お星さまと夢のしるべ
※ネタバレ注意
少女は緑色の吹き棒を片手に黄昏の空を眺めていた。涼しい風が潮のかおりを運び、シャボン玉は西へと流れていく。儚げに揺れるそれを眺めていれば、芝生を踏みつける音が聞こえて少女ははっと振り返った。
「だれ?」
水兵の着るようなセーラー服を身につけた青年は気まずそうにして少女から目を逸らし、頭を搔いた。どこか見覚えがあると感じたのだ。自分の『能力』であるシャボン玉と、彼女の吹いていたそれが重なったのだ。白地に水色のリボンがついた服もどこか自分に似ている。
ただの偶然かもしれない。自分の思い違いかもしれない。そう思っても、自分の由来を知らない青年にとっては記憶を取り戻すなめの大切なカギだった。少女の横、だが少し離れた所に少年は座り込んだ。
「お、お兄ちゃん?お兄ちゃんなの?」
少女は身を乗り出した。
突然の出来事に少年は口をぱくぱくと開閉させただけで、声を出すことができなかった。シャボン液が指に垂れるのも気にしない。少女は地面に乱雑にそれを置いて少年の肩を掴み、震えながら話し始めた。
「で、でも……この人、お兄ちゃんじゃないッ!でも、でもでも、すっごく似てるわ。君、名前は?」
「ひ、東方定助……だけど」
やっとのことで出した声はやけに頼りなかった。本当に自分の妹なのだろうか。記憶を失っている今自分で確かめる術はない。少女は顎に片手を添えて、探偵のように定助を凝視している。そしてだんだんと距離が近づく。少女は定助を抱きしめた。
「洗剤の匂いは違う。抱き心地は似てるかも?……心臓の音が少し早いね。定助くん、私のこと分からない?」
「いやぁ、さっぱり……」
「そう。私は萩宮鴇子。十九歳で、趣味は釣り。……まあ、こんなこと言っても何も覚えてないのかもしれないけれど」
もっと定助くんのことが知りたい。そう言って鴇子は定助のことをさらに強く抱きしめた。その鼓動にどこか懐かしさを覚えた。怖い夢を見て眠れないとき、テストで悪い点を取ってしまったとき、友達と喧嘩してしまったとき。そうして泣きながら双子兄の元に行って、ぎゅうと抱きしめると、彼女の体は兄の心の奥底から響く力強い鼓動に包まれるのだ。力強く、そして優しい。子守唄のようなその音に揺さぶられて、は嫌なことを全て忘れることができた。そんな鼓動が今ここにある。
「オレ、昔の記憶が無いんだ。今は東方家にお世話になっている。だから君が俺の妹なのかどうかもよく分からない。でも……」
「ごめんなさい。私も、決定的な証拠はないの。ただ似てるというだけで」
定助には十五か十六くらいに見えた少女が、幼稚園児のようにシャボン玉を吹いている姿は可笑しかった。でもその後ろ姿が妙に美しくて思わず近づいてしまったのだ。今思えば、それは罠にかかった獲物のようで、可笑しいのはむしろ自分の方だった。
「東方って……フルーツ屋さんの?」
「うん。君も来るか?いや、あの家の人たちに会わせるのはな……やっぱりオレが君の家に行くよ」
悪い人ではないが彼らは個性的すぎる。定助がそう言えば鴇子は慌てて体を離した。
「い、いいよ、今日はもう夕方だしね。急に夜出かけたらおうちの人も心配するでしょ?だから、それはまた後日に……またね!」
鴇子はシャボン玉のおもちゃを片付けるのも忘れて走って行った。定助は確かに女の子の家に急に押しかけようとするのは失礼だったかもな、と少し反省した。太陽が山々に隠れ、杜王町にも夜が迫っている。人々が家に帰り始める時間帯だ。
「お、定助か。お前シャボン玉なんかやんのかァ〜?ハハッ、子供かよ!」
ゲラゲラと意地悪に笑う常秀に適当な相槌を返して、定助は自分の部屋に向かった。今は鴇子のことで頭がいっぱいだ。抱きしめられた時の石鹸の爽やかな香りや、彼女の速い鼓動や、十九歳にしては幼くてかわいらしい声など、ぐるぐると頭を回るのはすべて彼女のことばかりだった。常秀には兄妹がたくさんいる。きっと兄弟とは彼らのように明るくて楽しいものなのだろう。鴇子も幼少期は兄である自分に甘えてきたりしたのだろうか。そんな思い出せない記憶を無理矢理引き摺り出そうとしたが、康穂に発見される以前のことはどうしても思い出せなかった。