手が冷たかったのでつい」

そんなふうに声をかけられても不快感はなかった。彼の落ち着いた声と話し方は私の心にいつの間にか入り込んで警戒心を奪ってしまう。その日はその会話だけで終わったが、彼は日曜日も銅像の前に来た。昨日と同じサラリーマンらしい黒のブリーフケースは左手に、右手には近くの雑貨屋のロゴが入った茶色の紙袋が握られていた。

「手袋だよ。さっき君を見かけたんだが、あまりにも震えているから心配になってね」

そう言って既にタグが取られている手袋を私の手に丁寧にはめた。雪のように真っ白なそれは私の熱を貯めて手を暖かく包み込む。思わず彼の手を握ってお礼を言えば、彼は一瞬驚いて間が空いた後に表情を緩ませた。
今覚えば彼は私ではなく私の手を心配していたのかもしれない。後で詳しく話すが、彼は極度の手フェチで、綺麗に手入れがされている艶やかな手だけで興奮できるような性癖の持ち主であった。私のことを嫌いだった訳ではないのだろうが好きだったのかどうかも分からない。一つ明らかなのは、彼は私の手に興奮していたということだ。

「えへへ、ありがとうございます。良かったら今度駅前の花屋さんに来てくれませんか?なにかお礼をさせてください」
「礼には及ばないよ。だが、これから花を買う時はそこで買わせてもらおうかな」

それから彼はうちの常連になり、いつもの白い花束に時々薄い水色や緑の花を混ぜて買うことがあった。清潔感のあるそれらの花言葉は大抵『純粋』とか『清らかさ』とかそういった類の言葉だったが、彼がそれに当てはまるような人物かと言われると頷けなかった。花言葉なんて意識して買ってる訳ではないだろうが、魅力的なところもあるとはいえ彼は怪しいところだらけだった。

出会いの話はこれくらいにしよう。初めの私たちの関係はアルバイトと常連客で、その関係性も概ね順調だった。極端に近づくことも離れることもない、程よい距離感。
それが変わったのは進級したばかりの高二の春のこと。いつの間にか仕事が休みの日に二人でお茶をしたり買い物に行ったりするようになっていた。歳は離れているが、彼は人の話を聞くのが上手で私たちの会話が途絶えて居心地が悪くなるようなことはなかった。そしてだんだんと距離は近くなり、ベンチに座る時も隙間が指一本程度しかないのではないかというくらいで、しまいには手が頻繁に触れ合うようになっていた。

「吉影さん、私、貴方に似合うような大人な女性ではないのかもしれないけれど、貴方のことが好き……」

そんなことを言ってしまえば、私たちの距離感はより近づいて、ついには手を繋いだり抱き合ったりするようになった。だが普通の恋人同士と違ったのは、スキンシップの大半は私の手と行われていたことであろう。プロ並みのテクニックを持つ彼のハンドマッサージを受けるといつも心地よくて身体が震えてしまう。それを我慢すれば、いい子だね、と優しい声で褒めてくれるので、私はいつも身体も心も溶かされてしまったような気分になった。

八月中旬、近くの神社で行われる夏祭りに行くことになった。その予定を立て始めた頃はまだ蝉が鳴き始めたばかりの七月だった。それに向けて彼が水風船モチーフのカラフルなピアスを買ってくれたので、私は心躍るような気分で毎日を過ごしていた。浴衣は白地に牡丹の花が描かれた派手すぎないものを。髪はどうしようか、香水はどうしようか、と一ヶ月も前から忙しなく考えて慌てている私を、彼は風のよく通る涼しい居間で冷えた麦茶を飲みながら見ていた。

「吉影さん吉影さん、私にはどっちが似合うと思いますか?」
「そうだな……私は派手すぎないものが好きだがね。鴇子なら少し装飾が多いものでも似合うと思うよ」
「もう、そう言ってくださるのは嬉しいけど、結局決められないじゃないですか……!」

だが、彼の贈ってくれたピアスも、牡丹の浴衣も、頭の中で完成間近まで迫っていた全ての計画は台無しになった。彼からの連絡が突然途絶え、家に出入りしている形跡もない。学校を休んで家で泣く日もあった。私の精神は限界まですり減って、彼の名前を呟きながら海岸沿いをとぼとぼ歩く日もあった。夏祭りの日になっても彼は現れず、ピアスは宝箱の奥底に隠されることになった。
大学生になって上京した今、飲み会や合コンに誘われたこともあるが一度も出席したことはない。男の人に言い寄られても全て断っている。私の恋人は一生彼であるからだ。あれから一度も会えていないが、別に別れを告げられたとか、彼が浮気したとか、そんなことは起きていない。もし彼が生きているとしたら会いたい。もしそうでないなら私は一生そのことを知らないままでいい。
あれから故郷の杜王町には帰っていない。彼に会えるかもしれないと思うと同時に彼の訃報を知らされるのが怖かった。きっとこれから夏が来る度、行けなかった夏祭りのことを思い出すのだろう。私はポストに入っていた大学の夏祭りのチラシを丸めてゴミ箱に捨てた。







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